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思い出は胸の中に

「持つ」ことに係るコストについて

 思い出にカタチを求めようとすることは、当たり前のことだと思う。一昨日、これを書くきっかけになる出来事があった。大学の同期から久しぶりに連絡が来たのだ。曰く『写真のネガ、どうしてる?』と。
 件の旧友とは写真サークルを機に知り合い、部室を暗室にしてセルフ現像に挑戦したり、撮影ドライブと称して、あちこちへ出かける仲だった。今は時々やり取りする程度でも、嬉しいことに今も関係が続いている。私は問い掛けに対して、ファイリングして残してある旨を伝えた。友人との話まとめ ↓↓↓

  • 大量のネガを維持保管するコストが大きいと感じるようになった

  • 残された人が片付ける時の事を考えて、身軽にしておくべきでは

  • 20年を過ぎて、ネガの状態が劣化し始めている点が見受けられる

 ざっくりとこんな感じだ。当時は現像と同時プリント代が安かったから、私も16連打よろしくシャッターを切っていた。その結果の産物は、今も書棚に眠っていて、それなりの空間を占有している。人の記憶は日々薄れていくものだから、カタチに残しておけば、忘れても思い出せるから。きっといにしえの時を生きた祖先たちも、同じことを考えたのではないかと思う。本当の理由なんて分からないけれど、ラスコー洞窟の壁画やナスカの地上絵など、万単位の過去の記憶が今でも残されているのは、とても興味深い。
 旧友の言に端を発した、人生何度目かの《 大切な品 》たちとの対峙について、私自身のスタンスを、備忘録として記すことにする。

人はいつか消えてなくなる

 こればっかりは今のところどうにもならない。締め切りのない原稿は無いし、期限のない確定申告なんて存在しない。世の理とでも言えることだ。死後に自分という《 個 》が生きた証を残したい、と考えるのはごく自然な事だ、と私は考えている。別に偉業を成した訳じゃなくても、確かにそこに居たという事実を、誰かに覚えていてほしいと思う気持ちは、ある。とは言え人によりけりで、綺麗さっぱり消し去りたい派もいるかも知れない。
 では、そもそも何処の誰に対して《 自分 》を刻み込んでおきたいのか。はたまた世界や社会そのものに対してなのか。具体的に考えてみようと思ったら、自分の中にはとりわけ拘りが無いことに気が付いた。漠然と消えゆく恐怖を前に、何かした気になれる行動をして、仮初めの達成感を感じているだけなのでは?と思い至った。

思い出の品に価値を感じるのは誰か

 夫の生きがいであるガンプラが、妻からしたらただの邪魔な箱の山だった、という話は耳にしたことがあるかもしれない。《 主観的価値 》というのは、他の誰が認めなくても、本人にとっては大切なもの、という価値観のことだ。写真なんてその最たるもので、撮影した人と被写体には思い入れがあったとしても、赤の他人からしたら『知らない誰か』の写真でしかない。これがアイドルの幼少期の1枚だとか、本屋大賞受賞作家のスチルなら話は変わるけれど、市井の個人写真が特別な価値を持つことは少ないだろう。未婚であり、次世代への継承が望み薄な人間にとって、自分の痕跡を後の世に残す意味はあるのだろうか。100年後とかにビンテージアイテムとして、改めて価値を持つことはあるかも知れないけれど、モノを減らすことはSDGsに貢献することになるよね、と思う。それから、重要なポイントとして、黒歴史を掘り返されたくないなら、無かったことにするのが一番だということ。

結論的なもの

 今まで見て見ぬふりを続けてきた、思い出との対峙。メモ書き程度と考えつつ、自分の思考をアウトプットして得られた気づきは以下の通り。

  • 所有者以上にモノの価値を見出す存在は稀有である

  • 近親者の身辺整理を想像すると、見えるものがある

  • ただ残しておく事への安心感も確かに存在している

 死後のことなんて一生分からない。だって一生は死ぬまでの時間だから。つまり、どこまで考えても《 分からない 》ことかも知れないのだ。これは誰にでも当て嵌まると思う。悟りを開いた場合はその限りでもないかも知れないが、分からないからこそ先回りして不安を払拭したい、という個としてのアイデンティティを保つ行動の現れと言えるだろうか。
 私は自分自身が持つ価値がURだとかSSRだとは思っていない。けれど、唯一無二の存在だと考えている。それ故に、自分が消えてしまえば何も残らないだろうと思っていた。けれど、何も残らないのは過去を生きた人たちも同じで、結局人生ってそういうものなのだと思えるような気がしてきた。それならば、自分の過去というある種の重荷を背負って、息を切らしながら生きるより、もっと身軽に今を楽しめたら、コスパもタイパも良くない?と。
 結局は自分の中で納得できるか否か、だろう。ここまで書きながら、段々と気持ちが軽くなるのを感じている。自宅にあるモノたちの価値は、何も変わらない。持ち主の中で輝きを放ち続け、寿命と共に消え去る存在というのもまた、いとエモし……ではないだろうか。

わたしが書いた読書感想文に添えられたコメントがトラウマになったまま。国語教師の『良い本を読みましたね』という文章力について完全スルーの評価を下されたあの日、わたしは『書くこと』を諦めた。誰かに伝わらない文字の羅列に意味なんてない。