激動36歳。
私の過去は36歳、この年が本当に凄い年でした。2013年、秋にずっと一緒に住んでいた友達と離れて(その友達とは今も近所に住んでいる)一人暮らしを始めた。 そしてその年、乳がんが発覚して怒涛の治療生活が始まった。10月23日告知。本当は2月頃にしこりに気付いていたけれど、怖くて病院を受診出来ず、まさか自分がならんだろうとのらりくらり。それでも、もしこれが本当にそうなら、一緒に住んでる友達には間違いなく迷惑が掛かってしまう、病院の前に一人暮らしを決意。引っ越してから直ぐ、自分一人で色々と考える時間が増えて意を決して病院へ。
私はiPhoneにずっと日記を付けていてその時も自分の気持ちを落ち着けるために書いていた。検査の事、見えて来る周りとの別れだったり仕事はどうしようかと考えていた。何よりいきなり近づいて来た「死」、怖くて悲しくて宣告を受けて、2,3週間は自分の気持ちに押しつぶされそうで堪らなかったのを覚えている。放っておいたもんだからしっかりと脇下リンパへ転移、原巣の大きさは5センチ位だったかな。ああ、ワイ死んだ…これ死んだわ…と絶望もヒトシオ。こんな不運な事ある?!おれより酷い境遇の人周りにいなくない?!ぐちゃぐちゃの思考のまま、何度もマンモとエコーを受ける。CT、MRI、生検…いきなりドラマの世界でしか見た事ない検査のオンパレードだ。造影剤入れてのCTとかわけわからんまま書類にサインしていきなり身体が熱いよおおおってなってるあいだにブーーッと機械に突っ込まれて写真を撮られる。幸いな事に他への転移はないものの、ステージ4に近い3だった。
同じ病気の人のブログを沢山読み漁った。何より先輩の言葉が一番身体に沁み込んで来る。「悲しくて辛いのも時間が経てば落ち着いてきます」めちゃくちゃこの言葉が元気出たし信じられた。その言葉通り、2,3週間でこの病気と向き合う事が出来た気がする。友達の励ましも勿論、ある日検査へ向かう日、ドアを開ける瞬間に気持ちがギラッとした。「あ、これ私治るまで行かんでも死なないで済むな?」全然確証なんかない、がんは5センチ、ステージも4に近い3。通常のがんは手術から抗がん剤だが、抗がん剤スタートで小さくしてから手術出来るかの判断、ここの治療方法の違いでも一気に生存率とやらは変わって来る。私は限りなく低い位置からのスタート。それなのに、ドアを開いて、30分ウォーキングがてら向かう病院での道、あの日で向き合うスイッチが全部入った気がする。勿論小さい不安や恐怖は付き纏う。それは今でもそうだ、でも一番信じないといけないのは医者でも友達でもなく、自分の身体だ。その身体が感じさせてくれた未来を信じるしかなかったようにも思うし、自分が自分を引っ張りあげてくれたんじゃないかなと思っている。心がギラッとする事は人生で何回かあった、もう覚えて無いけど、それがあると大きく色々と舵が切れる、タイミングみたいなもんだと思う。人によっては「神のお告げ」ともいうんだろうか。
とにかく生活を見直す事になった。当時の私は、仕事は事務だがアルバイト、低待遇な上に月の半分は終電、残業ない日も常にフルスロットルで走り続けて、昼ごはんは外でしか食べれないので高カロリー、帰りが遅いので風呂にも浸からない、一緒に住んでいる友達が夕飯を食べてもう寝ようって頃に帰り着く事に苛々苛々していた、会社でも苛々、家でも苛々、要らないストレスを溜め続ける。職場は寒い、低体温のまま一日を過ごす、でもそれが何なの?身体温めたってそんなかわんねーし!35度の体温て逆にかっこいいんじゃん?オタクな事がしたいから睡眠は常に多くて5時間。健康な生活からは程遠い生活をしていた。ガンが育つ良い環境であった。苛々していたストレスと低体温、高カロリーな食事、これが本当にダメだったと思う。体調悪くて休むと同じチームに迷惑を掛ける、休んだ日の方がストレスが溜まってしまう、良い仲間というのも考え物だなぁ。現在は勿論真逆の環境です、白湯飲んでんだよ朝一に。飲まないと気持ち悪い。変わるもんだ人間は。
結論から言うと仕事は辞めました。賛否両論あるけれど、休んだ事で迷惑掛けるのがストレスなのに休暇や周りに可哀相と思われながら仕事するのに堪えられなかった。当時仲良くしてくれていた真面目な友達が仕事しながら治療しなよと言うかと思いきや、辞めて治療に専念して欲しいと話してくれたのも大きかった。私も勿論病気と向き合いたかった。生活費と治療費払う蓄えなんて勿論無い、途中から生活保護を受けた。悩んだ、仕事しながら治療する人も沢山居る、そうしなさいと突き返されるんじゃないかと。そうしたらもう、死ぬしかないけれど、とにかく担当のおじさんに話しをした。集中して治療をしてまた仕事へ復帰をしたい。抗がん剤のスケジュールは割とタイトでどういう状況になるか分からないのに仕事場に迷惑をかけながらストレスを溜めながらではなく、仕事という物からのストレスはない状態でまずは身体を直したい。恥ずかしかった、生活保護なんて悪いニュースしか聞かないから。それでも身寄りのない自分にはそれしかない事も伝えた。家の賃貸契約書、それから一人暮らししてからずっと管理していた光熱費の領収証、家計簿、寸前まで働いていた給料の明細、治療中の病院の書類を全部揃えていきなり初日に提出した。おじさんは「きちんと生活していたのに、突然乳がんになってしまったんだね、気持ちが伝わります。あんこさんのような人のために、生活保護の制度があります」 ものの数日で保護の決定がおりた。今のマンションは物凄い家賃も安くて引っ越しもしないまま、治療費も最低限ではあるけれど、そこから出して貰い治療が出来ると。治療費と住む場所の心配をしなくていい、私は…仕事復帰したらぜってえええええ税金全部びた一文も遅延せずに払うぞ!!!!とにかく行政に感謝しかない…背中を押してくれた人達皆に感謝しながら、抗がん剤を続けて行く事が出来ました。 働きながらしか治療が出来ない人が沢山いらっしゃる中、考えが甘く申し訳ないです、恥ずかしい情けない、だけれど 私は生きたいぞ!!!!もうその時はその一心でした。とにかく集中して普通を取り戻して直ぐに保護を解除して貰う、その野心は決定を受けた日に誓いました。結果として、保護は治療の約1年半受けさせて貰いました、これだけは言えるけれど命を繋げて貰った、その一言に尽きます。 長いので2に続きます。