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『話の話』を記述する(その20~ちょっと能書き)

 切り絵アニメという平面的な素材で表現を開拓してきたこの作者ノルシュテインにとって、絵がひらべったくなることをまったく恐れをいだいてはいない。
 現在比較的廉価で購入できるノルシュテイン作品集DVDを視聴すれば二時間足らずでこれまでの作品をすべて見終えることができる。
そしてこの作者が『いかにひらべったさを・自らの表現の強み』としてきたか確認できるだろうけれど、ここで各作品に立ち入るのは遠慮しておこう。
 ここまでの記述の進行度合いとその記述の質からして、これは通常の論文の書式から大きく逸脱している。これ以上の迂回は危険である。

 同じ平面素材アニメとしてある日本のセルアニメを、意識せず見馴れているわれわれにとって、宮崎駿のように手を変え品を変えて自らの平面性に抗おうとする者もいれば、そんなことに何ら危機意識も持たず作られて・意図せずにひらべったい、多くの商業日本セルアニメがあることをわれわれは日々テレビのチャンネルをひねりながら知っている。

奥行きを自在に往還するアニメ作家・宮崎駿は、ときに応じて「ひらべったさ」も大胆に披露する。

いや、3DCGアニメが隆盛しているはずのアニメのグローバルな状況にあって、これほどひらべったいアニメに日々取り巻かれているのは日本独自の現象だろう。

 『話の話』が作為的に・演出術のひとつとして選び取っている「あざとい・ひらべったさ」の特異性はグローバルに通じる独創性がある。
 それが驚きだし、その驚きのひとつひとつを確認するためにも、この論考を書いている。
 それにしても、ノルシュテインの場合、自らのひらべったさを重々意識しながら、それを恐れるに足らず、『ひらべったさを・露骨に楽しむ』者であることを知る。


 つまり自分の手がける切り絵アニメのひらべったい出自を、むしろ積極的に愉しもうとしている。
 そしてノルシュテインのその『余裕』は、必要とあればいつでも、自分の画面を『立体的に・躍動させる』その術を知り抜いているからだ、と思えるのだ。


この項、おわりです。具体的な分析ができてなくてすみません。
その21へつづきます。

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