『殺し屋1』:メモ
『殺し屋1』全10巻をPrime Reading(無料)で読んだ。
一見すると、「超暴力サドマゾ漫画」「血みどろヤクザ漫画」「壮絶いじめのトラウマ漫画」だけど、正体は、とことん「写実的」なギャグ漫画だよね。つまり、「バカボン」系や「トムとジェリー」系の不条理ドタバタギャクマンガを徹底的に「写実的」に描いたらこうなりました、と。
「1」や垣原などの「極端」なキャラクター設定も、ほぼヤクザしか住んでいない高層マンションという「どこ?」な舞台設定も、とにかく、「写実」を極めた不条理ギャグ漫画をやるための「強引設定」のように思う。ここで言う「写実」は、「超暴力=肉体破壊」が平然と展開される不条理ドタバタギャグ漫画の世界を、現実の世界で実現させて、読者にも「なるほどこういうパターンでならありえる」と思わせる表現法のこと。
なんで、ギャグ漫画だと思ったのかを考えてみたら、やっぱり、全ての登場人物が「何も考えてない」から。不条理ギャグ漫画のキャラって「何も考えてない」でしょ? それで、とにかく、でっかいハンマーで相手を叩き潰したり、ダイナマイトを口の中で爆発させたり、四六時中ドタバタやってる。
あと思ったのが、最初の数巻と最後の数巻では、作品の「人格」「視線」みたいなものが違っているってこと。最初の方では、「1」がちゃんと主人公だったのが、最後の方は完全に「脇役」になっていて、代わりに「ジジイ」が「主役」になっている。最初の方は、「超暴力マゾヤクザ」対「弱虫の神がかり暴力(=わんわん泣きながら振り回すブンブンパンチが実は無敵だったら面白い的発想)」という感じだったのが、後半では、「ジジイ」が、愚かな「人間虫」たちに「或る状況」を与えて、その振る舞いを見て面白がる、「野生動物の生態観察」の様相。
たぶん、連載漫画の宿命だよね(連載なんだよね? 知らんけど)。連載を続けていくうちに、作者が「作品の意味」を考え始めたんじゃないかな、と思う。ちょっと「高尚で深くて謎めいたモノ」を盛り込みたくなって、結果、「ジジイ」が「主役」になっちゃった。なんせ、この作品で、一番というか唯一モノを考えているキャラは「ジジイ」だけだから。つまり、「1」を掘り下げてもまあ、大したものは出てこないんだよね。高校生くらいのときに、割と凄惨なイジメに遭って、それ以来、極度の統合失調症になってっていう話は、きっと、この作品が書かれている当時で既に「よくある話」で、「今更感」しかなかっただろうから。
『殺し屋1』=「超写実的不条理ギャグ漫画」説を一旦脇におくと、これって、『バットマン』(ティム・バートン版)+『ヘルレイザー』だな、とも思った。御存知の通り、ティム・バートン版の『バットマン』では、ジョーカーは勿論、バットマンもアタマのネジが完全にどうかしているキャラ。なので、その「どうかしてる具合」を限界まで弄くれば、バットマンは「1」になり、ジョーカーは垣原になる。
あと、「ジジイ」は、『童夢』のあの爺さんに「そっくり」だ、とも思った。作品に於ける「卑怯」な立ち位置が。
そうそう、スケコマシの龍と彼女(名前忘れた)のエピソードは、なんか、他とは完全に雰囲気が違った(素を出して言うと、「胸糞悪さの質」が違った)。最初に全部を決めて描き始めたいうより、描きながら各キャラクターの「殺し方」を考えてますって白状しているような「違い」だった。だから、連載漫画だと思ったんだけどね、それはどっちでもいいや。