サヨナラ罪悪感
記憶の新しいうちに整理したくて
講座の休憩時間に書くことにしました
私が長女の中に自分自身を見て
長女を受け入れられないのは自分自身を受け入れられていないからだ
と気づいてから
私の中にゆらゆらと浮かんでいたキーワードは2つ
「あきらめること」そして「罪悪感」
子供達に対して注意したり指摘することをやめること
例えば自分のお部屋の掃除とかスクリーンタイムをなあなあにしてることなど私の中ではとてもネガティブな捉え方をしていた
「あきらめよう…」って
もしかして自分の価値観を押し付けるエゴかも知れないとも思ったし
お互いが嫌な思いをするのなら
もう放っておけばいい
彼女達の人生なのだから
でもどこかでなぜか割り切れないものがあって
伝えるべきことを放棄した罪悪感のようなものを常に感じていた
なぜなんだろう...と考えて戻ってきたのは
小さい頃の自分自身
物事を続けられない
あきらめが早く、何に挑戦しても達成すること無く辞めてしまう自分にNOを言い続けてきた。そんな自分は嫌だったし、いつしかそれは巨大な劣等感のようなものに変わっていった。
だから
私はあきらめることに執着していたんだ
そしてあきらめること=ネガティブで悪いことだと捉えていたから
罪悪感は拭えなかった
あきらめることのポジティブな捉え方は受け入れること
ありのままを受け入れること
まずは沢山好奇心をもって色々なことにチャレンジした自分を認めてあげよう。お母さんに沢山迷惑や苦労を掛けたけれど、勇気を持って人と違う進路を進んだ事を認めてあげよう
そんな自分を許してあげよう
さゆりさんが
受け入れることは許すことというお話をしてくださった。
私は彼女たちに委ねて、
ともすれば不十分な「親」である自分を許して受け入れるんだ。
私は彼女たちをあきらめるんじゃない
私は自分をあきらめたんじゃない
自分が不十分であることに罪悪感を感じなくていい
自分が精一杯の愛をもって彼女たちと暮らしていることを
誰よりもわかっているのは私自身なんだから
心がすーっと軽くなった
罪悪感を手放せたんだ