死者の声を聴くこと

    いとうせいこう『想像ラジオ』(2013年)は、死者の声についての小説である。
 第1章、第3章、第5章は、ある男=「僕」の語りで構成される。「僕」は、東日本大震災ですでに命を落としている。にもかかわらず「僕」は、「想像ラジオ」というラジオ番組として、パーソナリティ(DJアーク)として、延々とひとり語りを続ける。「僕」は、時間に対する感覚、五感を含めた自らの身体に対する感覚がひどくあいまいなまま、しかしあらゆる感覚があやふやであることを明瞭に意識しつつあるその自分自身の意識の中で、「僕」は話す。「死者の世界」にあって、「僕」は「死者の声」を発信する。
 死者の方から発せられた声は、誰に対して届くのか。死者に対してだ。「想像ラジオ」には、メールや電話という形式で、「リスナー」からのやり取りが行われる。リスナーは、みなすでに死んだ者たちだ。死者としてのパーソナリティと、死者としてのリスナー達が、「死者の世界」の中で、「声」を交わしあう、そのような場として、「想像ラジオ」というラジオ番組がある。その「声」、話された言葉と書かれた言葉との境界がもはや焼失した死者の声は、「想像力」であり、想像力によって、彼らは交信する。


そのへんはまたおいおい話すとしてこの想像ラジオ、スポンサーはないし、それどころかラジオ局もスタジオもない。僕はマイクの前にいるわけでもないし、実のところしゃべってもいない。なのになんであなたの耳にこの僕の声が聴こえてるかって言えば、冒頭にお伝えした通り想像力なんですよ。あなたの想像力が電波であり、マイクであり、スタジオであり、電波塔であり、つまり僕の声そのものなんです。 


 「僕」は、現実世界にいたときの、あるいは生前のエピソード、特に家族にまつわるエピソードを話す。「僕」には、「草助」という一人の息子がいる。彼の幼少期について、次のように語られる。


[……]ありとあらゆる物を手に取って耳に当てて、なんか言ってるって主張し始めた時があって。あの頃の息子はつまり、僕がやってるような想像ラジオのリスナーだったんだなとさっき急に思ったんです。朝から晩まで、彼はかなりのヘビーなリスナーだった。[……]例えば、ある休日の午後だったんですけど、奥さんの持ってたけっこうぶ厚い小説を両手で持って、本の背のところに小さい耳当てて、キリンさんが困ってるって言ったことがあって。何言ってんだと思って適当にあしらってビール飲んでたら、奥さんが急に目を丸くしてこっちを見て。首の長いのが特徴のヒロインが特にその長さを強調するように首を折って朝日の中で人生の苦境に耐えるのが印象的なシーンなんだって言い始めて。 


    想像ラジオは、死者だけでなく、生きている者にも聞こえるのか。しかも、どのようにして聞こえるのか。「僕」は、草助も想像ラジオのリスナーであり、身の回りの物に耳を当てて、ラジオを聞いていたのだと、さしあたり推測する。この問いは、死者の声が生者に聞こえるのかどうかという、死者にとっての問いでもある。
 「僕」が想像ラジオを流す一つの大きな目的は、妻と息子を探すことだ。彼らが見つからないからこそ、彼らが無事かどうかがわからないからこそ、「僕」はラジオを配信し続けている。リスナーの一人は、電話を通じて、「僕」に次のように言う。


魂魄この世にとどまりて…という言葉が私の脳裏に去来しております。[……]思い残すことがあって、魂魄があの世へ向かえない。アークさん、我々は皆、この状態です。あなたもそうだ。全国で昨日、あるいは今日そうなった者たちがこのラジオを聴いている 

アークさん、あなただって恨みはらさでおくべきかと言っていい。物わりよくあの世に行く必要なんてないのです。いや、だからあなたはこうして杉の木の上にいるのでしょうな。古来、魂はふわふわと樹木の上あたりまで……ただようものと聞いております。魄は地を這う。蛇が根本に巻き付いているのもむべなるかなであります。夜を去ったのは人間だけではないのですから。そして、仏教が訪れてなお…日本人の感じ方…では、亡くなった者の魂は遠い浄土にばかりは行かなかった。それこそ樹木や岩と同化して…、生きている人間を近くから見守りました。それでいいのであります。あの世はすぐそこにある。ただ、その場合にはなくなった人間はカミホトケとなって…いる。さて、あなたは認めているようで…認めておられないけれども、元来この想像ラジオという果敢な番組…自体、基本的にこの世を去った…方々だけにだけ聴こえ、参加出来るマスコミであって…それを届けるあなたもまた同様であることを引き受けていただきたい。あなた自身…半ばあの世の…魂なのです。 


    あの世に旅立ってしまう前に、「恨み晴らさでおくべきか」という、この世に対する執念、やや単純化すれば、現世に対する未練が、「僕」をこの世にとどまらせている、当のリスナーの言葉に従えば、「僕」の「魂」に樹木あたりをただよわせ、「僕」の「魄」に地を這わせている。当のリスナーの死生観によれば、「想像ラジオ」で結びついた死者たちは、「遠い浄土」としてのあの世と、生者がいる現実世界としてのこの世とのあいだに、宙づりになって存在している。
 そして「僕」は、文字どおり「宙吊り」になっている。現実世界で、地震が起こったとき、「僕」は(詳しい経緯は語られないが)ベランダの隣に立つ木に引っかかり、体ごと宙ぶらりんになってしまう。そして、高くそびえ立った杉の木の枝に、仰向けになってぶらさがっているという自身の状態を、「僕」は視界を通して理解している。「僕」の目には、逆さまの街並み、左手に握った防水携帯、杉の木のてっぺんに止まっている一羽の白黒のハクセキレイが見えている。「僕」のこのようなありさまを、先述のひとりのリスナーは土地の氏神として例える。


あなたは…みなをよく楽しませてくれて…おります。おかげでとは言わないが…なぜかあなたは土地の…氏神のようになっていて…きているように思う。
「僕」あるいは「僕」の魂は、現実世界での土地に、「僕」がその上につり下がった樹木という具体的な場所に、存在している。

 第2章は、ある男(=「私」=「作家S」)の視点で描かれる。「私」は、現実世界に生きている。「私」は、東北の震災後ボランティアとして訪れた宮城と福島で、件の「樹上の人」に関する言い伝えを聞く。「私」は現地で、その土地に根づいた死者の声、特に樹上の人の声を聴こうとするも、聴けない。同行する者たちとの間では、死者の声を聴くことをめぐった言い争いが行われる。
 ボランティア経験の豊富な「ナオ君」は、次のように主張する。災害の犠牲者の声を聴こうとすること、亡くなった人間に思いを巡らすことは、災害に居合わせた当事者たちにとってのいわば「心の領域」であり、それに無関係な部外者が土足で踏み込むべきではない。当事者でない者が死者に対して想像でものを語ること、さらには想像力を巡らすこと自体が、死者に対する侮辱であり、暴力だ。
 青年の「木村宙太」は、それに対して、死者に対する想像力を擁護する。亡くなった人、特に災害の犠牲者が、亡くなる直前まで発していた叫び声、それに伴った恨みや怒りなどのさまざまな感情は、確かに存在した。それに対して、安易に語るべきではないとしても、当事者性にかかわらず、生者の誰かが、心の奥では思いを働かせていなければならない。
 カメラマンの「ガメさん」は、自身の体験を語る。ある年の8月初頭、広島で行われた鎮魂のセレモニーで、早朝、広島記念公園の記念碑の前で、鎮魂の歌と踊りと祈りが捧げられた。ハワイから来たシャーマンによる儀式の最中、数名しかいない公園の中で、彼はある声を聴く。それは喝采のようでもあり、子供たちの歓喜と怒号が入り混じった声のようでもあった。彼は、樹上の人について次のように言う。


僕はね、Sさん、その樹の上の人が金切り声では決してないけれども、何かを言っていることはあり得ると自分が霊魂の存在を信じているわけではないくせにね、それでもやっぱり思うんですよ。というより、[……]実際あの広島の朝の時のように遠くから聴こえる声が耳の奥に届いた気がしたんだね。[……]ただ、あの時と違ってそれは一人の男の声だったよ、Sさん。一瞬、電波が悪いところで電話をしてるみたいに言葉めいたものが切れ切れで聴こえた。妙に明るい調子だった。 


 ガメさんは、「想像ラジオ」を聴いた。そして、運転手の「コーくん」も、「私」と二人きりのときに、「想像ラジオ」が聴こえたことを告げる。ガメさんは、喉頭がんの治療を受け、手術もリハビリも終わったが、以前よりめっきりしゃべらなくなっていた。癌が転移しているのではないかと疑う者もいる。コーくんは、中学一年で阪神大震災を経験し、それから数年、言葉をしゃべらなくなったことがあった。
 「私」は、他方で、東北から東京に戻ってもなお、「想像ラジオ」を聴けずにいる。ボランティアから戻ってしばらくしてから、「私」は右耳が聴こえなくなる。耳鼻科で手術を終えると、万全ではないにしろ右耳から音は聞こえるようになったが、今度は左耳の調子が悪くなる。聴覚が過敏になり、周囲の音が、実音以上にキンキンと響くのである。両耳の不調に気を落としつつ、「私」は、(上述の二人の事情をしっているせいでもあろうか)これは「想像ラジオ」を聴くためではないか、そのために、日常的に聞いている周囲の音が変わって聴こえるのではないかと考える。それでも、その聴こえてくるはずの声は、一向に聴こえないのである。


その声が私には聴こえない。[……]樹上の人の強烈なイメージは否定しようもなく私の中に存在しているし、その姿に取り憑かれているといってもいいほどなのだが、肝心の声が耳に届かない。[……]彼は何を言っているのか。「……」言っていたのか。 


 第4章は、作家Sとその恋人の女性との会話で構成される。その女性は、すでに死んでいる。Sは彼女との会話を想像して、書く。


「そうだね……ああ、もうこんな夜中だ。今日も長い時間話しちゃったね」
「あなたは寝なくちゃ。書き過ぎてる」
「ほんとに。さすがに疲れたよ」
「私に付き合ってくれてありがとう。履歴は消さなくていいんだよね?」
「いいんだよ。僕もこの会話を残すつもりだけど、いい?」
「残してほしい。私とあなたできょうまた、新しい世界を作りました」 


 話題は、主に東北で起こった出来事についてだ。彼女は、妹の義理の父に言及する。熱中症をきっかけに入退院を繰り返すようになる。飲酒も人付き合いもやめ、食も細くなり、「鬱」に近い状態にあることから自殺を心配される。彼は、「3.11」の日、一日中イヤホンを耳に入れてラジオを聴き続ける。緊急放送が終わってからもイヤホンを外さず、それどころか、電源を切ったまま、イヤホンに耳を当ててじっとしていることもある。その姿は、前述の「草助」が本に耳を当てる姿と重なる。彼は件の「想像ラジオ」を聴いていたのか。それとも、外界の音を遮断して、震災で亡くなった死者の声に耳を傾けようとして、聴けないでいるのか。二人は、あれこれと想像を巡らせる。
 Sは一連の会話の中で、東北でのやり取りでははっきりとしなかった、「死者の声を聴くこと」についての考えを女性に伝える。


死者と共にこの国を作り直して行くしかないのに、まるで何もなかったように事態にフタをしていく僕らはなんなんだ。僕らはどうなっちゃったんだ。「……」東京大空襲の時も、[……]広島への原爆投下の時も、長崎の時も、他の数多くの災害の折も、僕らは死者と手を携えて前に進んできたんじゃないだろうか? しかし、いつからかこの国は死者を抱きしめていることができなくなったそれはなぜか? [……]声を聴かなくなったんだと思う。
[……]亡くなった人はこの世にいない。すぐに忘れて自分の人生を生きるべきだ。まったくそうだ。いつまでもとらわれていたら生き残った人の時間も奪われてしまう。でも、本当にそれだけが正しい道だろうか。亡くなった人の声に耳を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しずつ前に歩くんじゃないのか。死者と共に。 

僕の考えでは、死者の世界とでもいうような領域があって[……]そこは生者がいなければ成立しない。生きている人間が全員いなくなれば、死者もいないんだ[……]生き残った人の思い出もまた、死者がいなければ成立しない。だって誰も亡くなっていなければ、あの人が生きていればなあなんて思わないわけで。 


    生者と死者は、互いに依存し、互いを必要とするような仕方で、いわば混然一体となって存在しているのである。生者が、作家Sが、死者に対して、亡くなった恋人に対して思いを巡らし、その声を聴こうとし、想像を通して聴いた声を書いてしまうように、死者もまた、生者に己の声を届けようとする。DJアークは、妻と息子に声を届けるために、ラジオを発信し、その番組の中で、自分の声が届かない生者に対して想像を巡らせた小説を書いたりもするのだった。生者と死者は、少なくとも『想像ラジオ』というフィクションの中では、「想像力」を通して結びついている。
 以上、『想像ラジオ』の読解により、本作に見られる死生観の断片的な考察を試みたが、最後に、「時間」の問題に触れておきたい。DJアークが発信する「想像ラジオ」は、それを聴くことができる者であれば、いつでも聴くことができる。リアルタイムでも、あるいはタイムシフトでFMラジオを聴くように、放送が終わった後でも聴くことができるのである。すでに亡くなったものとしての死者は、今ここに生きている生者によって振り返られる死者は、現実世界とは別の時間の中にいる。「コーくん」が東北で聴いた『三月の水』は、その半年前、DJアークが被災後間もなくラジオで流した曲と一致する。われわれは、死者がまだ生きていた時を振り返り、まだ生きていたら今頃何をしていただろうかなどとあれこれ考えてしまう。われわれが日常的に生きる現在の時間を揺るがすものとして、死者はやってくる。Sが、死者と共に生きることを積極的に肯定しようとしたその死生観の根底には、災害の犠牲者に対して向けられる「忘却の暴力」に対する倫理的な告発のみならず、日常的な生に現前する「今ここ」の時間、単一の、貧しい時間に対して、複数の時間を与え、われわれの生を豊穣にし得る存在としての死者、その死者との交通に対する直感的な信念があったのではないかと考える。

※大学のレポートを転載。
 

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