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宮崎アニメのおはなし2023(その1)~「似ている」性

 この記事は、日本近代文学会北海道支部例会2023年9月23日にて行われた発表「セルがセルをまたぐときーアニメの表現を記述する試み」を(カットした箇所も復元した)再掲したものです。

 今回は宮崎アニメで頻繁に散見される、ある・ひとつの表現=「セルまたぎ」についてお話しし、皆さまからご意見をうけたまわりたいと思います。
 率直に言って、この表現=「セルまたぎ」を発見したわたしは、この表現をどう解釈していいか戸惑っています。その表現について意識したひとは、おそらく誰もいません。宮崎アニメを愛好するひとはもちろん、アニメ研究者や、あるいは制作現場のスタッフも、ほぼ誰ひとり気づいていない表現だと思います。
 そんな、誰からも注目されていない表現=「セルまたぎ」を、宮崎駿はなぜ繰り返し実践しているのでしょうか?今回はその表現を提出し、皆さんからの率直なご意見をうかがいたく、発表させていただきます。
 
 前置きはこれぐらいにして発表に移りたいと思います。ただし今回議題にあげたい表現=「セルまたぎ」を説明するには、アニメ表現の基礎をいくつかご説明する必要があります。話題を迂回するかっこうになりますがご理解ください。

1.空間の「似ている」性
 まずアニメというのは絵を複数描くことで虚構の運動・いつわりの運動をつくり出すメディアであると、よく定義されます。
 しかし今回新たに説明したいのは、絵をいくつも描くことは、虚構の運動だけでなく『虚構の・空間』をつくりだすことでもあることを、まずご説明したいと思います。
 それを確認してもらうべく、アニメ『魔女の宅急便』の1シーンを見ていただきます。

右端のお皿とスプーンに注目
テーブル上の食器類に注目
角度を変えて見える食器類

 風邪を引いて床にふせった少女・キキに、大家の女性・オソノさんが病人食をふるまって激励する場面です。
 注目すべきはふたりの傍らに置かれたサイドテーブル上の食器類です。3つの角度から同じ食器・皿やポットが描かれています。
 いま「同じ食器」と言いました。しかしそれらは本当に「同じ食器」なのでしょうか?
 いいえ。これらの食器は実は「同じもの」ではありません。
 同じ食器に見えるように、作画スタッフ・背景美術スタッフが、それぞれ角度を変えて一枚一枚、違う絵を「似ているように」見せて描き出しているのです。
 細かいことにこだわって、詭弁を弄しているように聞こえるかもしれませんが、「アニメにおいては、背景の空間はすべて一枚一枚手作業で描かれている」のです。それは厳然たる事実です。
 ですから、それぞれ一枚一枚、違う角度から「似ている」背景や小道具を描き出して、それらの絵をモンタージュすることによって、ひとつの「虚構の空間」が、あたかも現実に存在するかのように視聴者に錯覚させるのです。
 存在しない虚構の空間を、「同じ絵」ではなく、「似ている絵」でつくりだすのが、アニメの特性です。
 参考に実写映画を見てみましょう。
 小津安二郎の『小早川家の秋』からサンプルしました。
 こちらも同じ空間を複数のアングルから描きだしています。虹色の柄のテーブルクロスが観客が空間を想像する上で役に立ちます。

女性の左端のテーブルクロスに注目
同じテーブルクロスが今度は右側に
ここにもテーブルクロス

 この空間はかつて実在しました。セットを組まれたのか、ロケでどこかの空間を使ったのかはわかりません。しかしこの空間は虚構の空間ではなく、実在した空間です。虹色の縞が織りなすテーブルクロスが複数の角度から映されていましたが、おそらくそれは「同じもの」・同じ小道具でしょう。わざわざ似ている柄のテーブルクロスをアングルごとに用意したとは考えられません。
 実写とアニメの、同じ空間の描き方をそれぞれ確認しました。
 比較してわかることは、アニメの場合、実在する空間は存在せず、似たような絵を組み合わせることによって視聴者の脳内でかろうじて立ち上がる、それがアニメの空間と定義できるでしょう。
 それがわかれば、次の図版『オン・ユア・マーク』のいち場面を図版として引きましたが、この銃をかまえた人物が、通路の途中にうがたれた・こちらからは見えない空間に向かって発砲をしていますが、その奥の空間は存在しないこともご理解いただけるでしょう。

発砲する先の空間は存在しない

 実写映画のように、何らかの空間をセットとしてつくったりはしていなくて、端的に『存在しない空間』の・その開口部が描き出され、その存在しない空間に向けて発砲しているだけなのです。
 
 ついでに面白い例を引いてみましょう。『ハウルの動く城』です。

中庭に飛行機の影が映っていますが……

 レンガづくりの路面に影が落ちていて、そこに飛行機の影が映っています。デジタル処理がなかった時代なら、実写映画の場合、本物でなくとも、何らかの飛行物を上空に飛ばすことで地面に影をつくることをしたでしょう。
 しかしアニメの場合、フレームから見切れている空間は端的に『存在しない』のでした。このカットのこの瞬間、上空は存在しないし、飛行機も存在しないのです。そして影だけが影の主人がいないまま動いているのです。
 それでいて『存在しないはずの空や飛行機の存在』をありありと感じさせる宮崎駿ならではの卓抜したアニメ表現だと思います。

2.動きが「似ている=ルサンブランス」
 さて話の方向を少し変えましょう。
 最初にアニメにおける空間についてお話しました。その要点は、違う絵がお互い「似ている」ことによって、同じ空間であるかのように錯覚させる、その「似ている性」、とりあえずそれをルサンブランス(Resemblance)と横文字で言っておきましょう。
 美術スタッフが描いた背景の絵、それから場合によってアニメーターが描く小道具の絵が、それぞれ「互いに・似かよる」ことによって同じ空間が描かれたことを確認してきました。
 
 しかし動きは?
 アニメはしばしば偏って理解されるように、『運動を創造するメディア』だと言われます。しかしいま確認したようにアニメは『空間を創造することにも長けたメディア』なのでした。
 それはそれとして、運動は、これまでの話のなかでどう位置づけられるでしょう?
 
 実は運動も「似ている=ルサンブランス」によって出来ているのです。
 これは『魔女の宅急便』の主人公の少女・キキが自宅近辺を歩き回る描写です。

 コマ送りしてみましょうか。
 ひとコマひとコマ、動いていますね。違う絵でしょうか。違う絵ですね。でもまったく違うわけでもない。少しずつ動きの違いがあるけれど、おおむね少女キキの原型は保たれて、動きの差異が提示されて連続することで動きが立ち上がります。
 お気づきの方もいるでしょう。アニメにおいて動きとは「似ている絵」を連ねることで運動として認識されています。

 アニメーションの論考に多少通じているひとならば、現在アニメ論の通説では、動きとは「原形質性」に依っている、という論調が優勢です。
 エイゼンシュタインが提唱したこの「原形質性」とは、『動きの躍動性』を重視したコンセプトで言及された定義語です。そのコンセプトは、それぞれ『形が違うこと』によってこそ、動きは躍動するという理解でいいかと思います。
 しかしどうでしょう。
 動きが本当につぎつぎと、躍動的に形が変わってしまったとしたら、それをひとは同じものと認識するでしょうか。たとえば最初丸だった一枚目の絵が2枚目は四角形になり、3枚目は星型になり、4枚目は何々、という風に文字通り躍動して動かれたら、見る人はただランダムなパターンを見せられて目がチカチカするだけでしょう。
 もちろんエイゼンシュタインもそんなことを言うつもりはなかったのでしょう。彼はただ、差異の方・違いの方に目が行ってしまい、「動くモノ・そのものが、どうやって同一性を保つのか」に配慮しない物言いをしてしまっただけです。
 では、同一性を保ちつつ、どうやって躍動性のある動きを作れるのか?
 答えは先ほど申しました。
「似ていれば」いいだけのことです。「似ているけれど・ちょっとずつ形が違う」ことによって、アニメーションは破綻なく・同じようなモノやヒトとして動くのでした。

 余談ですが、このように「同じ」と「差異」ではなく「似ている」という観点から「同一性」を考えることは示唆的な含みをもつようにも考えられます。実際、生命をもった生き物にも案外、この「似ている=ルサンブランス」によってその「新たな同一性」が定義できるのではないかな?とも思います。
 今回の発表の準備にあたっていろいろ文献を読んでいましたら、美術作家・美術批評家の岡崎乾二郎さんが一昨年脳梗塞で倒れられて半身不随になり・リハビリにはげんだ談話に出会いました。
 倒れて半身不随になって、かつての自分とは思えない身体的不自由のなか、リハビリの過程で徐々に出来ることが増えていく喜びを語りながら、それでも脳梗塞に見舞われる前と後ではどうしても同じ自分に思えないと、不思議そうに語っていました。
 これ、つまり「似ている=ルサンブランス」の話ではないでしょうか?
 発症前と発症後の自分は同じではない。その誤差をリハビリでは解消できないが、でも重なっている自分もいる。
 岡崎乾二郎さんは半身不随という大きな変異に見舞われて痛感したわけですが、案外普通に生きている我々も「少しずつ日々違うけど・でも似ている」自分を生きているのではないかと思いました。
 ということで、余談ですが、新しいアイデンティティの定義の話をしてみました。

(その2へつづく)


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