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恋してランゴリー #5 見せる自由、見せない自由

「はしたない」の呪縛

私がインド映画を見始めた20数年前のことです。

ある映画のキスシーンに、インド映画界が大論争に沸いていました。それまではキスシーンといっても比喩的であったり顔で隠れるようになっていたりしていたのが、リアルに唇と唇が触れ合うシーンだったためです。

当時は女優さんも「見せパン」的なスコートを履いてやっとミニスカートを披露できるという具合。そんなの見せても見せなくてもどうということはないのに……とよく思ったものです。

いっぽう、私自身もチュニックの上にストールを羽織らずにいると「胸の形がそのまま出る、はしたない、ドゥパッタ(ストール)をかけなさい」と友だちのお母さんに注意されました。実際、自分たちのコミュニティ外の外国人ならいいだろうと、当時はうんざりするほどすれ違いざまの痴漢(一瞬の早技で胸やお尻を掴んでいく)に遭いました。

憤慨していると、よく言われたものです。

なるべく目立たず、肌を露出せず、慎ましくいなさい、と。

痴漢も性犯罪もするほうが悪いに決まってるのです。そんなことは皆分かっています。それでも「あなたが気をつけないからそうなる」という呪縛はどこまでもついて回りました。

日印女性の意識の差

日本でも同じことが起きています。

痴漢や性犯罪の被害者がなぜか責められる。セクハラに遭おうとも笑ってやり過ごせとたしなめられる。そんな服を着ているからだとか、あなたが魅力的だからしかたないと言われる。

女子のはしくれとして私自身も悶々としてきたことです。

そんなとき思い出すのが、インド女性の強さ。

デリーのメトロには女性専用車があります。そこは一般車両よりも空いていることがたまにあり、そんななかにヒョイと「お、こっちのほうが楽だ」とばかりに若い男性数人が乗り込んできました。

その途端、車両中の女子たちがみごとに結束して「出て行け!」と声を荒げて彼らを追いやりました。

なにかと抑圧されていると思われがちなインド女性ですが、都会で通勤のためにメトロを利用するような彼女たちは、閉ざされたコミュニティで黙らざるを得ない女性たちとは違い、自信に満ちていました。

日本だったらきっと皆、見て見ぬふりをするだろうなと思います。

インドの都会の女性たちは急速にアップデートしているのだと思ったできごとでした。

自由であることとは

男とか女とか、そのほかであるとか、そんなこととは別のところで、誰だって好きな服を着ていいとしみじみ思うのです。

下着という服の下に身につけるものを扱うランゴリーさんと関わらせていただいてこのところその思いを新たにしています。

肌を見せてはいけない、むやみに誘惑してはならない、そういう価値観はそろそろアップデートしてよいのではないかしら。

自分に、そして自分の身体に自信を持ち、堂々と肌を見せることのなにがいけないのか。見せるにしろ見せないにしろ、その判断は自分自身であるべきです。「はしたない」というジャッジを他者がすることへの違和感を、次世代に持ち越したくないなぁと思います。

重力に逆らうべく筋トレに奮闘する46歳の私だって、腹筋が割れたらぜひとも見せたいところです。割れなくたって見せていいと思いますけどね、せっかくなら「おお、がんばったね」と褒められたいですもの。

自由とは選択肢が増えること。そのために悩みが増えることも、責任が生じることも、そして痛い目に遭ってそれを受け止めねばならないこともあり、縛られていたほうが楽なのかもしれないと思いながらも、私はなにごとも自分で決めていきたい。

チョコレートを食べながら、ランゴリーさんの新作ブラを身につけるために明日はもうちょっと節制しようと誓う夜です。

Happy Valentine💕

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