1人愛煙家通信
コロナ禍である。
去年の1月頃から騒ぎがずっと続いており、まあ右往左往している国民の多いこと多いこと。これは政府の無能が引き起こした人災の面も大きいと思っているので一概に責められはしないが、民主主義のこの国において政府の無能は民の無能を表す。右翼の俺としては、いい加減一刻も早くナショナリズムをしっかり擁した有能な政治家が現れて欲しいと切に願うばかりである。
ただ、緊急事態宣言が出ている今も、俺の生活はコロナ禍の前と大して変わり映えはしない。そもそもそこまで何人かで集まることを好むわけでもなく、頻繁に新宿や渋谷といった夜の街に繰り出していたわけでもない。相も変わらず家で静かに本を読み、ロックを聴き、そしてたまに本屋や洋服屋に繰り出し、煙草を吸う。現在非常に難しい状況にいる(例えば)飲食店の方や医療従事者に申し訳ない気持ちを抱いてしまうほど、俺の生活は静かなものである。強いていうならば、最近は本業の勉強、研究の方が忙しく、それに時間を取られていた程度か。
しかし、コロナ禍に入る前から随分と狂った社会であった。2020年の4月から、飲食店等の屋内での喫煙は原則禁止ということが決定していた。居酒屋で煙草を吸うにしても別室の喫煙室に行かなければいけなくなり、鼻白むような思いをしたものだ。嫌煙主義者どもの専制は、居酒屋やパチンコといった、猥雑でなければいけない領域にまで侵蝕している。現在日本を覆う、「社会をデオドラント化したい」という潔癖で矮小な欲望こそが日本を病ませている真の原因であると悟り、1人ちまちまと抵抗する日々である。所詮が或る未熟者の悪あがきであり、おそらく俺は敗北するのであろうが。
俺の師は、中学生の頃に出会った時から今までずっと西部邁である。という割に師の愛煙家通信を読んだのは大学へ入ってからであるのだが、師は「たばこをのまない社交が増えることはくだらない国家になります」と言っていた。読んだ当時は、愛煙家でありながらこのことに疑問を持たないではなかったが、現在そのことを痛感するばかりで、師の思慮深さと俺の浅慮に身の縮む思いである。考えてみれば当然である。大体が、嫌煙主義者が煙草を憎んでいる理由なぞ、軽薄な生命尊重第一主義、もしくは「人に迷惑をかけなければ何をやってもいい」といった幼稚な倫理観の象徴に過ぎない。そんな奴らがマジョリティである国家がくだらないものになることなど、火を見るよりも明らかだ。
嫌煙主義者がくだらないことは上記のやりとりにも示されている。この程度のユーモアにイライラするなど、ニコチンが足りていないのではないか。大体、普段マイノリティの権利を声高に叫ぶ左派が、喫煙者に関しては「禁煙ファシズム」を嬉々として推進することの方が、よっぽどサブカルだということも分からないのだろうか。普段散々歴史に学べと声高に叫ぶこの手の進歩主義者どもは、世界で初めての禁煙推進運動がアドルフヒットラーの手によって行われたことも知らないほどの無知であるらしい。無教養かつ品の無い、このような輩がのさばらない日本にするためにも、俺は密かなる抵抗を続ける他ない。
が、俺はかと言って被害者意識を募らせ、それを武器に喫煙者の権利とやらを声高に叫ぶ気も毛頭ない。マイノリティだからこそ要求される配慮、マナーというのも当然あるだろう。俺とて喘息持ちの友人、煙草の匂いを好まない友人等の前では極力吸わないことを心がけるようにしている(まあ、禁煙ファシストどもが無条件の禁煙を要求することの方がよっぽどマナー違反であると考えてはいるが)。何よりそういった態度で煙を喫むことは煙草に失礼である。幸い、禁煙ファシズムを体現している現代においても、紫煙を燻らせながら紅茶を飲むことのできる良心的な喫茶店はごく僅かに存在する。そこで精神と現実の平衡をとりながら、禁煙ファシズムを横目に豊かな時を過ごすのである。
この記事を書いている現在、夜中の4:00である。寝付けず、かと言って読書等をする気も起きないため、再び寝床から立ち上がり煙草を吸おうと外に出た。友人や上司と和気藹々といった体で灰皿を囲み喫む煙草もうまいものだが、紫がかった静かな夜の空の下、寒さに少し震えながら喫むニコチンの絶妙なる渋味も素晴らしいものだ。
特に現在のコロナ禍において、とかくバランス感覚というものが失われていく現代、俺は師の教え通りバランシングバーとしての煙草を指先から離したことはない。紫煙を燻らせながら、1人の浅学非才で無力な若造として、このコロナ禍の一刻も早い終息を願っている。コロナ禍が終わっても続く、不断の危険に見舞われる現実のバランシングバーとしての煙草を指先から決して離さないこと、今の俺にできることはそれくらいだ。
追記:以下もぜひ読んでください。