浅い私と、深い貴方との違い
例えばエッシャーのような騙し絵の存在。
ダリの絵も、人を驚かす意味合い、
根本的な絵画の概念を欺かせれた、世間を欺いたと思えば詐欺的で面白いなと私的な考察をしてみた。信念を持ってこそ確立した芸術もあれば、欺くことで確立できる芸術も有り得てしまうから、芸術は自由で面白ければ犯罪的要素も含んでしまう。挑戦的で挑発的、社会への反旗を無言で訴えるのが芸術。何にも支配されず束縛されない。絵を買う行為は束縛的であり社会的な行為。しかし絵を買われ旅をさせるのが画家の本命であるのも、また事実
誰が詐欺師であるとか、そういった浅はかな指摘はそこに存在せず、どうにもこうにも欺くことや詐欺的な事で成立してしまう問題ってやっぱり有り得てしまうのが此の世の抜け穴、バグのように確立する。そこが恐ろしくもあり我々芸術を志すモノの冒険心を刺激するのである。
さて私にとって信念といった、確固たる意識はあるだろう。今は定まりもなく筆の思うままに描くことだけに集中している、無意識に湧き出るインスピレーションが、私にとっての情熱なのだろう、それが頑なな信念に繋がるとしたら、私のイマジンはまだまだ未形成だろう。だからこそ、そんな私を見て、とある画家は憤慨し私を浅はかと指摘した。最もな意見である。これから、私は自分にとっての信念を築かねばならない
それが詐欺師のようであれ、
それが彼の言う真の芸術家のようであれ、
どちらにせよ、芸術というのは複雑怪奇で
どういった形でも成立してしまう。
例えば刑事が
「アイツの手腕は正に芸術家みたいだ」
なんてうっかり星を褒めてしまうようにだ。
彼ら芸術には形はない
信念という仏的要素も形はない
だからこそ、大切にせねばならない。
我々、人間が形成、創造を唯一赦されたのが
芸術なのだから。