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「Watashiは変われましたか」第2話


私は3歳の時に耳が聴こえなくなった。とある出来事がきっかけだった。

昭和22年生まれ。戦後の日本、私の母は独学で英語を学びながら、一人で私を育てるために必死に働いていた。その忙しさのため、私は近所の家に預けられることが多かった。

幼い頃、私は預け先の家の子にいじめられていた。母が仕事で忙しく、私はしばしば近所の家に預けられていたが、その家の大人たちにも疎まれていた。母が迎えに来れない日は、家の中に入れてもらえず、軒下で寒さに凍えながら寝ることもあった。時には母から金をもらってこいと言われ、私の衣服や人形を取られ、お金をもらうまで返さないと言われたこともあった。返してと言えば、生意気だと床に叩きつけられ、蹴りつけられることもあった。その時の目の奥にできた傷がゆっくりと進行し、60歳過ぎて目の手術を受けることになるとはこの時は思わなかった。とにかく必死で生きた。戦後の時代、母子家庭は本当に大変で、母と子それぞれが頑張っていた。

預け先の家の子供たちは私が片親であることを理由にからかってきた。彼らは「お前の母ちゃんは忙しすぎてお前のことなんて気にしてないんだ」と冷たい言葉を投げかけ、私を泣かせた。

私はもともと一人遊びが好きだった。人形を使ってお話を作ったり、絵を描いたりすることが楽しかった。しかし、その日は特にひどいことが起こった。預け先の家で過ごしていたとき、私の持っていた大切な人形を奪い取られた。その人形は、母が私の誕生日に買ってくれたもので、私にとっては大切な宝物だった。彼らは人形を高く掲げ、「これがお前の唯一の友達か?」と言いながら、私を嘲笑った。私は人形を取り戻そうと必死になったが、彼らは意地悪くそれを私の手の届かないところに持っていった。その時の悔しさと悲しさは、今でも忘れられない。

さらに、預け先の近所の子供たちも私と遊んでくれなかった。彼らは私が片親であることを理由に、私を仲間外れにしていた。近所の子供たちが楽しそうに遊んでいるのを遠くから眺めながら、一人で人形と一緒に遊んでいることが日常だった。私はいつも自分が孤立していると感じていたが、母と会うことだけを楽しみにしていた。母は仕事が忙しく、迎えに来られないこともあったので、「今日は迎えに来てくれるかな」と心の中で何度も呟きながら待つ時間が続いた。

ある日、いつものように一人で人形と遊んでいると、突然背中を押されて勢いのある水田の中に落とされた。背中を押したのは、預け先の家の子供たちの一人だった。田んぼの水は冷たく、小さな体は水流の勢いに飲まれて、流されてしまった。水の中で必死にもがきながらも、何が起こっているのか理解できなかった。

冷たい水が全身に染み渡り、心臓が激しく脈打つ音が自分の中だけで響いていた。耳に入る水の音、人々の叫び声が微かに聞こえてきたのを覚えている。水面の上で揺れる光が乱反射し、まるで世界が歪んでいるように感じた。目に入る水が視界を隠し、何が起こっているのか理解する暇もなかった。

恐怖と冷たさで体が硬直し、息をするのもままならなかった。私は無我夢中で水の中でもがき続けたが、力がどんどん抜けていくのがわかった。その時、私は初めて本当に恐ろしいと思った。息が詰まり、意識が遠のいていくのを感じた。

幸い、近くにいた大人が私を救い出してくれた。私を抱き上げた瞬間の温かさと安堵感は、今でも鮮明に覚えている。その後、数日にわたって高熱に苦しんだ。母は私を看病し続けたが、熱が引いた後、私は音を失っていた。病院での検査結果は、聴力が戻ることはないという残酷なものであった。

幼い私には、音のない世界がどれほど異なるかを理解するのは難しかった。母の声も、鳥のさえずりも、風の音も、一切が失われてしまった。夜の静けさが恐ろしく、眠れない夜も多かった。水に流される夢を見続け、その度に目を覚ましては恐怖に震えた。しかし、時間が経つにつれて、その夢も見なくなり、いつの間にか音が消えたことに気づかなくなった。

目が覚めた時、あまりにも静かで音がない様子に気づくことすらなかった。以前は朝に鳥のさえずりや母の優しい声が聞こえていたが、それがなくなったことにも気づかなかった。しばらくは母は一緒にいてくれたが、時折、涙を見せた。母の表情や口の動きを読むことで、何を言っているのかを理解しようとしていた。母は私の不安を感じ取り、いつも私の側にいてくれた。手を握りしめ、安心させるために抱きしめてくれた。その温もりが、私にとっての救いだった。

母は私が聴力を失ったことに対する罪悪感を背負い続けた。その重荷を一生背負うようにしていた。母は手話を学ばなかったが、私が口の動きを読み取れるように、いつもはっきりと口を動かして話してくれた。時には絵本を使ってコミュニケーションを取ることもあった。母のボディランゲージは豊かで、その動きから母の気持ちを感じ取ることができた。

音を失った代わりに、他の感覚が鋭くなったことに気づき始めた。静寂の中で風の音を感じることはできなかったが、風が肌に触れる感覚や、太陽の暖かさを一層強く感じるようになった。庭に出ると、植物たちが風に揺れる様子がまるで音楽のように感じられた。花々に触れると、その柔らかな感触が心に染み渡り、草木の香りを嗅ぐと、心が安らぐのを感じた。

聴力を失ったことで、歩くときに不安定さを感じるようになった。足を踏ん張るためにザーザーっと歩く癖がついた。これはバランスを取るためだったが、母にはお行儀が悪いと叱られたことを覚えている。

次第に、私は音のない世界に順応していった。耳が聴こえないことは不便だったが、他の感覚が鋭くなることで、自然との繋がりを深く感じることができた。花々に触れ、その柔らかな感触を楽しむことが、私にとっての癒しの時間となった。草木の香りを嗅ぎながら、心を落ち着ける。植物たちに「おはよう」「気持ちの良い朝だね」と心の中で語りかけ、彼らと対話することが、私にとって今も続く癒しの時間だ。

近くの川辺を散歩することも、私の日常の一部となった。川のせせらぎは聴こえないけれど、流れる水の冷たさや、草の匂いを感じながら歩くのが好きだった。昭和の時代にはスマホなど存在しなかったが、私は心の中で空の美しさや自然の風景を収めるようにしていた。今ではスマホで写真を撮ることが趣味となり、澄み渡る青空に浮かぶ白い雲、川面に反射する光がとても美しい。空の色が刻一刻と変わる様子を見ていると、時間の流れを感じることができる。

今ではスマホを片手に写真を撮ることが日課となっている。空の写真を撮るたびに、その写真には見えないメッセージが込められていることに気がついた。ある日、撮った空の写真に、美しい光の筋が映り込んでいた。その光は、自然が私に大切なことを伝えようとしているみたいだった。このような写真がいくつもある。私が自然と対話することで得られる癒しと平和の時間を、もっと大切にするようにと言っているように感じた。

透明で淡い光を放ち、まるで風に乗って現れるかのように「あなたは一人ではない」「自然の中であなたは癒される」そういったメッセージが、私の心に深く響いた。

音のない世界でも、自然との対話やメッセージは、私の心を豊かにしてくれるものだ。毎日の散歩と空の写真を撮ることで、私は自然と一体となり、生きる力を得ている。私は自分の存在が自然の一部であることを感じ、深い安心感に包まれるのだ。

#創作大賞2024#ファンタジー小説部門


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