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保守主義について

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 大層なタイトルで始めたはいいが、筆者はまだまだケツの青い青二才であり、とても成熟したとは言えないような人間である。そんな筆者が保守派を掲げること自体に気恥ずかしさを覚えないではないが、しかしそんな筆者だからこそ書ける保守主義観というものがあると信じ今回執筆した。悪文、駄文等目立つであろうが、最後までお読みいただければ幸いである。


 一般に保守主義が分かりにくいのは、改革主義に対する反動として現れた保守主義は確かにそれを否定するが、しかし改革等について全否定しているわけではないからであると思われる。保守主義の父と一般に言われているエドマンド・バークが、1789年に勃発したフランス革命を執拗に批判してから、確かに保守主義は改革主義を否定してきた。保守主義の大雑把なイメージとしてあるのは、「革命の否定」と、その他には「合理主義の否定」「伝統(慣習、常識)の尊重」などであろうか。

 しかしこれらだけでは尚保守主義のわかりづらさが緩和されたとは言い難い。そもそも保守主義者が肯定する改革と、左派、左翼が掲げる改革主義は何が違うのか。言い換えれば、そもそも改革とはなんであるのか。

 保守主義は漸進的改革を旨とする、と言われることもあるが、そもそも革命主義であろうと漸進的な立場は存在するはずだ。革命を急進的に行って失敗しては元も子もないからである。イデオロギーや合理主義に基づいた改革を否定する、というのも確かに正しい面はあるのだが、そもそも改革の際にイデオロギーや合理性が一切省みられないということもあるまい。いや、その改革に反対するにもなんらかのイデオロギー(=観念に関する論理)、ある種の合理性は必要なはずである。それらが失われた時、我々の政治は宙に舞ってしまう他ないからである。

 それでは、保守主義と改革主義の最も明瞭な違いはどこにあるのか。それは(当然ではあるが)改革の際の「基準」の違いにある。両者が同じ基準を採用しているように見えたとしても、それらは根本的なところで相違がある。そしてその根本的な相違が最も剥き出しになるのは、改革を試みるその段階に於いてである。

 改革主義における「改革」の基準は実に明瞭で、それは例えば「人権」、「自由」そして「平等」と言ったような言葉で表すことができよう。明瞭であるとはどういうことかといえば、それは(精緻であれ粗雑であれ)言語化されているということである。言語化されたところに生まれてくるもの、それは「正しさ」であり、より正確に言うならば未来に実現されなければならない(抽象的な?)正義だ。つまり、改革主義における「改革」とは、現在の社会の状態を、未来に向けて「正しい」方向に持っていこうとする試みであると言って良い。その「正しさ」=正義は、時に真実かどうかであるかで判断されることもあるであろうし(マルクス主義?)、善いことかどうかで判断されることもあるであろう(現在のリベラルポリコレ派?)。そしてここに、左派、左翼の分かりやすさがある。なぜそれらが(難解な論理を扱う、とは別の次元で)分かりやすいかといえば、彼らの基準は言語化されているからである。

 しかし一方保守主義はどうか。保守主義者における改革の基準は、改革主義者のそれに比べてかなり曖昧であるし、むしろ曖昧であるべきですらある。1例を挙げさせていただこう。拙稿で恐縮だが、筆者は以前以下のような記事を書いた。

 「あるべき形の家族」に対してやや理論化=言語化されてはいるものの、この小論自体、改革主義者に対する反論が主となった構成である。そして、この事実自体が保守主義の特徴をよく表していると言える。

 もう1度改革主義者の掲げる正義の話に戻ろう。彼らが掲げる正義=言語は、言語というものの特質上、非属人化=普遍化されていくのが常である。特定の個人間でしか所有されない言語=正義は社会の中で何の意味も為さないからだ。近代という時代の大きな特徴はまさにそこにあり、それは、高度に抽象化された「人権」という考え方を最大限尊重することが、「人間の」「普遍的正義」となった時代なのである。それは、フランス革命の勃発から現代に至るまでさまざまにその内実を変えながらも、近代という時代を貫く1つの正義として掲げられ続けてきた。

 保守主義の最も大きな特性はここに関わってくるものである。保守主義者は、例えば「人権」という非属人化=普遍化された言語=正義を批判し、その上で掲げるべき「正しさ」として伝統を(この場合、各国家における個人の具体的権利を)擁護する。なぜ保守主義者が普遍的な正義を批判するか。それは、その普遍的な正義が個人を、そしてエゴイズムを覆い隠すための都合の良い道具となり、我々自身を内省することへの契機を奪ってしまうからだ。正義を一切放棄したエゴイズムによって生きることは危険でありかつ不可能でもあるが、正義を掲げることによってエゴイズムを一切掃討したと考えることもまた同様である。自己の中には、決して言語化され得ず、また言語化されてはならない自分というものが存在するからである。その存在を忘却の彼方に追いやり、平板化された人間観をもとに社会を語ること、それを改革主義者の欺瞞として告発するのが保守主義であると言って良い。

 また、なぜ普遍的正義のオルタナティブとして(?)伝統等の分かりにくいものを保守主義者が尊重するのか。それは、まさにその分かりにくさゆえにである。伝統はえてして言葉にされず、目に見えるものでもない故に分かりにくいのだが、その分かりにくさは我々が現在という時代を、そして我々自身を完全に理解し言語化することの不可能性から生じる分かりにくさなのである。その意味では保守主義者は反動的に伝統を尊重するのではない。それは改革主義が掲げる「正義」から「正しさ」を守るための積極的な試みである。保守主義者がイデオロギーと合理性を否定するのは、それが過去を内包し現在を生きるしかない個人への視線を失った地平においてであると言って良い。いうまでもなく、人間は伝統をその身に背負っ(てしまっ)た存在である。

 ここで初めの問いに戻ろう。改革とは何かという問いだが、これはむしろ元々が保守的な概念であり、保守にとっての「改革主義」はそもそも改革ではなく破壊と創造なのである。丸山眞男は民主主義を永久革命として捉え、福田恆存は革命は必然的に永久革命として存在するということを言った。左派にとっての「改革」が正義の(破壊と)創造である以上、それは当然である。それは常に未来を生き、未来の理想社会のために動き続ける立場だからである。それに対して保守主義が主張するのは、ある未来の正義のために動き続けることではなく、むしろ現在の正しさのために静止することである。正しさはその静謐の中からしか立ち上がってこないということを、我々は近代の自由、平等な社会で忘れてしまった。今一度その静寂に、言い換えるならば常識に立ち返るための「改革」、保守主義が肯定するのはそこである。

 時代の喧騒は尚続き、我々はそれを貪るように享楽し続けている。その喧騒の中で、今ここに立ち止まるためには、どうすれば良いのか。それはひとえに、エゴイズムを、それを内包した自分を信じることであろう。我々は「正しさ」や観念なしでは生きることはできないが、「正しさ」と観念のみで生きていくこともできない。我々は今そのジレンマの間で、人間という本質的に不安定な存在を忘れるようにして喧騒を享楽している。その喧騒は、自らはエゴイズムを克服したという「良識派」の声高な宣誓と、自らのエゴイズムを指摘され半狂乱のように否定する衆愚の絶叫である。これらを克服するのは、エゴイズムの肯定、そしてその先の静寂と現在を見据えるための準備でしかあり得まい。

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