「音楽に政治を持ち込むな!」が圧倒的に正しい理由
今回は、少々趣向を変えて上の題材に関する私見を連ねていきたいと思う。結論から言おう。私は「音楽に政治を持ち込むな!」という諸君の文句を圧倒的に正しいと考えており、音楽に「政治」を持ち込むアーティストを心の底から嫌悪し、絶滅させることを夢見ている。その前提でお読みいただければと思う。
「政治」を持ち込む?
勇んで文章を始めたはいいが、しかし音楽に「政治」を持ち込むとはどういうことなのであろうか?ここでは政治の語源については問わないが、政治というのはつまり「治めること」である。こんなもの、そもそも音楽に持ち込みようがない。いや、というよりも、音楽とはそれそのものが擬似的な「政治」であるとすら言える。
よってここではタイトルのテーゼを正しく言い換えたいと思う。つまり、「音楽に政治を持ち込むな!」という人(というか俺)が本当に言いたいことは、正確には「音楽に思想を持ち込むな!」ではある。そしてこれは「音楽に政治を持ち込むな!」というテーゼとそこまでの乖離はない。あらゆる政治は、そこにおいて思想、イデオロギーなど「正しさ」と無縁でいることはできないからだ。
何年前かは忘れたが、津田大介とシールズの代表がなかなか有名なロックフェスティバルに出演したことで議論を巻き起こしていた。これもよく考えれば、フェスティバルに持ち込まれたのは「政治」ではなく、「政治思想」「政治哲学」であると言って良いのではないか。聞いてはいないが、彼らのトーク内容は現代社会の批評が主なのだろう。その営為自体、思想に支えられていることから考えて、このテーゼの言い換えは的を射たものと言える。
「思想」を持ち込まない音楽?
さて、しかしこう言い換えたとしても残る疑問は「思想を持ち込まない音楽とは何か?」ということである。歌詞がある限り、言い換えればそこに言葉がある限り思想からは逃れられない。ましてやメッセージソングならば尚更である。いや、音だけでもリズムやコードなどで思想を表現することは可能である。音楽に潜む歴史性がそれを可能にする。してしまう。
さて、ここにおいてもう一度俺の主張したいテーゼの言い換えを行おう。俺の主張は、つまり「ちゃんと音楽に思想を持ち込め」ということである。
この記事の執筆中、上のような寝言を吐き散らす記事を見つけた。笑止千万である。大体、ミュージシャンが政治を語らないことそのものが政治的態度である。それがおおよそ、「それをしない方が売れるだろう」という拝金主義的態度であるとしても、である。いや、それ自体は良い。問題は、それのオルタナティブとして提示された「思想」すらもが、民主主義と資本主義を前提にした、思想の名にも値しない大衆への媚びへつらいであるということである。そんな簡単なことにも気づけないミュージシャンが「政治」を持ち込んだところで何になろうか。
結論
今音楽に「政治」を持ち込みたいアーティストは、その多くが体制派になりそこで安寧したいというだけの日和見主義者である。そんなことを目論むような「アーティスト」に、金輪際「政治」など持ち込んで欲しくないし、そういったアーティストなど滅べば良いのである。
「ちゃんと音楽に思想を持ち込め」るアーティストの復活を心から望むものとして、「音楽に政治を持ち込むな!」と言い続けていきたいと思う。