『劇場版モノノ怪 -小噺-』

並の友

著・新 八角

 諸白もろはく一升より並酒一杯。
 すなわち、都より長船にて下ってくる澄み清らかな酒をありがたがるよりも、城下の居酒いざけで浴びせ飲む、安かろう悪かろうの濁り酒。
 これが嵯峨平基さがひらもとのひそかな信条だった。曲がりなりにも名のある武家の跡継ぎである。もちろん、諸白と呼ばれる酒を飲んだことがないわけではない。それこそ、勘定奉行の父に付き添い接待の宴に出れば、上物の酒を注いで注がれて、味が分からなくなるほど酔ったことも一度や二度ではきかないだろう。しかし、それがどうにもうまいと思えなかった。埃まみれの庶民に混じり、小鍋をつついて熱燗あつかんをひっかける方が、よっぽど肌に合う。
 昼八つで勤めを終え、御城からまっすぐ町へやってきたこの日も、もともと居酒屋に寄るつもりはなかったのだ。ところが、普段は訪れることのない界隈に出て、ふと味噌の香ばしい香りに捕まった。味噌あるところに、居酒あり。気づけば、暖簾のれんをくぐっていた。
「へえ、いらっしゃい、お一人ですかい――」
 言いながら、顔を上げた店番が固まる。その眼の先にあるのは平基の腰のもの。
「お侍様……何か、御用で……」
「いや、一杯飲みたいだけだ。そこの端でかまわんさ。並酒を一つ、出してくれ」
「へぇ、すぐに」
 店の隅、なるべく外に近い床几しょうぎに腰を下ろしても、やはり武士の身なりは目立つらしい。他の客は皆町人で、向けられる視線はあまり温かなものではなかった。平基も、普段であれば着古しの小袖をまとい、刀も家に置いてくる。これは早まったか、などと一人苦笑していると、早速ちろりに入った熱々の酒が供された。器に注げば、むっと酒の香りが立ち上る。それから、味噌の乗った豆腐の串が一本目の前に置かれた。
田楽でんがくでございやす。うちはこれぐらいしか、ありませんで」
「十分だよ」
 へへぇ、と頭を下げてさがろうとする店番に、平基は「そうだ」と呼び止める。
「人を探しているんだが。歌舞伎役者のような色男でな。大きな行李こうりを背負った薬売り……覚えはないか?」
「はあ……薬売りが来ることはありやすが、色男と言いますと……」
「そうか。いや、気にするな」
 戸惑う相手の顔色から、嘘をついていないことは容易に見て取れる。平基は店番を持ち場に返すと、目の前の酒に集中することにした。茶碗のようにでかい盃に口を付け、すすると米の甘い香りが頭をくすぐる。
「はぁーっ」
 思わず熱い息が漏れた。味噌田楽も焦げと塩気がいい塩梅あんばいで、甘い酒によく合う。これは当たりだ、と平基はほくそ笑んだ。初めこそ気になった周囲の目も、呑み始めてしまえば関係ない。酒を飲み、田楽をかじり、息をつけば、昼の勤めに凝り固まった肩もほぐれてゆく。
 だが、いよいよ酒のお代わりをしようかと考え始めたころ、不意に冷ややかな声が頭の上から降ってきた。
「……おい、何をしているかと思えば」
 見れば、しかめ面の侍が立っている。時田三郎丸ときたさぶろうまる。なじみの男である。
「なんだ、遅かったな。手柄はあったのか」
 平基が尋ねると、三郎丸はますます眉間に皺を寄せた。
「そう簡単ではない。お前も少しは――」
「俺もちゃんと確かめたぞ。店番は知らんそうだ」
「……そうか」
「座らんのか?」
「酒はいい。次の御用商人ごようしょうにんは隣町だ。早く行くぞ」
「まだ残っている。無駄にはできないだろう」
 平基が盃を掲げると、三郎丸は大きな溜め息を一つ、それからどっかと隣に腰を下ろした。他の客はまた侍が来たと白い目を向けてくるが、まったく気にしていない。ぶつぶつと独り言を漏らしては、首をかしげている。
「しかし、わからない。あんなにかぶいた身なりの者を忘れるものか?」
 三郎丸はこのところ、一人の薬売りを探していた。半月ほど前に大奥に現れ、大餅曳おおもちひきの騒ぎの後、ぷっつりと姿を消した男だ。素性はおろか、名前もわかっていない。大奥に出入りする商人たちに顔見知りはいないかと、三郎丸は方々を尋ねて回っている。これは大奥のお目付け役として派遣された我々の責務だと言って、なぜか平基まで付き合わされているのだった。
「随分とご執心だな。見つけたところでどうする」
「いや、どうするというわけではないが……」
「姉の心配か」
「 なっ⁉」
「……さしずめ、またモノノ怪がでたら、と危ぶんでいるのだろう」
 平基が目を細めると、三郎丸は誤魔化すように顔を背けた。本当にわかりやすいやつだ、と呆れるほかない。
 酒から昇る湯気を指でいじりながら、平基は言った。
「何を恐れる。お前の姉君は天子様のご寵愛を受けているではないか。守る者がいくらでもいるさ。それに、近頃父君は老中大友ろうじゅうおおとも様に気に入られているだろう」
「……」
 三郎丸は黙り込む。気に障ったかと目を向ければ、意外にもその面持ちは暗かった。
「……人ではどうにもならんことがある」
「まあ、そうだな」
「お前は怖くないのか」
「どうにもならんなら、酒を飲むまでだ。……よいか、三郎丸、このあたりは先の大火事で一度は全て燃えている。それが見てみろ、今ではこんなに人で賑わっているだろう。死ぬものは死に、生きるものは生きる。時の運とは、そういうものだ」
「平基……このあたりは風上で、あの火事では燃えていない。適当を言うな」
「ばれたか」
 平基が笑うと、三郎丸はさらに深い溜め息を漏らす。その様子を見て、平基の胸にふと懐かしいものが蘇った。
「覚えているか、あの料理屋を」
 もう五年は前になるか、初めて登城した日、たまたま同じく初のお勤めだった三郎丸を平基が飲みに誘ったのだった。時田家は娘フキが天子様より受けるご寵愛によって武士の位を与えられたと聞いていたが、なるほど、一目見て三郎丸が武士の出ではないことはわかった。着物こそ立派だが、かみしもにも刀にもまるで慣れていない。案山子かかしのように棒立ちになっていたところを、平基が声をかけたのだ。
 三郎丸は眉をしかめ、「忘れるものか」と毒づいた。
「武士の手ほどきを教えるだのなんだの、お前に散々適当なことを吹き込まれた。あれからしばらく、恥をかきとおしだった」
「あれは酔っていたんだよ」
「うわばみがよく言う」
「嘘じゃない。酔わせて、時田家の弱みの一つや二つ見つけてやろうと思っていた。ところが、肝心のお前が酒を飲んだことがないときた」
 平基は今でもその時の驚きを覚えている。三郎丸は恐縮した様子で、
「ずっと姉上に苦労をかけてきた。今でも大奥で御家を背負っている。何を成し遂げたわけでもない自分が、酒など飲む資格はない」
 と言ったのだ。こんな堅物がいるものかと、腰が抜けた。
「あの時、俺はお前の姉弟愛に胸を打たれた」
「その割に、その後もしつこかったではないか。顔を合わせれば、酒を飲めと」
「飛ぶ鳥を落とす勢いの時田家とは、懇意こんいにしようとな」
「嫌われるとは思わなかったのか」
「嫌われたか?」
 平基が笑って尋ねると、三郎丸は鼻を鳴らすだけで応えない。
「見てみろ、実際、お前と一緒にいたら、とうとう大名付きの小姓こしょうにまで出世した。俺の鼻は間違いなかったわけだ」
 会った日からずっと、三郎丸とは何かと務めを共にしてきた。人事を差配するお偉方からすれば、時田家の監視のつもりなのだろう。実際、父から探りを入れられることも度々ある。時田家の動向はそれほどまで注視されているのだ。
「お前も災難だな。武士になったばかりに」
「災難、か。確かに、武士というのは皆腹に一物いちもつを持っている気がする。誰と話していても、気が休まらん」
 三郎丸はそう呟くと、ぼんやりと店の中を見回した。平基も、つられて視線を漂わせる。今となっては、町人たちの誰もこちらを見ていなかった。皆、各々の酒に夢中になっている。もしも時田家が呉服屋のままだったならば、三郎丸はあちらにいたのかもしれない。
「武士の世は、今やまつりごとが合戦場だからな。お前も、油断していると寝首をかかれるぞ」
 平基がそう言うと、三郎丸はきょとんとして、
「お前がいるではないか」
 と言った。
「政は任せる」
 平基は思わず溜め息が出た。
「そんな考えだから忠告しているんだろう。俺が裏切ったらどうする。酒でもおごられたら、お前の秘密を漏らすかもしれん」
 すると、不意に三郎丸はにやりとして、
「心配ない。皆、お前を喜ばせる酒を知らん。諸白なんぞ出されても、なびかないだろう」
 と言った。そして、こう続ける。
「悪いが、鼻に自信があるのはお前だけではない。俺も、酒は選んでいる」
 三郎丸は不意に平基が飲みかけていた盃を取ると、ぐいぐいと飲み始めた。呆気に取られていると、瞬く間に酒は干されてしまう。
「さあ、次の聞き込みに行くぞ」
 三郎丸はそう言って立ち上がった。そして平基の応えも待たずに、店を出て行ってしまう。
「まったく……仕方あるまいな」
 平基は苦笑を漏らし、支払いを置いて立ち上がった。
「ご馳走さん」
 駆け寄ってきた店番に会釈をして店を出ると、不思議と笑いが込み上げてくる。安酒に酔いが回ったのかもしれない。ともかく、実に、いい気分だった。
 三郎丸の後を追いかけながら、これだから、やめられん、と平基は独りごちた。

<了>

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