杜野凛世は光である② わたしたちはフィルムカメラに写るんです
このお話の続きです。
もし杜野凛世が光でなかったら
ちょっとこのようなことを考えてみましょう。
もしも、杜野凛世さんが光でなかったら。
凜世さんがピカピカと光っているわけがありませんから、この「凜世たちは普段 光なのですね」という言葉は一見すると何かの宗教か、それとも「ファンを照らしてくれる存在」というような暗喩かと思われてしまうようなことですから、奇妙にも思えてしまいます。
しかし、もし凜世さんが光でなかったら、何が起きるでしょうか。
少なくとも、「感光して写る」「光の配列を記録する」インスタントカメラや銀塩カメラには凜世さんは写りません。
それどころか、私たちは凜世さんを見ることもできません。
眼は光を感じ取る フィルムは感光して写真を残す
私たちの眼は、光が当たった視細胞が反応し、光が当たったという事実を神経の電気信号に変換し、脳で処理してオブジェクト(対象)を見ています。
この仕組みは、インスタントカメラを含めた銀塩カメラにそっくりです。
ですから、私たちの眼が対象を見るとき、その対象から光が眼へとやってきていることが分かります。
それと同じように、杜野凛世さんを私たちが見るとき、凜世さんから光が私たちの眼に向かってやってきているわけです。
もし凜世さんたちー私たちも含めてーが光ではなかったとしたら。
私たちの視覚は働かないのです。
杜野凛世を【私たちを】照らす光
自分で光っているわけではないのに、凜世たちは、いや私たちは普段から光である。これはどのようなことを言っているのでしょう。
アイドルが商材用に写真撮影をするときには、屋外で撮影するときであれ、スタジオ(屋内)で撮影するときであれ、照明が使われます。光を反射させ被写体に光を当てる「レフ板」も使われたりします。
屋外であれば自然にある光、特に太陽からの光を利用して被写体に光を当てます。
屋内であれば基本の照明の他に多くの照明器具を用意し、それらを用いて光を当てていきます。
これらを使うことによって、凜世さんは光を当てられて、つまり光で照らされて写真を撮影されるわけです。インスタントカメラで撮影するときであってもこれは同じでしょう。時には自然光だけで撮影することもあるかもしれませんが、それは演出の問題です。人物の写真を撮影するとき、被写体である人物は必ず照らされています。
光で照らされると、被写体はどうなるでしょうか。
明るく照らされた部分には、太陽から、そして照明から光が降り注ぎます。それらの光を、被写体の表面は反射します。鏡のように全てを反射することはありませんが、黒い部分以外は対象の表面は光を乱反射し、一部の光を吸収します。
こうして照らされることによって、私たちは写真に写ることができます。
太陽の光は、昼間であれば多かれ少なかれ私たちを照らしています。曇りや雨の日であっても、「上」から光が降り注ぐのは、空に太陽があるからです。
太陽や照明の光に照らされて、私たちは月のように光になるのです。
こうして、「凜世たちは普段、光なのですね」という彼女の感性、直感は正しいことだと言えるのです。