『劇場版モノノ怪 -小噺-』
七つ口の待ち人
著・新 八角
大奥の門番を務める広敷番。その一日は長い。
奥女中たちの通用門である七つ口は朝五つに開いて、夕七つに閉まる。その間は次々に現れる御用商人や大奥への客人を見張り、城外に用向きのある奥女中たちの出入りも逐一把握する。門が閉まったかと思えば、今度は夜の当直があり、夜間の見張りを行うのだ。その上、昼間ひっきりなしに運ばれてくる献上品や大奥で入用のものは、七つ口に留め置かれる。その検分や運搬も広敷番が務めねばならない。それゆえ、唯一気が休まるのは、七つ口が開く前、朝支度を終えた後のわずかな時間だった。
広敷番の一人である木村は、そこで日々の鍛錬を行うと決めていた。素振りや型の確認、時には水桶を背負って走るようなこともする。誰に言われたわけでもない。ただ、広敷番の中でも長年警固を任せられてきた自負があった。日がな一日門前に立ち、事が起きれば先陣を切らねばならない。自らを鍛えることは、大奥を守るという務めの一部だと思っていた。
まだ外門の開かれていない時刻の七つ口は、当然人がいない。朝の静けさを胸いっぱいに吸い込んで刀の素振りを行うと、次第に全身がぴんと張り詰めていくような心地がする。木村は単純に、それが気持ち良いとも思っていた。
しかし、このところ、その朝の時間が変わりつつあった。木村から少し離れたところで、二人の若い広敷番が稽古をするようになったのだ。名は、須藤と浅沼。七つ口に来てまだ日も浅く、普段は奥女中たちが暮らす長局向へと続く内門を守っている。その二人が、数日前から、突然、鍛錬を始めた。
正直なところ、やりにくくて仕方がない。
気づかれていないつもりなのだろうが、背後からの視線を感じるのだ。一日や二日で済むなら見過ごそうと思っていたが、今日もまたすごすごと現れては、端の方で素振りを始めた。木村は溜め息を一つ吐き出すと、二人の元へ向かった。
「お前たち、何用だ」
声をかけると、二人とも手を止めて頭を下げてくる。
「おはようございます、木村殿ー! 我々も、稽古をしております!」
快活な返事をしたのは、浅沼だった。背丈は小さいが、体はがっしりとしていて、素振りも様になっていた。おそらくもともと腕の立つ方なのだろう。
「……お邪魔でしたでしょうか」
続けて控えめに尋ねて来たのが須藤。浅沼とは対照的にひょろりとして、線が細い。当直部屋でもいつも書物を読んでいることから、広敷番の中ではあまり武芸に秀でている印象はなかった。実際、稽古の様子もまだ甘い。
「若い連中の間で、賭けでも負けたのか?」
「そんな、自分でやろうと思ったんですよー!」
慌ててかぶりを振る浅沼に、須藤も続ける。
「本当です。我々も木村殿のように強くなりたいと思いまして」
「いずれにしても、急な話だな」
「それは……」
「――モノノ怪騒ぎです!」
言いよどんだ須藤にかまわず、浅沼が叫ぶ。そして、「あっ!」と言って、口をつぐんだ。半月ほど前、大餅曳の儀で起きた長局向の騒動。何人もの奥女中が死んだが、それはモノノ怪のせいだった、という話だ。木村自身はそれを見たわけではないが、何名か――まさに、須藤と浅沼、そして古株の坂下――が対面したという。広敷番の中には信じられないという者もおり、モノノ怪、という言葉を出すのは皆自然と避けている。
須藤は浅沼に向かって咎めるような視線を送っていたが、結局木村に向き直ると、
「我々は、何もできなかったのです」
と呟いた。
「よそ者に頼るほかなかった」
「あの、薬売りか……」
項垂れる須藤に、木村もかける言葉が見つからない。半月前の騒ぎの折、七つ口に怪しい薬売りが現れた。その男は広敷番の制止も聞かず、モノノ怪を祓うと言って、長局向に入り込んだのだ。実際、確かに騒ぎは収まったが、結局薬売りが何をしたのか知る者はいない。そして、当人はすぐに姿を消してしまった。木村は今でもあの男を思い出すと、狐につままれたような気がする。
「あれは……只者ではない」
「木村殿の目から見ても、そう思いますか」
「ああ」
「我々も、もっと強くなれば――」
「目指すべき者でもない」
「……」
「稽古をいくらしようと、あんなものになれるとはゆめゆめ思うな。人が鳥を真似して、空を飛ぼうとするようなものだ」
そう言うと、須藤と浅沼はがっくりと肩を落とす。その落ち込みように、木村は思わず笑ってしまうほどだった。
「……が、まあ、鍛錬をして損することはない。打ち込みをしてみろ。俺で良ければ、少し見てやろう」
今度は打って変わって、二人の顔に光が差す。その変わりように、木村はまた笑ってしまった。
それから、しばらく木村は須藤たちの稽古に付き合った。今のところ、浅沼の方が何枚も上手だが、須藤も決して折れることがない。なるほど、強くなりたいという想いは生半可なものではないようだった。
一通り稽古を終えたころには、須藤も浅沼も汗だくになっていた。井戸水を浸した手ぬぐいで顔を拭う二人を見ながら、木村はふと尋ねた。
「しかし、どうして俺なんだ。坂下殿に教えを乞えばよいだろう。あの方は居合の達人だ。御前試合にも出ている」
すると、浅沼が口をとがらせる。
「なんだかんだと言い訳して、教えてくださらないんです。謙遜していらっしゃるのか……。木村殿は、手合わせをしたことがありますか?」
「いや……ただ、目の前でその技を見たことはある」
木村が言うと、須藤と浅沼は俄然興味を引かれたようで、身を乗り出す。広敷番の中では有名な話だが、二人はまだ聞いたことがなかったらしい。
「ずっと昔のことだ。まだ俺も坂下殿も若かった。とある奥女中が代参で外に出た折、妙な男に引っかかった。少し話をしただけだというが……まあ、いい。いずれにせよ、逃げかえってきたところを男が追って来た。俺は止めようとしたんだが……相手は剣術指南役を務めたこともある男でな。恥ずかしいことに、まるで敵わなかった。その時にできた傷が、これだ」
木村は左目を跨ぐ傷痕を指した。
幸い目は無事だったが、当時は流石に覚悟をしたことを覚えている。顔を斬られて尻餅をついたところ、間髪を容れずに相手はもう一太刀と振りかぶったのだ。
しかし、次の瞬間、相手の首から血が噴き出していた。駆け寄った坂下の一刀で、勝負はついていた。
「……見た、と言っても、目に見えぬ速さだったがな」
思い出に耽りながら木村が呟くと、浅沼はまだ疑いのこもった目で見つめてくる。
「坂下殿が……?」
「信じられんか」
「疑うわけではありませんが……坂下殿は、いつも奥女中たちにからかわれているようなお方ですから」
「昔はしょっちゅう商人と喧嘩していたんだがなぁ」
「ええ~!」
「それがころりと人が変わったんだ。あれは、いつだったか……」
と、木村がさらに話を続けようとしたところで、当の本人が現れる。坂下は随分と訝しむ様子で近づいてきた。
「なんだ、朝から騒がしい……」
すると、須藤が答える。
「木村殿に稽古をつけていただいておりました」
「……あの話、本気だったのか」
呆れ顔の坂下に、浅沼は「本気です!」と詰め寄った。
「坂下殿! もったいぶらず、教えてください! あの薬売りのように、強くなるための秘訣を!」
「そんなことを聞いたところで……」
坂下はすぐに及び腰になるが、そこですかさず木村は口を挟んだ。
「そうです、坂下殿。諦めてもらいやしょう。そのためにも、なぜあの男が人並み外れて強いのか、坂下殿の見立てをお話すればよいのでは?」
「おい、木村……」
坂下は睨んでくるが、結局須藤と浅沼の期待に満ちた目に耐えきれなかったのだろう。大きな溜め息を一つ吐くと、言った。
「……覚悟が違うのだろう。本来、刀を抜くというのは、必ず相手を斬るという覚悟に他ならん。相手を切るということは、その全てを背負うということだ。普通、人はそれを受け止めきれん。あまりに重いことだからな。かといって、受け止めなければ、覚悟も半端なものになり、刀も鈍る。強くあるためには、全てを背負う覚悟を常に持たねばならんのだ。それは……並大抵のことではない」
須藤も浅沼も、そして木村さえも呆気にとられた。水を向けておきながらも、坂下がそこまで真面目に答えるとは思いもよらなかったのだ。あるいは、ここまで考えているからこそ、坂下は本当に強いのではないか、と木村は思う。
ふと浅沼が「やっぱり……!」と呟いた。
「坂下殿は、あの薬売りを高く買っているのですね!」
「なっ……! そういう話ではない……! わしはただ、当然のことを――」
と、そこに、太鼓の音が五つ鳴り響く。
「もう開門の時間ではないか! 無駄話は終わりだ!」
坂下の声に尻を叩かれ、朝の稽古はようやく終わりを告げた。木村は七つ口の外門を開き、門前のいつもの場所に立つ。まだ誰一人訪れる気配のない、静かな朝の始まりの中、木村はふと、どこかにあの大きな行李とかぶいた装いが現れまいか、と期待している自分に気づく。
案外、自分も同じなのかもしれない。
広敷番――大奥を守る男たちは、あの怪しい男を待っているのだ。その時、大奥に何が起きるかは、まだ思いもよらないのだが。
<了>