参考にならない我が家のオランダ移住12(最終回)
こんにちは、オランダ在住10年目のhanaです。子ども達秋休み中、綺麗な紅葉の季節。次女と私はやや風邪ひき。さて、オランダ移住から次女出産、そして産後から1年ほどをざっくりと書いてきました。今回はその後をふんわりと書いて移住の話を締めくくりたいと思います。
夫のチャレンジ
さて、オランダ生活2年目。なんとかかんとかワンオペ育児をやりくりしていたころ、夫は Amsterdam にあるレストランの共同オーナーになった。が、しかし。事情は詳しく書かないが、色々なことがあり共同オーナーになった約1年後、そのレストランは倒産した。
共同オーナーになるためにパートナーに支払ったデポジットは帰ってこず、私たちにとっては大きな金額が借金となった。
長期の一時帰国
というわけで、夫はオランダに残って借金返済。私は娘2人を連れて帰国をすることに。当時 長女3歳次女1歳を連れての11時間フライトは色々な気持ちが交錯し忘れられないくらい大変だった。借りていたフラット (アパート) は解約。色々と買いそろえたベッドや冷蔵庫など大きなものは手放して、その他のものは夫が場所を借りて保管してくれた。
ハッキリ言ってなかなかの苦境だった。それでも夫は負けなかった。一人残って必死に生活を繋いだ。私は日本で子ども達と両親とトータル半年ほどを過ごした。
今思えばオランダにいた時は産後うつと言える状態だったため、この帰国時に私は随分と元気を取り戻した。私の母はこのころまだ仕事をしていたが、それでも家事育児を一緒に出来るのは本当にありがたかった。私はすぐに仕事も見つけた。たまに仕事帰りに一人で外食出来る事が死ぬほど嬉しかった。そんな自由な時間は2年間ほぼ無いに等しかった。
長女との話し合い
両親と一緒の生活に慣れてきてはいた。このまま日本に居てもいいかな、と思う日もあった。だけど、子ども達はパパのことをもちろん忘れなかったし、3ヶ月か4ヶ月経った頃だろうか。私自身にも心境の変化が出てきた。日本にいれば言葉が通じる、仕事もすぐに見つかり、友達も沢山いて両親も居る。だけど、オランダに帰りたい、そう思うようになったのだ。
ある日、誕生日を迎えて4歳になった長女と話した。長女はどうしたい? 日本に居たい? オランダに帰りたい? 長女はハッキリと言った。自分達の家に帰りたい。ここはおじいちゃんとおばあちゃんのお家だから。私もそうだね、そうしようと言った。
Utrecht への引越し
せっかく雇ってくれた会社には本当に申し訳ないが事情を話して退職させてもらい、私は4歳と2歳になった娘2人を連れてまたもや12時間フライト。次は夫が新しく借りた Utrecht の rijtjeshuis へ引っ越した。
以前 Den Haag で登録していた小学校は辞退して、新しい町でもう一度小学校も peuterspeelzaal (幼稚園)も探し直しだったが、全然苦にならなかった。新しい生活を大変ながらも楽しめる自分が居た。
と、またもや順風満帆そうに聞こえたかもしれないが (この文章何回も書いてるなw) その1年後に、借金とほぼ同額の税金がやってきてまた必死に (今度は2人ともオランダで働いて) 踏ん張る日々が始まるのである。笑
我ながらよく頑張っているなと思う。その後もオランダでの生活に負けそうになることは何度もあるのだけど、不思議とその度に良い縁や色んな方の助けがあったりしてなんとか今に繋がっている。
エピローグ
今、オランダ生活10年目になり、改めて振り返って移住当初のことを書いてきた。ひとまずは3年目あたりまでを移住物語として終わりにしたいと思う。
世界中に暮らしている移民の仲間に敬意を込めて。そして帰国を選択した人にも敬意を込めて。
まだまだ移民としての生活は続いているので、次回からは最近の日常などを綴っていきたいと思う。ここまで読んでくださってありがとうございました。
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