『霊的法則』と『赦し(許し)』
光の勢力から『霊的法則』という観点からの『赦し(許し)』について記事にすることを依頼されました。
何時もの事ですが、一瞬で情報が降りてくる事柄の全体像をご説明するのって大変です。何処からご説明すれば伝わり易いのかなぁ?…とか(^▽^;)
そうですねぇ、今回のテーマについて簡単にご説明しますと、『霊的法則』の観点からの『赦す』という行為は3Dの人間の世界の『赦す』とは方向性がちょっと違うと申しますか、その辺りについての記事…といったところでしょうか。
暫く前からこちらのテーマで記事を投稿するよう依頼されておりまして、
とある本に記載されている内容を考察する…という方向性での投稿を促されておりました。
ですので私がある書籍を読み、その内容についての考察レポートのような扱いで読んで頂けますと幸いでございます。
個人的には「本を読めば全部書いてあるのに?何故わざわざ?」とか、
「赦し…は本気で覚悟を決めてやろうと思ってやるもの。大きなお世話でしょ!」とか考えていました。ですがあまりに促されるので、アメンバー限定公開記事の方で”さわり”だけご紹介しました。そしてそれで終わりにするつもりでした。霊的な学びをするかしないかは自分で選択するものですから。
とは言え私の立ち位置からはうかがい知れない、全体像を把握している光の勢力だからこその視点らしので…。
先ずはおさらい
『マスター・サン・ジェルマンの教え”アイ・アムの講話”』ゴットフリー・レイ・キング著より
私見ですが『霊的法則』の観点からの『赦し(許し)』について、コチラの書籍以上に端的かつ懇切丁寧に説明しているものにお目にかかった事はないです。流石、アセンデットビーイング、説明に無駄が全くないので、”外的自己が「赦し」に抵抗して逃げ道から逃走する”隙を与えないところが素晴らしいです♡もちろん自意識が外的自己を掌握出来ていれば…ですけど。
では、今回考察するテーマはコチラ↓
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【たとえばある人が意識で何かを受け入れる。彼の関心がそこへ向けられることで、意識と対象物が一体化する。…省略…たとえ見聞きした対象がどんなものであっても、そこに関心がとどまる限り、何らかの形で自分の意識と対象物が一致し、受け入れた状態だと言えよう】
【正しく機能しなかった事柄を考え続けるのは、愚行以外のなにものでもない】
【間違った命令を下し続けながら、何らかの形で軌道修正がなされ、好結果がもたらされるとは考えぬことだ。そんなことは起こりようがない。命令に見合った結果になるだけだ】
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つまり自分が”気に入らない事柄”に意識を向けてしまうという行為は、その”気に入らない事柄”を自分が体験するよう許可する…という命令を下しているという事。ですので、自分が”気に入らない事柄”と金輪際キッパリと縁を切りたかったら、もうこれっきり関心を向けない…それ以外に方法が無いという事。
つまり『霊的法則』の観点から『赦しを与える』とは、過去に被った不快な出来事などを”すっかり忘れてしまう”許可を自分に与える事。
次に素朴な疑問として、
「自分が過去に体験した”不愉快な出来事”ならば、自分が忘れてしまえば(関心を向けない)済むのかもしれないけれども、例えば自分の目に映る自分以外の人が苦しんでいたり、世界にはびこる”受け入れがたい事柄”については?忘れてしまうって言う事は、要するに”自分に関係が無いから…どうでも良いって事なの?”それは人としてどうなの?」
と言うのがありますね。
その辺りについて考察してみたいと思います。
善良・他人の気持ちが分かる思いやりのある人…であるということ
”善良”であったり、”他人を慮れる人”…というのは良い特質ですよね。
よく考察する必要があるのは、その使い方です。
例えば自分の目の前で”苦悩”している人がいたとします。(自分にとって近しい人でもTVのNEWSなどで目にした事柄でも)
通常はその”苦悩”を慮り、その”苦悩”の原因となった事物(人でも状況でも)に対し受け入れがたい感情を抱きますよね。そして少なくとも、その”苦悩”している人が”苦悩”から解放されるまでは”苦悩の原因”に対して厳しい態度(批判的立場)をとります。
↑このスタンスが3D世界での”善良”であり”他人の気持ちに配慮出来る人”…が
とる典型的なものではないでしょうか。
ですが、抜粋させて頂いた”考察するテーマ”に沿って考えてみますと、上記のスタンスですとその”善良さ”が返ってアダになるのでございます。
3つあります。
一つ目、自分が関心を向けた事物と自分が良くも悪くも一体化してしまい、そのような出来事が更に顕現化するように命令を下していることになってしまう事。(つまり何時までたっても繰り返される)
二つ目、”苦悩”している人に、その人の気持ちを慮っているつもりが、自分の目の前に存在する人を”苦悩”している人…という心の姿勢でその人に接するものだから、図らずとも”苦悩”を増殖してしまっている結果になってしまっているという事。(”苦悩”している人…という事に関心を向けているので)
三つ目、加害者(人・状況・環境など)の改善を希望していたとしても、、結局は”誤った行為”、受け入れがたい状況・環境に関心を向けてしまっている訳ですから、こちらも図らずも誤った事柄を増殖する結果となってしまう事。
ですから、3Dの世間で言われているところの”善良な人”が取りうる典型的な姿勢とは、”火に油を注ぐ”ことになってしまうのです。
自分は”善良”でいるつもりなんですけどね。
そして”善良”でいる事は人として望ましい…と考えているものだから、
その姿勢・態度を辞める事は”善良であること”を捨て去り”非道な人”の仲間入りをするみたいな気持ちになってしまうんですよね。
でも人として”善良さ”を捨て去る必要は全くなくって、霊的法則に沿って、真の意味で完全性を表出する方向性で”善良さ”を示せば良いんですよ。
”法則”は文字通り”法則”なので、望む結果から逆算して”=(答え)”の前の部分を当てはめれば済む話なんです。
逆にどんなに善かれと思っていても、当てはめている部分が違っていては、
希望通りの結果にはならない訳です。
それは(霊的法則)、外的自己の個人的好みなどは全く考慮に入れてくれません。こちら側の心の姿勢、関心を向ける事柄を合わせるしかありません。
単純ですね。
以上をもちまして、今回の記事の終わりとさせて頂きたく存じます。
目を通して下さいました皆様には厚く御礼申し上げます。