デビットライス氏の書評の空虚を論ず
つい先日、デビットライス氏による、御田寺圭著「ただしさに殺されないために」の書評が彼のブログ上にアップロードされた。
私は御田寺氏のこの著作を読んだわけではない。しかし今から行おうとしているのはこの「書評」に対する批判である。自らが読んでない本の書評の批評をするのもどうかと思うが、これは私の怠慢であると同時に、そのことによりメタ的にこの書評の問題点を炙り出そうとする戦略であると理解していただけたら幸いである。
ライス氏によるこの本の批判の主骨格は、つまり「御田寺は上記で指摘されているところのソフィストの典型であると思う」というところであり、この本が「『おれは女性や能力主義のせいで苦しんでいるんだ』という被害者意識を持った(ごく狭い範囲の)読者に『そうだそうだやっぱりリベラルやフェミニストは欺瞞に溢れているし、現代の社会はおれのような人間を虐げているんだ』という感覚的な興奮を味わせて溜飲を下げるものでしかないのだ。」というところにあるのだろう。それはよい。しかし、問題はこの本のどこを読んでこの結論を導き出したのかという点である。驚くべきことに、ライス氏はその論拠となる御田寺氏の文章を1つも出していない。しかも、それがなぜ批判されるべき「レトリック」であるのかも論じられていないのだ。著作と直接的には関係のない「ローマ皇帝のメンタルトレーニング」を引用している場合ではない。もし「そんなもん引用しなくてもTwitterとか見れば分かるだろ」というのならば、それこそ仲間内で身を温め合うための悪しき「レトリック」ではないのか。それも、ライス氏が批判する対象のはずである。
もちろん、これにより私が「だから批判は不当である」と断ずることは不可能だ。ここから先は議論によってそれを確認していくしかないだろう(もちろん、ライス氏がこれに応じる義務はない)。私がこの批判を不当だと感じたのは、おそらくタイトルにもあることからライス氏の批判の根拠となっていると思われる「前向きな提言や解決策はほぼない」という点だ。ライス氏がこの本を「『おれは女性や能力主義のせいで苦しんでいるんだ』という被害者意識を持った(ごく狭い範囲の)読者に『そうだそうだやっぱりリベラルやフェミニストは欺瞞に溢れているし、現代の社会はおれのような人間を虐げているんだ』という感覚的な興奮を味わせて溜飲を下げるものでしかないのだ。」と断ずる理由は、おそらくここにあるのだろう。しかし、そもそも「前向きな提言や解決策」とは何で、どういった本にはそういったことが書いてあるのか。そして、それらが書いていない本は必然的に「感覚的な興奮を味わせて溜飲を下げるものでしかない」のか。少し考えれば、通俗的な意味での「前向きな提言や解決策」が書いてある「感覚的な興奮を味わせて溜飲を下げるものでしかない」本など、例えば自己啓発書に代表されるようにいくらでも存在する。つまり、ここには論理の飛躍がある。
もう一度言うが、だから私はこの本の書評は不当だと言いたいのではない。上記の理由から、この本の書評はどんな本にも当てはまってしまうことを言いたいのだ。ライス氏は「読者の被害者意識を煽る文章を書いてそれを商売にして生きている人はフェミニストなどのなかにもいるだろう」と、この問題が御田寺氏のものだけでないことを示唆しているが、それは全く良き意味でのそれではない。ここまで抽象的に評すれば、当然それは多くの人間や本に当てはまる。占いにおけるバーナム効果以上のものではなく、つまり、「読まなくても書ける文章」である。皮肉を言うようだが、ライス氏のこの書評にも、こういった批評は当てはまるだろう。上述のように、ライス氏は書評中に御田寺氏の文章の引用を行なっていないし、それ故に「他の面から考えたら現実(=文章)について違った解釈をすることはできないか?」とする余地がないからである。なるほどもし御田寺氏の書く文章がそういった構造になっているならば、それは正当な批判だ。しかし、ライス氏はその批判をまず自らの書評に行うべきではないのか。
物事を論ずるには確かに良き形式が必要である。それは正しい。しかし、この「形式化」された紋切り型は、既に良き「形式」ではない。それは、既に「形式」の批判に頼り、それでいながら自らと他人の「形式」をあまりに疎かにするライス氏の批評からも明らかではないか。良き形式が必要である、と論ずるのではなく、良き形式を自ら実践し、その形式を身体化すること、重要なのはおそらくこれだけである。
以上、短めだが〆させていただく。