『幸福な王子』 レビュー②
Oscar Wilde, The Happy Prince レビュー②
越冬つばめが黄金色に光る王子の巨像の肩にとまった。その像には生前の、王子の魂が宿っていた。
“Will you not stay with me for one night, and be my messenger?”
つばめは王子の願いを聞き入れる。一晩は二晩へと増えていく。つばめは、剣の束に埋め込まれたルビー、両目のサファイア、そして全身に施された金箔のすべてを一軒一軒に届けて回る。黄金色の王子は一晩にして灰色に薄汚い巨像になり、つばめは寒さに震えながら王子の足元で息を引き取った。
前回、童話『桃太郎』を引き合いに出し、三匹の動物たちとつばめの選択の根拠に触れた。動物たちは「見返り」で提案を受け入れたが、つばめは「意志」によった。つまり、つばめのなかで独自に生じた変化こそがこの物語の肝である。その変化のタイミングは、片目を貧者に届ける瞬間に訪れる。
王子は一つ目のサファイアを劇作家の下へ届けるよう促した。つばめが泣いて答える場面を引用する。
“Dear prince” said swallow, “I cannot do that”; and he began to weep.
解釈によっては、代名詞heの対象が絞れないということも生じてくるだろうか。そこは、巨像に流せる涙は無い、と言ってしまってもよいが、素直に読むなら、涙を流したのは「つばめ」だろう。ならばなぜ“it”で受けなかったのか。本著冒頭のつばめ登場から、つばめの代名詞にはheが当てられていた。これはもちろん、擬人的に描き出すことによって寓意を引き出すのが狙いだ。引き出された寓意とは、前回見出したそれだ。
涙は言い得ぬ何かを言わしめる装置であり、また対象からそれを引き出す能力をも備えている。涙のあとには王子の発話、心に決めたサファイアの宛先を告げるセリフが用意されていたことから、涙の機能は前者に傾く。つばめの涙は、言い得ぬ何か我々に伝えている。彼は、どうして泣いたのか。
フォルマリズムに答えをもとめてみようか。つばめは王子の”messenger“として願いを聞く。このときつばめの所属する身体は、次第に王子のそれと深く接触しながら、「右腕」として、町を駆け抜けるたびに、同一深化していく。そうしてつばめが、はじめて王子の意志を超えた動作(=落涙)を見せたとき、二つの意志と二つ身体は、限りなく合一に収束したのではないだろうか。それを象徴するかのように、王子の目に備えつけられた宝石の色は青く、それが外れ落ちる様はまるで、王子の落涙とも見え、心身ともにつばめと王子の間につながりが産まれたと読める。
技術を念頭に置けば、そのように読むこともできなくはないだろう。しかし求めたい読みは、もっと素直で瞬間的な読みだ。どうして泣いたのか。それは王子の自己犠牲。それだけで十分なのではないだろうか。人が、所有の範囲を超えて、自らの部分を差し出す行為に、自己犠牲と名前をつけることは許されるはずだ。そして自己犠牲は、崇高を孕んでいる。
「本当の勇気とは、おなかの減っている仲間に、食べ物を分け与えることだ」
そういったのは帰還兵の作家、やなせたかしだ。美徳ではある。できないことだったのだとおもう。尊敬、希望、憧れ……祈り。だからこそ、物語の中に私たちは、私たちの「あるべき姿」を描き出したいのだ。人の夢。あり得たかもしれない未来。負けない姿。本当の自分を生きられる場所が、ここだったのだ。
つばめは灰色になった王子の足元で息絶える。鳥の死骸と灰色の巨像を汚らしく感じた市長が死骸と像の撤去を命令。すみやかに解体される。最後、「最も美しいものを探してきなさい」という神の命令を受けた天使が現れ、集積場に捨て置かれた鉛の心臓とつばめの死骸を運び去る。
それがどこまで崇高を書き表すことに成功したかは、私の判断するところではない。これをはじめて読んだ幼年期の筆者は、言い得ぬ何かを言わしめたこの物語に、崇高の一滴を味わっていたに違いない。