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シナトラ研究-13: 福岡ドームの後にあった最後の最後のコンサートは完璧だった Frank Sinatra’s Drummer Tells the Story of His Final Concert by Gregg Field●2015/12/11

1991年から1995年にかけ、フランクシナトラ の最後のドラマーだったグレッグ・フィールドが生誕100年にVanity Fairにシナトラの最後のコンサートついて記事を寄せている。秀逸記事。文才を感じる。グラミーを7回受賞したプロデューサー・音楽家とある。

グレッグ・フィールドは、17歳の時にカウントベイシーバンドと一緒に演奏する機会に「偶然」恵まれた人!すごく強運の人!"When you start following your passion, the door starts opening for you!/君が夢中になっているものを真剣に追いかけると、ドアが次々に開いていくんだよ!" と語っている。

このVanity Fairの記事によると、シナトラの最後の公演はナタリー・コールが前座だった1994年12月の福岡ドームのコンサートだったが、実際には、その後に招待制のコンサートで歌っていた。 以下、福岡にコンサートについて抜粋させていただく

旅は最初から不運でした。フランクはカーク・ケルコリアンの飛行機を借りており、通常12時間のノンストップの商用便が、2回の燃料補給を経て16時間のマラソンになりました。コンサートまで24時間を切った時点で、フランクは疲れ果てた様子でホテルに到着しました。
フランクは日本でも絶大な人気を誇っていました。コンサートが行われたのは30,000人収容の福岡ドームの野球場でしたが、多くのファンがタキシードやドレスを着てシナトラの盛大な復帰を祝いました。コンサートが始まる数時間前に到着したファンもいました。
「レディース・アンド・ジェントルメン、フランク・シナトラ!」という声がスタジアムに響いた瞬間、何かがおかしいと感じました。フランクはゆっくりと動き、目はうつろで、混乱した様子でした。コンサートが進むにつれ、彼は歌詞を忘れ、指揮者である息子のフランク・ジュニアを何度も紹介しました。フランク・ジュニアはできるだけ控えめに指揮台を離れ、父を助けようとしましたが、効果はありませんでした。…
翌夜のパフォーマンスはさらに悪化し、フランクはどの曲を歌っているかさえ思い出せなくなりました。
コンサートの終盤に差し掛かり、「One for My Baby」のおなじみのイントロが始まりました。フランクはピアノに歩み寄り、タバコに火をつけ、乾杯の仕草をしてウイスキーを一口飲みました。それはほとんど小道具のようでした。数秒後、彼は歌詞を見失い、言葉につまずきました。彼はなんとか「We’re drinkin’, my friend, to the end…(友よ、終わりまで飲もう…)」と歌い出しました。
その夜がフランク・シナトラの最後の公演でした。私たち—彼の友人やミュージシャン、家族、そして30,000人の日本のファン—は誰一人として、その場で歴史を目撃していることに気づいていませんでした。フランクでさえも。

https://www.vanityfair.com/culture/2015/12/frank-sinatra-final-concert-gregg-field-drummer  AI 翻訳

1995年2月25日に最後の最後のコンサートがあった。これは完璧だった。

それは、パームデザートで開催された招待制のフランク・シナトラ・セレブリティ・インビテーショナル・ガラでした。フランクが一曲か二曲歌ってから、皆をバーへ送り出すのが恒例でした。簡単なパフォーマンスのはずでしたが、やはりパフォーマンスはパフォーマンスです。
その日の午後、リハーサルでフランクに会ったとき、彼は別人のように見えました。日焼けして休息も十分で、機嫌も良く、歌い出す前に「ショットグラスを飲み込んだ気がするよ」と冗談を言うほどでした。
その夜、彼は「I’ve Got the World on a String」で幕を開けました。それは昔ながらのフランクそのもので、歌詞も音も一つも間違えませんでした。そして次の曲を呼び、その次の曲、そのまた次の曲と続きました。ステージを降りる頃には、フランクが6曲のクラシックナンバーを披露するミニ・シナトラ・コンサートになっていました。そしてマイクを手に、観客を魅了しながら彼は最後のメッセージを歌いました。「The best is yet to come, come the day you’re mine... And I’m gonna make you mine!」それは完璧でした。フランクが頂点に立ち、すべてを掌握し、そして冷え込む砂漠の夜に消えていきました。

同上

そしてこのエッセーとでも読みたくなる記事の終わりの余韻に浸っている。

フランクシナトラの人生を辿っていくと、この世に生を受け、フィールドが語っている様に、情熱を持ち続け、開いていくドアの先々で自分の使命を達し、老成して、そしてそんな人でも終焉が訪れる人の人生がよく見えてくる。

この記事はこう終わっていた。同年父の日にディナーに招かれたのがフィールドがシナトラに会った最後だった。

“See ya, pally,” he said.
At that moment all my Sinatra times turned into memories.
Driving home I had “Come Fly with Me” blasting in the car. It reminded me of a favorite toast of Frank’s: “May you live to be a hundred and may the last voice you hear be mine!”
If I can’t have the former, the latter will do.
「じゃあな、相棒」と彼は言いました。
その瞬間、私の中のシナトラの時がすべて思い出に変わりました。
車で帰る途中、「Come Fly with Me」を大音量で流しました。それは、フランクのお気に入りの乾杯の言葉を思い出させました。「100歳まで生きて、最後に聞く声が私のものでありますように!」
前者が叶わないなら、後者で十分です。

同上

シナトラ研究 資料


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