「Wahashiは変われましたか」第3話
帰り道、いつものパン屋に立ち寄る。店の前に近づくと、バターの豊かな香りと甘いシナモンの匂いが私の鼻をくすぐる。パンの香ばしい香りが辺り一面に漂い、自然と足がその方向に向かってしまう。耳が聴こえない私にとって、この香りはまるで音楽のように心を満たしてくれる。店先に並ぶ焼きたてのパンが黄金色に輝き、その光景を見るだけでお腹が鳴る。
店のドアを開けると、さらに強い香りが私を包み込む。クロワッサンやバゲット、チョコレートパン、デニッシュなど、さまざまな種類のパンが所狭しと並び、どれも美味しそうだ。焼きたてのパンの温かさが伝わり、思わず手を伸ばしてしまいそうになる。クロワッサンのパリッとした表面に指を滑らせ、その中の柔らかい層を想像するだけで食欲が湧いてくる気持ちを抑えるのに必死だ。
私は焼きたてのバゲットを一つ手に取り、紙袋に包んでもらう。その温かさが手に伝わり、香ばしい香りが紙袋の隙間から漏れてくる。店員さんが微笑みながら「ありがとうございます」と口元を動かすのを見て、私も微笑み返す。
聴こえない私にとって、この香りや温かさは特別な喜びとなる。家への帰り道、紙袋から漏れるパンの香りが食欲をそそるが、これは明日の朝食用のパン。すぐにでも食べたい気持ちを抑えながら、一刻も早く家に帰ってパンを味わいたいという思いが募る。パンの温かさが手を通じて心まで伝わり、その香りで幸福感を満たす。
家に戻ると、玄関に入る前にポストを覗く。ポストの中には、いつもと変わらずたくさんのチラシやダイレクトメール。その中に一通の手紙が目に留まった。封筒を取り出し、玄関に入る。出かける時と同じ風景が広がっており、ほっとした気持ちになる。壁に飾られたトールペイントの作品が目に飛び込んでくる。それは私の趣味であり、時間をかけて一つ一つ描いたもので、家族の温かさと共に私を迎えてくれる。座って靴を脱ぎながら、そのトールペイントと一緒に飾られている沙羅と杏奈との写真を見ると、「ただいま」と心の中で呟く。家に帰ってきたという安心感が広がる。
靴を脱ぎ終えると、ポストから取り出したチラシやダイレクトメールをテーブルの上に広げて整理する。必要のないものはその場でゴミ箱に捨て、気になる広告やクーポンは脇に置いておく。整理を終えると、一通の手紙に目をやる。手紙を手にリビングに向かい、テーブルに座ってゆっくりと封を開ける。
中には健康食品の案内が入っていた。パンフレットには、若々しい笑顔の人々が健康的な生活を楽しんでいる様子や、活力に満ちた日常の風景が魅力的に描かれている。写真の中の人々は、明るい表情で運動を楽しみ、新鮮な食材を使った料理を囲んでいる。その姿を見ていると、私と同世代だろうかと考えながら、自分もあんなふうに元気で過ごしたいと強く思った。
健康で長生きしたいと願っている。娘の沙羅に迷惑をかけたくない、できるだけ自立していたい。その思いから、いくつかのサプリメントを購入しているが、正直なところ、飲み忘れることも多い。朝と夜に飲むようにしているが、忙しい時や散歩に出かけた後など、ついつい忘れてしまう。
パンフレットには、定期購入の案内が詳しく書かれていた。次回の購入を止めたいと思っているが、問い合わせ先は電話番号しかない。聴こえない私にとって、電話でのやり取りは難しい。いつも沙羅に頼んでいるが、彼女も忙しそうで申し訳ない気持ちになる。沙羅に迷惑をかけたくないと思いつつも、どうしても頼ってしまう自分がいる。その度に少し胸が痛むが、彼女はいつも快く手伝ってくれる。
手紙を手に取りながら、どうしようかと考える。沙羅に頼むべきか、それとも他の方法を見つけるべきか。心の中で葛藤しながら、手紙をそっとテーブルに置いた。
健康食品の案内を手に取ると、母の顔が頭をよぎった。母はいつも私の健康を気遣ってくれた。私が聴力を失った時も、熱心に看病し、医者に連れて行ってくれた。その姿を思い出すと、私も母のように強くなりたいと思う。母は私が聴力を失ったことに対する罪悪感を背負い続け、死ぬまで手話を学ばなかった。そういう時代や環境ではなかった。私が手話と出会ったのは寄宿舎な入ってからだ。母は私の顔を見てゆっくりと口を動かしながら話し、そのボディランゲージから母の気持ちを感じ取ることができた。健康であり続けることが、母への感謝の気持ちの表れでもある。
なんの因果か、母も母子家庭、私も母子家庭、そして娘も一人で孫の杏奈を育てている。今は「シングルマザー」という言葉が使われるが、その道を選んだ理由について沙羅は語らない。元々多くを語らない性格ではあるが、もっと心の内を話してくれたらいいのにと思うことがある。それでも、沙羅が強く生きる姿を見ていると、母と私の姿が重なり、時折、不思議な気持ちになる。
パンフレットを見ながら、これまでの健康管理の方法を振り返る。サプリメントを飲むだけではなく、食生活の改善や適度な運動も取り入れてきた。散歩もその一環だ。自然の中で過ごす時間は、心身の健康にとって大切なものだと感じている。
手紙を手にしながら、問い合わせ先の電話番号に目をやる。何とか自分で解決したいと思う反面、沙羅に頼ることも悪くないと思い直す。母も私に頼ることがあったように、家族は支え合うものだ。沙羅に電話をお願いすることに決めた。
冷えたお茶を温め直し、テーブルに戻る。カップを手に取り、一口飲むと、少し心が落ち着いた。今日の散歩で撮った写真をスマホで確認しながら、沙羅に送る準備をする。澄み渡る青空と、木々の間を吹き抜ける風の様子を写した写真には、不思議な光の筋が映り込んでいる。「今日の写真も喜んでくれるかな」彼女の笑顔を思い浮かべながら、これからも健康で元気に過ごそうと心の中でそっと誓った。