孤独

私はあらゆる意味で独りぼっちだと思うことがある。

私の言う独りぼっちという言葉の中には、宇宙の存在や、ブラックホール、遺伝子、過去と未来、光と影、生と死などの存在があって、私が形作る内なる世界の秩序の中では1+1=2ではなく、時には3であったり4であったりする。説明するのは難しい。なぜならあなたが見るあなたと私から見たあなた、第三者から見たあなた、神様から見たあなた、イマジネーションが生んだあなた、ファンタジーが生んだあなた、その印象はまったく違うものだから。ボイスレコーダーに入った自分の声に驚くことがあると思う。私はこんな声していたっけ?みたいな。そんな感じで案外自分のことでも完璧には把握できていない部分も沢山あるのだ。

不眠になる時、常に何かを考えている。私とは一体何者なのか。考え過ぎだと言われる。だけど考えてしまうことを止められない。現実世界に触れると死んでしまうような価値観や理想でも私の孤独という水槽の中では自由に泳いでいられる。その儚さと自分の弱さみたいなものと色々な感情が合わさって、終わりのない終わりを感じ、独りぼっちの沼から抜け出せなくなる。

時々、自分の死の瞬間を想像したりする。私が生まれる以前の過去と私の死ぬ未来は当然一本の線で繋がっていて、無なのだ。そこに美しい花や天使、優しい許し、聖書でいうゲッセマネのような園が存在するわけでもなくただ永遠の暗闇があるのみだ。

わかっている。現実は私を守ってくれない。だからこそ孤独に引き篭もる。しかしそのメカニズムを分かっていながら無意識にあらゆるものに救いを求めてる魂にこそ孤独を傀儡のように操るメタファーがあるようにも思う。

肉体への執着、三次元への執着は、仮に魂のレベルの低さを意味しているとするならば生まれてきたことに意味があるということか?

だって魂のレベルが高ければ生まれてくることもなかったわけだから。未熟だからこそこの世界で色んなことを学ぶために生まれた。神様にとってはこの千年が一瞬かもしれないけど、その一瞬の中の一瞬にこの孤独を感じることもなければ、痛みも苦痛もない、形のない何かとしと存在するのではなく、叩かれれば痛い肉体を持つ存在として生きている自分は、もっとこの世で沢山学ばなくてはいけないと思う。

昔、博物館に行った時に見た動物の剥製や恐竜の骨を思い出す。私が死んだら剥製にされて、その後彼らのように見世物にされたら嫌だなと思うと同時に宇宙の中に漂う(私の中に存在するものではなく)哀愁を私の敏感すぎる感覚のアンテナによって感じたのを覚えている。

漠然と心にひろがる孤独。それはまるで果てしない砂漠のようだ。人生がある以上、砂漠の中にあるかもしれない砂金の粒を探し続けるのだろう。


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