地元の話
地元のゲームセンターの20年の歴史
よく行ってるゲーセンが閉店になるので、今までの思い出の振り返り
・ゲームセンターの開業から閉店まで
当時はゲームFUJIという名前でOPENした。その時は競合店はあったものの、その競合店も力はもうないも同然で、すぐに潰れた。(今はコンビニ)
代わりにこの最寄り駅では、20年間この「ゲームFUJI市川」は独占状態だった。
一時期2フロアあったのを1フロアにしたこともあったが、
そこまで経営に問題があったのかと言われると??
以下自分の歴史と振り返る
・メインゲームの変遷と一旦ホーム店舗の移動
当初からメダルゲームで人気であった、G1ホースパークとスターホース2の2台看板も導入されており、この時に競馬を覚えたといっても過言ではない。
オープンしたてのころ、当方は中坊であったため、適当に帰り際に寄ることが多かった。
そのころ地元の中学でやんちゃだった奴らとも知り合った。(今どうなっているかはほとんど知らない)
そのやんちゃだった奴らに色々負けたくない、変な負けず嫌いが発動し、
良くも悪くも色々できるようになったといえる。
やるゲームとしては、専らメダルゲームばかりだった。たまに麻雀ゲームをすることがあったが、これは将来使うかもしれないから今のうちに覚えておこうという感覚で覚えた。今となってはかなり助かっている。
当時のゲーセンでは以下のような、流ればかり…
パチンコとスロットで出来たメダルを競馬に使う⇒ちょっとするとなくなる
今は
給料を競馬と競艇に使う⇒来月まで我慢
というループの礎となったかもしれない(いやな礎だ)
ちなみにこの時にパチンコとスロットを覚えたから、ギャンブル脳としては完全に英才教育を自分でしていたかもしれない。
(この時一番打ったパチンコはCR志村ワールドという羽根物、スロットは大体全部打ってた)
その後は、そこから実際の競馬を見るようになり、
ゲーセンで常連客に声を掛けられるようになり、
次第に仲が良くなり、その後今の現在まで競馬友達の関係になる人もここで知り合った。
(今後も出てくるのでOさんとします)
そこからしばらくして、Oさんが隣町のゲーセンにホームを変更していることを聞き、
すぐにそちらに移動した。この時すでに高校生になったくらいの歳だった。
・本格的なホームの移動と自分の移動
ホームの移動は系列店「ゲームFUJI小岩」であったので、使用している機械は似ているが、規模が大きいため少し最新のものが入ったりとか、
他にも色々な種類のゲームをここで覚えた。
そのため、一旦「ゲームFUJI市川」から離脱することになる。
この期間でメダル落とし(プッシャーゲーム)の良し悪しを学ぶ。
この時代はもうスタホ2かグランドクロスの2つしかほぼやってない。
パチンコも放置してれば勝手に確変と時短で玉増えする台ならやるみたいな感覚。
ただ、それでも唯一この時に一番打ったパチンコは「エヴァ 奇跡の価値は」だったと思う。高校だったので当然受験期もかぶっていたがお構いなし。
お陰で成績は全滅。
ただ次の進路は競馬業界と決めていたので、大学の受験勉強などせずそちらへ。
・ゲーセン離れかと思いきや…?
18歳になり色々できるようになったタイミングで成田の寮で1人生活。
もうこんな生活していた人間だから皆さんお察しの通り、マジで自由に過ごしてた。
自由とはいえ、学校は真面目に行き、一定の成績上位者しか行けないような研修にも参加できる程で、たまに成田のゲーセンやスロットをやりにいくくらいだった。
そんな公私ともに全力で駆け抜けた1年目だったが、2年目からついにその反動がきた。
腰痛がひどくなり、歩けなくなるまでに。。。この後診断に行って知ったのだが、腰椎が普通の人は左右に5本ずつ計10本あるところ、私は下の2本が骨盤に埋もれていたとのこと。なので耐久度が常に80%しかなかったともいえるとお医者様に教えてもらった。
そして支えている8本のうちの1本疲労骨折になって完全にずれていると聞いたのもこの時だった。
元々ゲームセンターで面白そうだと思った競馬ゲームを実際に見るようになり、さらにはそれを生業にしようとした人間の目標が、一旦ここで幕を閉じた。
まだ未練があるかと言われると、あるように思ってしまうが、出来ないことが人生には多くあると学んだ2年間だった。その経験は今後に生きてくると信じて、中退し実家へ戻った。
この時、齢で21。世間では東日本大震災から1年ほど経った時期であった。
・あんかず、実家(地元)へ戻る
ちょうど中退したタイミングが受験期が終わったころだったので、来年やりなさいと
家族会議で言っていただき、わざわざ予備校まで通ったが、根っからの勉強嫌いなので、全然続かず(そもそも勉強しに東京の予備校まで行くのは、総武線には誘惑が多すぎる)
ゲーセンに行くかという選択肢になった(ダメすぎる)
だがこの時にはもう元ホームであった「ゲームFUJI小岩」は閉店していた
そのため、後楽園の場外馬券場によく行った(笑)
そんな生活をしていたせいか大した勉強もせずに、滑り止めで受かった地元の大学に通うことにする。
大学に受かったは良いものの、大学のレベルが低かったことからか、なかなか分かり合える友人は出来なかった。
決してぼっちではない。単に友人を選んでいただけ。
元々、年上の人との絡みが多かったから好みが違ったのも大きいかもしれない。
大学なんてどこに行っても将来20-30年したら出身なんて関係なくなるよ。そう言い聞かしていたが、今までで一番の誤算はここかもしれない。
まさか話が分かるやつがこんなにいないなんて…
・大学時代
高校時代に影響を受けて、ホームを移動したOさんは「ゲームFUJI市川」に戻っており大学も近くだったので、ちょくちょく顔を出すようにした。
この時はスタホ3とガリレオがメダルゲームでよくやっていて、麻雀格闘俱楽部とMJも引き続きやっていたから、その時の縁が続いている方もチラホラ。
大学で友達が出来なかった分、ここの常連とはめちゃめちゃ仲良くなった。
ガリレオばっかりやってるFさん、事情通のAさん、たまに何言ってるか聞き取れないけどめっちゃ優しいMさん、どのゲームやらせても上手いSさん、強烈なキャラ(酔わせたときのみ)のEさんなどなど。
まぁこの時期にめちゃめちゃ知り合いましたね。
ガリレオはなくなり、スタホ3のオンラインが消えることで何人かいなくなりましたが、
連絡を取ろうと思えば今でも取れるかと。
ただOさんは途中で出禁になってました(笑)
・社会人時代
ガリレオも故障多発で撤去。オフラインのスタホ3をやる気は全然なく、しばらくはエターナルナイツ(途中からエルドラクラウン)で色々教えてもらいながら、全国ランカーの人の動画見たり、
物資の輸送手伝ったりなどなど、それもつかぬ間エルドラクラウンのバージョンが上がるタイミングで撤去した。一応まだその時のフォロワーさんはいるしデータもそのまま残してる。
エルドラクラウンが無くなって、いよいよやることが無くなったなと思ったが、
スタホ3がオフライン稼働を続けていた。しかもプレイヤーが少ない。
このプレイヤーが少ないっていうのが一番いい。
今まで常連で誰が出すかなんていうのを譲り合ってたというのと、
データは消えてなかったので、再開することにした。
この時期は本当に濃かったし、面白かった。過去最高の7万越えもこの時期に作成できたし、SWBCを何度も勝つってのはなかなか難しいことだったが、未練なく終われた。
まだデータは残っているので残りの1カ月どうしようか悩んでいる。
最後に半年前から導入されたスタホ4に関して。
閉店するくらいなら導入してもらいたくなかったな…
とりあえずようやく走らせても良さそうな馬ができたので、使ってから進退は考えてる。
こんなゲーセンだけどもあと1ヶ月ちょい。
最終日の閉店の時には何か差し入れくらい持っていかないといけないかな。