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File#01 遠藤麻未さん

【プロフィール】 愛知県名古屋市出身。1979年にアニメ監督の長浜忠夫に紹介された、高橋資祐氏主催の作画スタジオ「スタジオドオタク」に所属。1980年代のスタジオぴえろ作品『うる星やつら』『魔法の天使クリィミーマミ』等で作画監督を務めた。また高橋留美子(るーみっくわーるど )OVA作品等・・数多く原画で参加している。2018年5月、SCK(サブカルキングダム – ZIP-FM)番組コーナー「ナゴアニ数珠つなぎ」にゲスト出演。 現在は地元の名古屋にてフリーで活躍中。

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 職業は・・アニメーター一択になりまして。

――遠藤さんは昨年も地元ラジオでのインタビューがありましたね。
サブカルキングダムの「ナゴアニ数珠つなぎ」コーナーでしたがアニメーターとして、はじめてラジオに出演されて・・いかがでしたか?

遠藤さん(以下A)
お話するの楽しかったー!
私は自分のことを話すの大好きなので、話してよければどんだけでも話せます。
うまく話を引き出してくれて、時間調整とか話しながら整えていて、プロってすごい!!と思いました。一番好きなアニソンがネットに無かったのが痛恨ですが、一番燃える「ガオガイガー」OPソングをかけていただいて本当に嬉しかったです。

――たしかに、ガオガイガーは・・燃えますね(笑)ちなみに・・一番好きなアニソンってなんでしたか?

A)『宇宙海賊キャプテンハーロック』が一番だと思いますが、この時は自分の人生にかんがみて、『絶対無敵ライジンオー』をお願いしました・・・
ライジンオーの「一人じゃないよ、挫けそうな時は支えているよ、繋がっているんだよ」という歌詞がその当時、人間不信の谷底を覗いてたわたしにとって心の支えになりました。振り返ったら、信じられる友達がいたんです。

――なるほど。歌詞のメッセージに励まされることって誰しもありますね・・。
そんなアニソン好きな遠藤さんですが、今年でなんとアニメーター業40周年になるという!すごいですね・・。この機会にアニメ人生?を振り返りつつ、いろいろお聞きしていきたいと思います。
まず・・アニメーターを志した経緯もふまえて、当時はどんな感じでアニメ界に入られたんですか?

A) 小さい頃から机とか路上とかに、ひたすら絵なのか線なのか描き続けているような感じで・・高校生の時、漫研に入り、その流れでアニメを見るようになりました。高校卒業時に職業の選択肢が、漫画家、漫画編集者、アニメーター、の三つしか思い浮かばなくて・・
漫画は新人賞に応募したりしたんだけど、エピソードしか思いつかなくて物語を作れなかったので漫画家は無理。編集者は大学行くのが無理。アニメーターならあまり才能が無くてもできそう。・・ってことでアニメーター一択になりまして(笑)東京デザイナー学園名古屋校(現・名古屋デザイナー学院)のアニメ科開設の年に入学して・・ 二年目に先生が、名古屋でアニメーターの仕事は無いって言うから、漫研のつてでアニメに詳しい人に紹介してもらい・・その方から、サンライズの長浜忠夫さんなら優しくて誰にでも会ってくれると聞き、手紙を書いてアポを取り、描き散らしたスケッチブック一冊持ってサンライズに行ったのが5月ですね・・。

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今の時期は募集終わって来年まで無いと聞き、ガッカリしてたら、ちょうど女子1名募集してる人がいるって、高橋資佑※さんに引き合わせていただきました。
『ニルスの不思議な旅』(ぴえろアニメ作品)をやるためスタジオドオタクを立ち上げたところで、白紙の状態で高橋さんの二原※をできる人材を育てたいとのことで自己主張の控えめな女子を募集していたのです。
絵が描けるならなんでもいい私は無事採用され、6月から出勤ということになりました。

――なんと!いきなりスケッチブック一冊持って、上京したんですか!?(笑)高橋資祐さん(故)は、ぴえろの創業期から参加されていたアニメーター、演出家の方で遠藤さんにとっては初めてアニメ業界でお世話になった、師匠ですね・・二原※をできる人材というのは・・?

A) (TVアニメの)アニメーターって、まず動画から入って、動画が上手くなったら原画に上がれるシステムなんですけど、高橋さんは中国とかで一原&作監をやって若い人に二原をやってもらって一本作るようなことをしてこられて、動画と原画の違いなどを考慮して、原画マンを育てるには動画をやらなくても、二原から入ってもいいのではないかと考えられたらしいです。
それで、動画経験が無くて「自分はこれがやりたいんです!!」という主張も無い白紙の人材に、初めから原画の描き方を教えて育成するプロジェクトでした。

――それで、アニメーターとしてスタートされたんですね。
専門学校の途中(?)でアニメーターになると決めて、東京に出てこられて・・実際アニメの仕事をはじめて、どうでしたか?

A) 毎日何時間も絵を描くのは飽きるんじゃないかと心配でしたが、意外と飽きないもんだなあと感心しました・・!
初めての仕事は日本で放映されない「みつばちマーヤ」でした。
芋虫系が恐怖症レベルで苦手なのに青虫のキャラを描かされて、どうしても無理なんで、絶対に虫には見えない模様を付けたのを覚えています。完成品は虫らしく直されてました。

――ちょっと待ってください・・虫のキャラに模様を描いてたんですか?!
直しを入れた監督さんもびっくりしたでしょうね・・(笑)

A) それから「ニルス」をやらせてもらい、自分は動物がすっごく好きなのだとわかりました!キャロットで初めてハムスターという存在を知り、憧れました・・それに鳥の羽ばたき(動画のパターン)を覚えたのは一生の財産ですヽ(´▽`)/

※高橋資佑 (たかはし もとすけ、1941年1月11日 – 2007年11月8日)は、日本の男性アニメーター・アニメーション演出家である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
※二原・・「第二原画」のこと
第二原画システムは「レイアウトを描いて原画」という作業工程のうち、原画の部分を他の人にやってもらうというもの。
第一原画を担当した人がレイアウトとおおまかな動きをつけたラフな原画を描いて、第二原画を担当する人が線を整理したり、「動画」で必要になる間に必要な原画を足したり影をつけたりして「原画」を完成させる。

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「えんどーさんって怖い人がいないね。」

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――そして、その後まもなく『うる星やつら』(1981年~)で初の作画監督を担当されるのですね。そのあたりのいきさつをお願いします・・。

A) 二原から原画に上がれるタイミングでして、『まいっちんぐマチコ先生』の原画を一人で担当させてもらえるはずだったのに、急にぴえろ(アニメスタジオ)で「うる星」の制作が決まって・・。人手が足りないので、半年やったら原画の仕事に戻すから・・という話でした。キャラクターのラムちゃんを可愛く直す(※作画の不統一を修正する作業)だけでいいんだけど、そういう役職が無いから”作監”ということになりまして
「クレジットの作画スタッフの一番上にドーンと名前が出るけど、いいか?」と問われましたが、別に気にならなかったので、そのまま引き受けました・・。
その時、高橋さんから「ペンネーム使ってもいいよ」と言われ、 それまで自分の人生が重苦しいのは全部、名前のせいだと思ってたので・・“改名”することにしました。(笑)

――いわゆる・・「職業ネーム」はありだと思いますけど、“改名”って戸籍まで変えちゃうことですよね。当時だとけっこう勇気ある?行動かと。。意外に・・怖い物なし・・なんですかねえ?

A) ぴえろでは、「えんどーさんって怖い人がいないね。」とか言われて・・「だって、上司はぴえろにいないじゃん?」とか、思ってましたが、かなり本質的なことだったかなあ・・と今さら思います(笑)

――では、当時のぴえろ(社内)はどんな様子だったのでしょう??また、いわゆる・・うる星の“暴走アニメーター”と評される若手アニメーターたちの仕事をみて、今だから言える・・ような話とかあれば、ぜひお聞かせください。

A) 当時でも遠慮なく言ってたので、今だからというのは何もないです。
“暴走アニメーター”は絵のパワーが凄くて、自分の力も引っ張り出されるようでした。上手すぎても、(絵を)直さなきゃいけないんだなとか・・個性がありすぎることについて考えたりしました。

――たしかに、アニメーターというお仕事は「個性がありすぎる」ではやりずらいこともあると思います・・(笑)

A) でも、世の中には素晴らしい人たちがいるんだなあと思ってました・・!「素晴らしいけど似せろよ!」と怒って直してましたがっ。
うる星班は若手の集まりで、なんか楽しかったです。仕上げや制作の人たちとも交流があり、世界が広がったと思います。私は本当に自由にやらせてもらっていたのだなあと思います・・。

――遠藤さんは・・ 作画マニアたちの間で “修正の女神“と言われ、たいへん好評だったそうです(笑)それから「うる星やつら」は社会現象とも言われたブームを巻き起こし、熱狂的なアニメファンも相当増えた時代だったかと思うんですが遠藤さん自身はそういった世間の評判などは、実際作り手の側にいて感じることはあったんでしょうか?当時のアニメ雑誌なども盛んに特集を組んでいたと思いますし・・アニメーターという職業も脚光をあびたり、「人気アニメーター」「スターアニメーター」といった人たちも出てきた時代でしたね

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A) 私はまだ当時、新人だったし、明らかに力不足だし、まだ早いと思ってました。それに自分はスターになる気は無くて“無名の職人”みたいになりたいと思ってたので、完全に他人事でした~

――逆にプレッシャーとかもなかったのですか?

A) 私は実は、プレッシャーにめちゃくちゃ弱くて、「がんばって」の一言でマトモに絵が描けなくなって引きこもるくらい弱いので、質問されているようなことは全て他人事としてスルーしていて、自分のプレッシャーは無かったと思います。プレッシャーじゃなくて、キャラクター可愛く表現したいとか、良い作品になったらいいなとか、絵が上手くなりたいとか、・・そういった、自分の思い入れだけはあったと思います。
そうだ・・その頃のわたしのモットーは「ビビット!」ということでした(笑)

――うむ・・そうだったんですね。当時の様子、いろいろありがとうございました。

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自分のダメなところとか気にしないで・・

――たくさんの作品を作られてきたと思いますが、 遠藤さんの中でのベストな作品(特に好きなアニメ)があれば教えてください。

A)
『無敵超人ザンボット3』
『宇宙の騎士テッカマン』
『キャッ党忍伝てやんでぇ』

自分のやった作品でしたら、『キャッ党忍伝てやんでぇ』
放映4話目でいきなり好きになり、タツノコプロに電話して仕事もらいに行きました。自分から仕事を選んだのは、後にも先にもそれだけです。
それ以外では、『ニルス』は毎日鳥や動物を描けて本当に幸せな作品でした。あと、『BLEACH(ブリーチ)』がなんか、・・・いろいろ思い入れがあります。『ブリーチ』は絵が新しくて、キャラクターのバランス取るのが新鮮だったのです!それに・・なんて言えばいいのかわからないのですが、高橋資佑さんの二原を最後の最後までやらせていただいた作品なので・・その意味とかいろいろ今でも時々思い返すのです。

――ありがとうございます。
“生涯一捕手”ならぬ、 “生涯一アニメーター” というワードが頭に浮かびます。遠藤さんは・・アニメーター以外の仕事で興味のあるお仕事とか、やりたかった・・という職業はありますか?

A) 今は無いです( ̄▽ ̄)

――ちなみに絶対にやりたくない作品とかありますか?

A) スプラッターとスポーツ(・w・)
スポーツは興味無さすぎて無理。スプラッターは怖くて無理。
絵が、どんなにがんばって怖く描いても、なんか面白い感じになるのでホラーは物理的に無理。

――では、人生の中で「尊敬に値する」といった人物は?

A) まず、高橋資佑さんですね。ってゆーか・・
自分には大概の人間は尊敬に値するというか、人様を評価する資格が私にあると思えないし・・こんなにもダメなのに生きてる自分をむしろ、尊敬するというか。(笑)

――それでは、アニメーターを目指す次世代に向けて先輩からなにかメッセージを送っていただけると嬉しいです。

A) えー・・・私はアニメーターに必要なパース感覚とか、いろいろな能力が欠けてるんで。。しかも約束を守れないとか・・人間としていろいろNGなんで、そんなダメ人間でも生きてるわけでー!!
自分のダメなところとか気にしないで・・やりたいことやったらいいと思いますヽ(´▽`)/

~ありがとうございました。おつかれさまでした!

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