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インドネシア滞在記③パルムティガとバイクタクシー

そして朝はやってきた。辺りはシーンと静まり返っていて、常夏のインドネシアだというのに空気はひんやりと冷たく、少し肌寒いくらいだった。私は部屋の壁一面ほどもある木製の大きな格子窓をギギギと開け、初めて部屋の外の景色をみた。
辺りは少し霧がかっていて、見上げるほど背の高いヤシの木の並木道だけが長く続いている。他には家らしき建物も見当たらず、世界の果てにポツンとひとり、自分以外には誰もいないような不思議な気持ちになった。
 後から知ったのだが、私が住むことになったこの木造平屋建ての古い家は、「perumahan dosen(プルマハン ドセン)」直訳すると「教授の家」というボゴール農科大学の敷地内にある珍しいコスだった。昔はこの大学の教授になると大学の敷地内に家を建てる権利と土地がもらえたそうで、既に退官したり、もう住まなくなった教授やその家族が、その名の通り家を学生に貸して寮にしているのだ。
大学の敷地内にあると聞くと一見便利そうにも聞こえるが、このボゴール農科大学、とにかく広いなんてもんじゃない。広大なエビの養殖場や熱帯雨林の実験林、牛やヤギはもちろんのこと、なんなら水牛までのびのび暮らしていた。その巨大すぎるキャンパスの全貌は未だに不明なくらいであるが、とにかくすべてが恐ろしく遠かった。私の通う森林学部まで行くのに家から徒歩で片道約25分くらいかかるし、周りに店なんてあるわけないので、ちょっとご飯を買いたいな、なんて思った日には炎天下を往復1時間以上歩いた。日本で私が通っていた大学も国内で3本の指に入る広さのキャンパスだったので、実は誇らしく思っていたのに、それよりはるかに広いこの大学に「井の中の蛙大海を知らず」という言葉の意味を思い知らされずにはいれなかった。

 そんな劣悪なアクセス事情もあり、この家の周りにはいつも「オジェック(ojek)」と呼ばれるバイクタクシーのおっちゃんがいつも4~5人ダラダラと待機していて、指を一本立てながら「オジェック?オジェック?」と毎日声をかけてきた。やる気があるのかないのか、いつも乗りたくないときにはいるくせに、本当に乗りたいときには大抵いなかった。
学内だと50円くらいで激安だったので今思えばもっと乗っておけばよかったなぁと思うのだが、当時日本人の留学生は珍しかったのか、オジェックのおじさん達の間で名前も顔も覚えられていて恥ずかしかったし、「乗せて」と言うとなんだか負けた気がして、私は無駄に汗をダラダラ流しながら毎日徒歩でせっせと学部に通っていた。
このオジェックという乗り物はインドネシアではポピュラーな移動手段なのだが、乗り手のおっちゃんはジャケットを着てヘルメットまでかぶっているのに、客はノーヘルで、おまけにめちゃくちゃ飛ばすので事故ったら真っ先に客が死ぬシステムになっている。死んだら自己責任というサービス精神もくそもない代物だったが、そんなことを気にしているインドネシア人は誰もいなかった。

 そんなこんなで私が住むことになったこの家は、ヤシの木通り3丁目という住所から、通称「palm 3(パルムティガ)」と呼ばれており、インドネシア人の女の子の学生が共同生活を送っていた。部屋は7つに、台所が1つにトイレが2つ。リビングには古くて分厚いブラウン管のテレビが1つ。住人はムスリム(イスラム教の人のこと)が4人、キリスト教徒が1人、仏教徒が1人(これがニルマラ)、そして無所属の私。
こうしてついに、私の「パルムティガ」での生活が始まった。


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