『タゴール・ソングス』を観てきました
映画館で聴くインド国歌
3か月ぶりの映画館! 『タゴール・ソングス Tagore Songs』の初日初回に行くことができました。
極私的な散文ですが内容にも触れているので未見の方はご注意ください。
企画したツアーがすべてキャンセルのいま、映し出されるコルカタの景色はそれだけで「エモい」。この言葉そんなに使わないけど、これ以外に思い浮かびません。
劇中、最初のほうでふいに流れるインド国歌『Jana Gana Mana』。インドの映画館では州によっては開映前にこの曲が流れます。観客は起立してじっと曲が終わるのを待つか、または一緒に朗々と歌うか、それぞれだけれども、とにもかくにも、この曲はインドに通い、インド映画を観続けてきた自分にとってもいつも心にあるもので、ふいに流れてきたメロディにウッとなってしまいました。
えー、そんなことを言いつつもちゃんとそらで歌えるのは最後の"Jaya hai, jaya hai, Jaya jaya jaya jaya hai(勝利を、勝利を、汝に勝利を)"の部分だけでございます。まことにかたじけない。
詩のほとんどがインド各地の地名で、なんというか何度聴いても「インド広いよなあ」という情緒のかけらもない感想なのもたいへん申し訳ない。
偉人とベンガル
『Jana Gana Mana』がインド国歌で、詩聖タゴールの詩によるものというのは、まがりなりにもインドに関わってきた者の知識として知ってはいます。
ただタゴールの地ベンガル(コルカタを中心とする西ベンガル州及びバングラデシュ)は私のインド渡航歴のなかでも手薄いほうで、おまけに私の印象のベンガル人はなんだか賢そうな顔つきでいつも小理屈を述べている人たちで、同じインドとはいっても私が好むガラッパチ文化とはちょっと違うところにあります。『詩聖』とつけられるような偉人の話もとても遠くて、熱心に知ろうとはしていなかったと思います。
ひとりで進め
なぜいまごろになってタゴールの残した詩に興味が出て、この作品を観てみたいと思ったかと言うと、本作の佐々木美佳監督のこのツイートに心奪われたから。
残念ながらベンガル語は分からないのでこの日本語の訳詩を拝見しただけですが、とてもグッときました。
4年前に10年間いた高給をくれる会社をやめてインド映画を買い付け、配給しようとしたとき「まるでジャングルにひとりでスコップと高枝ばさみで道を作ろうとしているみたい」とボヤいていたことがありました。
ほんとうはそんなことはなく、力になってくれた友人知人やエライ人はいるし、全力で頼れば助けてくださった方もいたはずなのですが、長年サラリーマンで会社の看板の下でしか仕事をしてこなかった弊害なのか、当時の私の視界はどこか濁っていて、まるで孤軍奮闘しているかのような感覚がいつもありました。
この4年間公私ともにいろいろなことがあり、上がったり下がったりを繰り返しながら暮らしてきて、気づいたら自分と同じようにスコップ片手にどこかへの道を作ろうとしている仲間がいました。
みな、それぞれひとりで進んでいる。
傍目には会社組織であったりなんらかのグループでやっているように見えても、私が尊敬する人たちはみな、その心は "proudly single"(気高くひとり)です。
たぶん、誰もやっていないことをやっているから。
『ひとりで進め』、インド映画の近年の名曲をたくさん歌っているプレイバックシンガー、みんな大好きShreya Goshalさんバージョンはこちら。
皆一緒に進んでいった
後半、タゴールの歌を伝承することを生業とする老境にさしかかった独り身の男と、その娘ほどの若さの弟子が、背中合わせに歌う曲。バルコニーでタバコをくゆらしながら歌う師の細かな音階や息継ぎをそのままに、なにひとつ違わずに寄り添う弟子の女声。ふたりは決して向かい合わないし微笑みも交わさないのだけれど、とてもエモーショナルで、エロティックなシーンでした。
ひとりで進む者たちが、何かをきっかけに、あるいはなにかを通じて、その時々の必要によって暗闇を一緒に進んでいくのか。名もない道に、いつか名前がつけられるのか。タゴールの詩はいろいろな解釈ができそうで、とても難しく、そしてとても優しい。
風に煽られ赤土をかぶり
早くに両親をなくし、路上生活を経て施設で育ち生きる情熱をタゴールの言葉から手に入れたという少年。まだ10代なのにその顔はときどきとても大人びていて、自分より幼い子どもたち相手に歌を教える姿は少年ではない。
その彼が、列車に乗ってどこかへ旅立つ。混み合った車内ではなく、屋根の上に乗って。かたわらには同じような身なりの、おそらく同じような境遇の少年たち。風に煽られながら屋根の上で彼が歌い出すと、隣の別の少年がうっとりと目を閉じる。下からあおるカメラが、むき出しの空に彼らの姿をそびえ立たせているよう。
余談。列車の屋根の上で歌うというシチュエーションは、1998年の"Dil Se.."であまりにも斬新だった一曲"Chaiyya Chaiyya"を思い出しました。
インド文化はポップカルチャー
ちょうど昨日まで、自粛期間中にあまりにうつうつとしていた気分を刷新したくて勢いだけで始めたオンライン企画『インドトークリレー』を毎週末に開催していました(おかげさまで全6回600名様近くのお客様にご覧いただきまして感謝致します!)。
そのなかで、20年来の友人であり私のインド歴のごく初期からずっと尊敬してやまない編集者であり写真家でもある松岡宏大さんに、ものすごくいまさらながら「インドのどこが好きなのか」と尋ねました。
「インド文化の根底がポップカルチャーというところ」というのが彼の答え。
一瞬、分からなかったけれど、確かにそうなのです。
王族の放蕩息子ともいえる釈迦が開いた仏教は、伝播していく過程でさまざまに変化を遂げるものの、やはりどこか高潔であることや、清廉潔白なやんごとなき精神を求めます。
一方、仏教のあとにインドの地に広まったヒンドゥー教は、富を、商才を、良縁を、人間の欲望をえげつないまでに祈ってよい神様が星の数ほどいます。その姿は極彩色に描かれ、きらきらと飾り立てられ、信仰に薄い身からは実に即物的に見えます。
そんなヒンドゥー教カルチャーが全土のざっくりいって8割を占める国インドです。ときになにもかもが茶番に思えるようなカオスのなかで人がひしめきあって暮らしていて、高潔なだけでは暮らしていけません。
本作で、タゴールの詩を好きといい、すらすらとそらんじて歌うのが知識層だけではないことが、私にはとても印象的でした。インテリ顔の女性から、道端の庶民的なおっちゃんまで、みながタゴールを心のどこかに拠り所として持っている。
驚くことにそこには信仰による違いもなく、なにかといがみ合いがちなヒンドゥー教徒もイスラーム教徒も、等しくタゴールを愛しているのです。それはタゴールの言葉が神を称えるのではなく、彼自身が唯一無二の存在として、母なるベンガルの土地とそこに暮らす人々の心を言葉に写しとったからなのかなと思います。
なにより隣国のイスラーム教の国バングラデシュの国歌もタゴールの詩だということを初めて知ってとても驚きました。国を分かつほどの歴史があるにも関わらず、タゴールは「ベンガル」の名の下にどちらの国の人々の中にも生き続けているのでした。
ああ、タゴールは名家の坊ちゃんとして生まれたけれど、彼自身の心には、地主や小作、支配者や被支配者といった意識はなかったのだ。
自分たちとは違う世界の『詩聖』と認識していながらも、あらゆる階層の人々が常に彼の言葉を心に親しんでいるのは、そういうことなのだ。彼をポップカルチャーと表現するのはあまりにも乱暴だけれども。
多人種多宗教のインドが、宗教や階級でバラバラになることをおそれ、インドは「インド人としての誇りを持て」とことあるごとに啓蒙します。ご当地意識がとても強いインドですが、ベンガル人であるとかタミル人であるとか、ヒンドゥー教徒とかイスラーム教徒とか、そういうことではなく、「インド人として団結せよ」というメッセージは娯楽作のインド映画でも繰り返し登場するテーマ。
タゴールの詩が国歌となり映画館で流れされるという、慣れ親しみあまり不思議にも疑問にも思ってこなかった出来事。なぜそれがそうなったのか。この作品でその理由がすこし分かったように思います。