【エッセイ】亡くなった幼馴染のSNSをたまに見返す。
急性リンパ性白血病という病気で幼馴染のOが亡くなったのは2019年2月。
私が大学を卒業するひと月前だ。
まだ3年も経っていないのかと驚く。
なぜか早朝に目が覚めてから眠れず、ふとOのことを思い出して、彼女が闘病日記と称して投稿を続けていたインスタグラムのアカウントを開いた。
年に1~2回、覗きに来てしまう。なぜなんだろう。
何か自分の中で消化できていないものがあるのだと思う。
最後にOのお母さんが代理で投稿した訃報を最後に、投稿は途絶えている。
Oの投稿は、初期は「病気に負けない」「私も頑張るから皆も頑張って」「すべてに感謝」「気持ちで勝つ」などと驚くほどにポジティブだった。
しかし、抗がん剤の副作用や激痛を伴う骨髄内注射等、気の遠くなるような苦痛を伴う数々の治療によってOの精神はすり減っていき、「もう頑張れない」「死にたい」「閉鎖病棟に移されました」などの投稿が目立つようになる。
私の知る限り、Oほど前向きで、明るくて、破天荒な女性はいなかった。
そんな人間の性格をも病気は簡単に変えてしまったんだよな。
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幼馴染といっても、Oと私が同じ場所で時を過ごしたのは小学校~中学校の間だけ。
だから厳密には幼馴染と言えるのかは分からないし、親友と呼べるほどいつも一緒にいたわけでもない。
ただ、別々の道を歩んだ高校~大学の間も、年に数回はふたりで会ったり旅行をしたりしていた。
親交のつづく地元の友人が数えるほどしかいない自分にとって、Oはなかなかに貴重な存在だったと今になり思う。
私は割と軽率に人を褒める質だが、Oのことを素直に褒めたことはなかった。
Oを褒めるのは何故か気恥ずかしかった。
たまにOの型破りな行動に引くこともあったが、一緒にいると楽だった。
不思議な関係性だった。
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Oの病気が発覚し、地元での闘病生活が始まったのは2018年11月。
大学4年の冬。私が大阪で卒論の執筆に追われていたり、サークルの同期に告白するも振られて教授の前で号泣したり、その後なぜかその人と付き合ったりしていた頃だ。
幼馴染の闘病の様子をSNSで見ていて、可哀そうだと、頑張ってほしいと思った。電話でエールを送った。忙しさを理由に中々お見舞いには行かなかった。大阪から地元へなんて、特急電車で3時間もあれば帰れるのに。
一方で、大学最後の数か月、Oが発病してから亡くなるまでのたったの数か月を、研究室のメンバーと駄弁りながら卒論を書くことや、恋愛で一喜一憂することや、仲の良い友人との卒業旅行を楽しむことに費やした。
私は自分の残り少ない学生生活を満喫していた。
人は私のことを冷たい人間と言うだろうか。
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私がやっとOのお見舞いに行ったのは、Oが亡くなるちょうど1週間前だった。
Oへの素直な気持ちを綴った手紙とお見舞い品を片手に病院を訪れた。
手紙は「実はずっとあなたのことを尊敬していた」と伝えるために、でもOを素直に褒めたことが無かった自分が直接伝えるのは気恥ずかしいから、という理由で初めて書いたものだった。
でも、Oに会うことはできなかった。
そのとき既に意識が混濁していたOが、手紙を読めるようになるまで回復することもなかった。
数日前まではLINEでやり取りできていた。
どうしてあと数日前に来なかったのかと悔やんだ。
Oの死から何かを学んだなんて大層なことを言う資格はないと思う。
後悔の理由ですら、Oの闘病中に会ってエールを送れなかったことではなく、自分の気持ちを最後まで伝えられなかったことによるものが大きく、自分本位だ。
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私は冷たい人間なんだろうか。
冷徹ではない気がする。
Oが病気になって気の毒だと思った。
Oのお葬式では涙が止まらなった。
ただ、どこまでも自分本位で、自分の生活を、自分の感情を優先してしまう。
今もこうやって、自分の感情がざわついた時にやっとOのことを思い出す。
ただ、Oのインスタグラムを眺める。
2018年8月末、Oの病気が発覚する少し前にふたりで旅行に行ったときの投稿が目に入る。
たいして面白くもない私の言動に大笑いしてくれたOにはもう会えない。