「真のフェミニズム」と1968
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「真フェミ教徒」なるインターネットミームが存在する。これは、インターネット上において風紀委員としての役割を果たしているフェミニストを「偽のフェミニスト」とし、「本当の」男女平等を掲げる「真のフェミニズム」「真のフェミニスト」なるものが存在すると考える人達を皮肉った呼称である(最近はVtuberの件などでそういった幻想を抱く人も減ってきてはいるようで、それ自体は喜ばしいことである)。
俺としては、真フェミ教徒と呼ばれるような人たちを基本的に軽蔑してきた。なぜなら、そもそも「真のフェミニズム」なるものが存在するとして、そのように真のフェミニズムを求めようとする行為そのものが民主主義というイデオロギー等を前提にするものでしかあり得ないからである。「民主、自由、平等」なるものの欺瞞性を基本的に侮蔑している俺としては、あまり相容れる立場の人達ではなかった。それは今でも同様である。
しかし最近出された以下の記事を読んで少々認識が変わったので今回記事にした。端的に言えば、「真のフェミニズム」なるものは(真フェミ教徒が措定する場所とはズレたところにおいて)存在する、と考えるに至るようになったためである。
以上の記事は、たしかに歴史認識においておざなりな点が多々ある。例えば、そもそも「個人的なことは政治的なこと」というのはその起源からしてマルクス主義フェミニズムのスローガンではないし、60年安保と「全共闘会議運動」(全共闘?)の2つを同時期のものとしてのみ処理することは、それらの運動の正確な理解を妨げてしまうであろう(また、本筋とは関係のない批判だが、「正体」というセンセーショナルなタイトルをつけてしまうことそれ自体が「正体」の撹乱でしかないのではないか)。しかし、確かに現代のフェミニズムは第2波フェミニズムの「曲解」の上に成り立っているとは言えるのだ。
端的に言って仕舞えば、現代のフェミニズムはもはや「体制側」であるということだ。そもそも風紀委員とは現体制の秩序を守ろうとするときに現れるものではないか。これは、第2波フェミニズムが68年革命(全共闘)を背景にして出てきたことを考慮すればどうでもよい違いではない。ノンセクト新左翼による党派的左翼へのラディカルな批判は、それ自体が彼らのラディカルな「反体制」ぶりを示すものであったからである(そもそも、「個人的なことは政治的なこと」や「一人一派」といったスローガンはそれぞれ「ノンセクトラディカル」の理論化であり残滓であろう)。
68年革命がどのようなものであったのかというのを正確に説明するのは俺の力量を超えてしまうため、詳しくは他の本(絓秀実「革命的な、あまりに革命的な」、外山恒一「政治活動入門」、小阪修平「思想としての全共闘世代」等)をお読みいただきたい(注)。ここでは、端的に「正しさ=抑圧に対する革命」と表そう。抑圧の対義語は解放であり、つまり彼らが求めたものは解放である。それは(第2波)フェミニズムとて同様である。
しかし、68年革命が「勝利」して「体制側」になった結果、彼らが求めるようになったのは「開放的な構造」という自家撞着であり、それに伴い多くのスローガンに「曲解」が付随してしまった。そもそも構造というのはそれ自体が抑圧以外ではあり得ないからである(今のポリティカルコレクトネスに存在する欺瞞も、抑圧を解放と言い張るそのレトリック(というか端的に詐欺?)にあると言えよう)。それは、全共闘が暴いた「反体制側も必然的に体制側と同様の抑圧を作り出してしまう」という現実の悲劇的(喜劇的?)な証明である。そして、もしもフェミニズムが「偽」のものとなってしまったとして、それはつまりこの「勝利」の結果ではないか。一人一派はなんでもよいからとりあえず口に出すだけのただの空疎な掛け声となってしまったし(多数一派=党派性の隠蔽)、「個人的なことは政治的なこと」は、このスローガン自体が批判していたはずの「個人の政治への従属」をもたらしてしまった。それは、全体主義への最悪の回帰ではないのか。
そしてその意味において、「表現の自由」を主張するいわゆる「オタク」が「真のフェミニズム」を主張するのは当然ではあるのだ。彼らは未だに「反体制」だからである。今時、「反体制」であることになんの意味もないとしても、である。そもそも表現の自由、言論の自由とは基本的に反体制側が標榜し勝ち取るものであろう。体制側に安住する人間にとって、それらは取るに足らないフィクションだからである。「オタク」側が差別等に対する思考が浅薄であり、自らの立ち位置に鈍感であるとしても、彼らが突いている「偽のフェミニズム」の欺瞞は正鵠を射ていると言えるだろう。それはたとえ「真のフェミニズム」それ自体もジャンクなゴミであろうとも(あるいはそうであるが故に)変わらない事実である。
しかし一つ苦言を呈しておけば、問題はこうした開放的な構造=抑圧を提示する「偽のフェミニズム」に対して「真のフェミニズム」を対置すればいいということでもなければ、安直に表現の自由、言論の自由を対置すればいいということでもない。「真のフェミニズム」は常に既に「偽のフェミニズム」に転化してしまっているからであり、かつそれは表現の自由、言論の自由も同様だからである。実際、上の記事中で神崎氏の掲げる「自由」も、ネオリベ消費社会の論理の中で(のみ)称揚されるものであり、それ自体が新たな抑圧を隠蔽する68年の「曲解」である。それはどちらがより「美しい」欺瞞か、ということを競い合う出来レースにしか帰結しない上、政治的に正しくない方=反体制側の敗北は必至である。もちろん、我々は抑圧を避け得ないが故に、我々に残された選択肢はこの美しい欺瞞を競い合うことでしかないのではあろう。しかし、その対立の外に出ようとする葛藤は必要なのではないか。そして、その葛藤を生きようとしたあの時代に与えられた名前が「1968年」なのではなかろうか。
注 この3冊は、ある程度全共闘に対して共通な歴史観を採用している。当然それと相反する書物もあり、例えば小熊英二の「1968」である(ただし俺は読んでいない)。
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