「俺だから」に勝る理由無し

何か課題に直面した時に頑張る理由は無数にある

チームスポーツに携わっているプロアスリートに「あなたは誰のためにプレイしているのですか?」と質問すると、一流選手であればあるほど、どう答えることが多いか、皆さんはご存知だろうか?

実は「自分のため」だという解答がほとんどなのだ。「チームのため」「ファンのため」という優等生的模範解答を予想した人には、意外な言葉だと受け取られるに違いない。

何かやるべきこと、やらなければならないことができた時、そこへのモチベーションには無数の理由づけができる。家族のため。友人のため。社会貢献のため。正義のため。

しかし自分は、この「自分のため」という理由こそ最も責任感のある言葉だと思う。


自分への期待に上限無し

誰しもが自分が特別な存在だったらとどこかで一瞬でも思いながら、自分は凡人だと諦めていく。しかし、自分は他の人とは違うんだと期待する人間がこの世にたった1人それでもやっぱりいるとするならば、それは他の誰でもない、自分だろう。自分だけは、どうしても最後までどこか自分を諦めきれないでいるもんなのじゃないかと思うのだ。

つまり、他人が自分にかける期待よりも、自分が自分にかける期待の方が基本的には上であり、しかも甘やかしがない限り、その期待には上限がない。なんてったって自分は自分の主人公なのだから。


友人から任された大役

仮に自分が、高校時代の友人から結婚式のスピーチを任されたと想定してみて欲しい。

結婚式のスピーチというものは実に形式的なもので、同席している知り合いと結婚する本人たち以外は、しっかりと聞いていないことの方が多い。テンプレートのようなものもネット検索すれば多くあり、いくらでもそれっぽく見せることはできる。

この時、スピーチに臨む際のモチベーションが「結婚する友人のため」「友人の両親のため」だったり、最悪の場合「頼まれたから仕方なく」となるのがほとんどの場合ではないだろうか。そうなると「友人が良しとしてくれれば」「ご両家の親御さんが不快に思わなければ」程度のクオリティを求めるだけになってしまう。

ところがこれが「俺だから」だった場合どうなるか。俺は特別だ。それを分かってるから友人も俺に依頼してきた。俺ならどんなスピーチをするんだろうと期待してんだろな。と、入りがこんなにも違う。まあイタい勘違い感は拭えないが。

さらに「どんなもんだろう、こんなかな、あんなかな」と想像している友人の、その想像を超えなくてはという強迫観念に勝手に囚われ始める。この時点で、友人のため、という理由を超えるのが前提になる。


 

友人の期待に応えるように頑張るんだから「友人のため」というモチベーションなんじゃないの?と思うかもしれないが、実はそうではない。「こんなかな?」という友人の予想は裏切らなければいけないのだ。でありながら、かつ「こいつに任せておけば何とかしてくれる!」という期待は裏切らない。まあ結局友人の期待には応えてるんだけど、応える理由は「この友人だから」ではなく「俺という人間が友人に頼まれた時にすることだから」なのだ。

予想は裏切り、期待は裏切らない。この言葉は自分の大好きな漫画「刃牙シリーズ」の宣伝文句の受け売りで、大好きな言葉である。


「俺だから」は、言い訳ができない唯一の理由

加えて「俺だから」という理由には、言い訳ができないという一番キツい付録がついてくる。他が理由なら、手落ちがあっても「頼まれたのが急すぎたから」とか「俺に向いてないし他に適役いたのに」といった具合に他のせいにできるが、自分が理由ならば全責任は自分にあるのだから。「急な頼みでもできるよ。俺だからね。」「まあ俺に頼むよね。だって俺だもん。」といった具合。まー逃げ場がない。もうバカだろこいつっていうぐらい自分の首をしめることになる。


「俺だから」の究極完全体

個人的な、そんな「俺だから」頑張る、の究極完全体が矢沢永吉さんや、キングコングの西野さんだ。

お二人とも一人称が「矢沢はさー」「西野はねー」と自身の名前なのだ。これはもう自分というキャラクターだったらどうする、という気持ちの現れだ。だから2人とも、常に皆の想像外の仕事ができるし、世間より何歩も先に進んだことができるんだろう。眩しすぎる。こんなにハッキリと、なりたい大人像を作ってもらえていれば、歳を取るのは全くもって楽しみなことである。

言ってて似合うようにいつかなりたい。

「タイキだからね」


5年後の目標は、note利用クリエイターの中で1番のnote収益を叩き出すこと!長者番付のようなことをnoteが発表するかは分かりませんが、実質そうだろうという結果を出します! 半年ごとに結果を見せていきます!コンテンツを充実させるための応援を宜しくお願いします!!