47歳、絶望の一年が終わった。友人の死、そしてその先を生きる…
47歳。この年に訪れた絶望の意味を考える。
その年の春先、同じ歳の友人が亡くなった。
27歳で出会い、まるで生き別れた双子が離れていた時間を取り戻すかのように仲良くなった私たち。
共通点はたくさんあった。
年齢、部活、結婚した歳、夫の境遇、なかなか子どもが出来ないことや嫁ぎ先での立ち位置など。お互い家のインテリアの趣味が似ていたのにも驚いた。
夫はそれぞれ中小企業の後継者で、傍からは恵まれたように見えるらしい。でも地方に多い同族企業で親や兄弟など親族一同が働いている。お察しいただけるだろうか。
もちろん、あからさまにいじめらたり、嫁いびりされたことはないけれど、人として、働き手としてはほとんど認めてもらえることが少ない。
ちなみに、私の場合は「世間体が悪い」という理由で違う会社で働くことは許されなかった。
こんなこともあった。
ある日、近所の人に突然お腹を触られて「まだできないの?」と言われた。一瞬何が起きたのか理解できず、20代の私は泣くしかなかった。今はそんなことありえないけど、平成一桁の時代だから仕方がない。
普通は嫁の責務?を果たそうと妊活をするのだろう。
でも私は違う。自分たちが心から子どもが欲しいと思えなければ、妊活はしたくなかった。自分の人格は自分で守るしかないのだ。
私は意地になって8cmヒールを履き続けた。ぺたんこの靴を履いて歩こうものなら妊娠したと噂が広まるから。
でも20代の不安定な精神ではそう強くはなれない。鬱になるほど悩んで苦しかったけど誰にも話せなかった。
そんな頃に、同じ境遇の彼女と出会ったのだ。
先にも書いたように、まるで生き別れたた双子が離れていた時間を取り戻すかのように、いろんなことを話し、いくつもの共通点を嬉しがり、ありとあらゆる悩みや不満を分かち合った。
これまでの友人とは全然違う。
彼女と過ごした10年は、最強に美しくキラキラと輝いた濃密な時間だった。
それからまた10年が過ぎ、出会ってから20年目の春のはじめに、私は彼女への弔辞を読んだ。
無論、私には弔辞を読む資格がないことを自分自身がいちばんよくわかっている。
彼女に最後に会ったのは37歳で、47歳までの10年間に私は一度も彼女と会わなかったのだ。
そんな私が弔辞を読むなどと、彼女は認めないだろう。
喧嘩をして会わなくなったわけではない。
だって、一度たりとも喧嘩をしたり、仲違いしたことはなかったもの。
でも、私はもう出会った頃の私じゃなくなりつつあった。
30代になり、私は「家業の嫁」を放棄し新たな仕事を始めたので、だんだん仕事中心の生活になっていき、時間の使い方が変わり、価値観も変わっていった。
次第に毎月会っていたのが2か月に一度、シーズンに一度と減っていったが、それでも誘われて京都や名古屋に旅行もした。
そして震災。詳細は割愛するけど、私は家を失い、会社を立て直すことに無我夢中だった。でもそれだけではない。
完全に会わなくなってからも、私の耳に入る彼女の近況は華やかで、楽しくやっている噂は私の罪悪感を薄めてくれた。
でも、思えばあるときを境にパタリと噂が途絶えていた。
誰からも噂を聞かなくなったころ、彼女は病魔に侵されていた。
病院に口止めし、親兄弟にも別居中の夫にも、誰にも打ち明けず、ひとり闘病して亡くなった。
なんということだろうか。
発症から亡くなるまでの約6年という歳月をどんな思いで過ごしていたのか。ましてやその事実を、誰もが亡くなって初めて知ることになろうとは。普通に考えても隠し通すなんて不可能に近い。
まるでドラマのシナリオのよう。
だから知らせを聞いても死と彼女が結びつかず、頭の中で「何故?」「嘘だ!」がせめぎ合うまま彼女に家に向かった。
室内は10年前と何も変わらず時間が止まっているかのようだった。ただ、リビングには物が散乱していて、体の自由があまり利かなくなった彼女がひとりで過ごしたことを物語っている。そう思うと、とてもせつなく、たまらなく苦しかった。
ところで、私が彼女と会わなくなった理由について。
彼女は若いころの母によく似ていた。
強がりで天邪鬼で、常に不満を抱え不満に支配されて生きにくそうな母。本当はやさしい人なのに、心と裏腹な言葉でまわりを抑圧し頭ごなしに否定してしまう。
彼女もそんなところがあった。特に彼女の夫に対して。
私たち夫婦が一緒にいても何の役にも立たず、不穏な場面はどんどんエスカレートして苦痛だったし、仲裁に入ることにも疲れてしまった。
でも、私には咎めることができなかった。友人なら何か言ってあげるべきなのでは?と悩んだこともあるが、でも他人が立ち入れることではない。
だって、正しいことがだけがすべてではないし、彼女だけが拗らせたわけではないのだから。
きっと愛を求めて彷徨っているほうがつらかったよね。
2人の時は私の腕に手をまわして歩いたり、テーブル席で並んで座りたがった。ほかの友人を交えて会うのも嫌がり、わかりやすく可愛い焼きもちを妬いた。
私にしてくれたように、自分の夫にもできたらよかったのに。
それなのに、素直に甘えてくれた彼女の手を離してしまったのだ。
結局、私は自分のことしか考えていない薄情な人間なのだ。
彼女が亡くなった今、10年間のブランクを埋める日々は永遠にやってこない。この痛みを抱えて生きていくことが戒めだと思っている。
葬儀会場は奇妙な空気に包まれていた。
共通の知人たちも誰ひとり彼女の病を知らなかったため驚きを隠せず、声にすることができない無音の吹き出しで溢れかえっていた。
きっと病を告知されてから少しずつ人間関係を断っていったんだと思う。それはどんな意志だったのか。それほどまでに人を遠ざけたのはなぜなの?
祭壇の前、薄桃色の棺の中で、友人は気高く誇らしげに美しく眠っている。
そして私は弔辞を読んだ。
自分の薄情さを呪い、心からの懺悔と愛を込めて。
「ひとりにしてごめん」
「私が友人代表でごめん」
「大好きだよ」
半年後、私は10年かけて育て上げた事業を一瞬で失った。
彼女と会わなくなった10年間、寝食を忘れて慈しみ育てたわが子のような事業を。どんなにお金を積んでも、どんな力を持ってしても抗えない力にひれ伏すしかなく、言い表せない悲しみに茫然自失し、47歳、絶望の一年が終わった。
あれから、よく彼女を思い出す。
誕生日、命日、シャンパンを飲むとき、とろけるチーズが嫌いなのにピザを食べたがったり、花粉症で可愛いくしゃみをする姿。
同じ年に生まれ、人生でいくつもの共通点があり、いちばん綺麗で輝いた時間を一緒に過ごした同士。あの濃密な時間があったから、私はつらかった時代を乗り越えられた。
そして51歳の私は、失った事業からようやく未練がなくなりつつあり、しがらみから解き放たれ自由に生きられるようになった。
ねえ、年を重ねることも悪くはないよ。
「綺麗で可愛いおばあちゃんになろうね」
と笑い合った彼女は、綺麗で美しいまま47歳で逝ってしまったけど、私の人生はまだこの先もありそう。
だから人生後半は、自分なりの美学で軽やかに生きていこう。最後まで誇り高く気高く生きた美しい友人のように。
あなたが生きたかった50代を、その先の人生を。
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