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AI時代の脳汁依存 〜情報の洪水にどう立ち向かうか〜

3連休2日目、私は情報の波に飲み込まれていた。



無限のインプット時代に生きるということ

私は昔、本を読んで知識を得ていた。自分で選んだ本をじっくり読み、思索しながら消化するプロセスが心地よかった。しかし、今はどうだろう。
ChatGPT、Grok、NotebookLM……AIは次々と情報を提供してくれる。検索すら不要で、問えば無限の知識が降ってくる時代になった。
それは驚異的な便利さをもたらす一方で、私にとっては混乱の種にもなっている。「何をどの順番でインプットすればいいのか?」——その判断すら、AIに委ねたくなるほどに。

AIが作るコンテンツの罠

NotebookLMを使えば、AIがポッドキャストを生成し、要約し、視覚化までしてくれる。もはや、自分で「摂取する情報」を自分で作ることすら可能になってしまった。
この圧倒的な効率化は一見すると革命的だ。だが、私はふと疑問に思う。「これは本当に私の思考なのだろうか?」
AIが整理した情報をただ流し込んでいるだけでは、考えているようでいて、考える行為そのものが抜け落ちてしまってはいないか。

情報中毒と脳汁依存

もしかすると、これは情報中毒なのかもしれない。
AIが次々と新しい刺激を与えてくれることで、私はひたすら画面に張り付き、脳汁を垂れ流しながらコンテンツを消費し続ける存在になりつつある。
スクロールする指は止まらず、ChatGPTの「次の質問」を思いつくこと自体が快楽になっていく。
情報収集は本来、知識を深めるための手段であったはずなのに、今やそれ自体が目的化している。
「脳汁依存」——私は新たな依存症になったかもしれない。

そして、この無限のインプットの果てに待つのは何か?
情報を得ることで安心し、知識を得たつもりになり、でも何かを「生み出している」わけではない。むしろ、情報の洪水に溺れ、思考そのものが散漫になっていく感覚がある。

取り戻したいリアルな体験

そこで最近、私は意識的にリアルな体験を取り入れることを意識し始めた。
ジムに行く、散歩をする、五感をフルに使う時間を確保する。
AIがどれほど便利になろうと、物理的な体験なしに人間の生活は成り立たない。
「情報を消費する時間」と「実際に身体を動かす時間」のバランスを取り戻さなければ、脳も心も疲弊してしまう。
AIに触れる時間を減らすのではなく、「情報の消費」と「身体的な活動」を意識的に切り分けることが重要なのかもしれない。

それでもAIに頼る現実

とはいえ、今日のスケジュールは結局ChatGPTに立ててもらっている。
生産性向上、スケジュール管理、文章の整理……AIの助けを借りることで、私の生活は間違いなく快適になっている。
AIなしでは、もう仕事も生活も回らなくなっているのが実情だ。

だからこそ、私は「AIに使われる」のではなく「AIを使う」スタンスを意識しなければならない。
情報は無限にある。だが、そのすべてを摂取する必要はない。むしろ、何を選び、何を捨てるかを決めたい。

1日のスケジュールはAIに提案してもらっている

情報中毒はAIのせいなのか?

ここでふと思う。
情報中毒って、AIが登場する前からあったのではないか?

思い返せば、テレビが普及した時代も、SNSが流行した時代も、人々は同じように情報を浴び続けていた。
私たちは昔から、ラジオ、新聞、テレビ、インターネット……と「無限の情報」とどう付き合うかを考えてきたはずだ。
結局のところ、情報の氾濫は技術の発展とともに常に存在していた。そして、その情報をどう処理するかは、AIがあろうとなかろうと、変わらず私たち自身に委ねられているのではないか。

AI時代の本当の課題は、「情報を得ること」ではなく、「情報とどう向き合うか」なのかもしれない。

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