無垢からの脱却に残る希望【国士舘アニ研ブログ】
(この文章はコミックマーケット103にて頒布した部誌である「Cultures Vol.2」にて掲載したものになります。)
無垢からの脱却に残る希望
執筆者:とり天
無垢という属性を持つ者が何かを経て歪んでしまう、そうした描写を持つ作品は数多くあります。しかし「歪む」とされるように無垢からの脱却は悪意に転じることを示しているのでしょうか。この疑問に答えるために無垢とは何かを定義していきましょう。
無垢とは冒頭の引用の通り「汚れのない純真」な様子を指します。しかしこれは一般的な語訳であり、さらに抽象的な説明となっています。このままでは語る上での無垢が何たるかが分かりづらいため、これをキャラ属性という観点の上で具体的に定義づけます。
まずは「汚れ」というワードについてですが、キャラ属性における無垢を説明するためには「ケガレ」と置き換えたいところです。なぜカタカナなのかと言いますと死や疫病などに関連する「穢れ」の意を強調するためです。キャラ属性としての無垢は社会などの内の「汚れ」と殺し殺されによって生じる「穢れ」のどちらに対しても知識や理解を経ていない者に付与されるため、これらを纏めて「ケガレ」とします。
次に取り扱うのは「純粋」との違いについてです。無垢という属性を持つキャラがほぼ確実に持ち合わせる純粋という属性ですが、これと無垢との間には同一性がありながらも同じものという訳ではありません。キャラ属性における純粋は「ケガレ」を知り、理解しているキャラクターにも付与されます。純粋は無垢である条件であり、無垢の属性を持つ者が「ケガレ」への知・理を通してなお歪まなければ純粋が残る、というのが私個人の見解です。同一性はこの内包関係によるものですね。総括すると当記事内での無垢とは『純粋かつ「ケガレ」を知らず理解していない状態』ということになります。
前置きが長くなってしまいましたがここから本題です。まずは私達は何をもって無垢とみなし何をもって脱却とするのかを考えていきます。ここでは読み解くための例として「仮面ライダーアマゾンズ 最後ノ審判」に登場するムクを扱います。その名の通り「無垢」であることをテーマとしたキャラのため例には適しているかと。ムクは人造生命であるアマゾンという種の畜産用の一体で、人に喰われることを是とする教育を受け、これをそのまま反映した思考を持ちます。おそらく造られて以来施設教育以外の世界に触れていない様子は仲間達や自身が殺され誰かに喰われることを知っていることを加味しても無垢であるといえます。しかし仲間の一人が食べ残されているのを目にし、いよいよ自分の番となった瞬間、ムクは喰われることを拒否し、取り押さえる人間を喰い殺してしまいます。ここで無垢からの脱却として決定的な言葉を発します。
「私は・・・・・・穢れてしまいました」
自身の運命を知りながらもそれを肯定していたのはその実態を理解していなかったためであり、理解の不足によって無垢であったと考えると無垢の認識のラインが見えてきますね。そして実態の理解と「穢れ」の行為を自身が行うことによって無垢からの脱却が成されたことから無垢からの脱却の認識に必要な要素も読み取れます。
次に脱却のパターンについてです。ムクは「穢れ」の運命を知っている状態から実態と経験を経て脱却しました。しかし0からの脱却を成す場合や「汚れ」を通して脱却する場合もあるのが無垢という属性です。その具体例として挙げたいのが「Gのレコンギスタ」よりベルリ・ゼナムとアイーダ・スルガンです。「自分たちの生きる世界を知るための社会科見学」ともいえるこの作品の描写の内では、知る・理解する・経験するというプロセスをしっかりと辿り、その上で二人は同じ作品の同じ陣営に属しながら異なる経緯で無垢からの脱却をしています。まずはベルリ。彼は序盤から自身とアイーダの命を守るためとはいえアイーダの恋人を殺害、後に自身の恩師をも殺してしまい、優秀なパイロットであることも手伝ってそれ以降も敵対人物の死に関わることが多々あります。また、元の所属組織の実態やアイーダとの旅の中で出会った人々との交流によって世界のことも理解していきます。つまり「ケガレ」の内のどちらも経て脱却をしているというキャラということです。対してアイーダは機体の操縦が苦手で戦闘の際も狙撃手としての役目がほとんどであったため人を殺しておらず(殺していても実感が少ない)、恋人や父の死を加味しても「穢れ」と関わることは少なく、軍の責任者の娘として世界の構造を旅で関わる人々との交流によって知り、「汚れ」を中心とした脱却をしました。どちらも軍の部隊や養成学校に所属しており、戦争があるということは知っていながら実感を得ていなかったという点でいずれ誰かに喰われるという明確な死を自身に見据えていたムクとは違います。また、ムクが生きるために無垢を脱却したのに対し、アイーダ・ベルリ両名は世界を知る過程での脱却となっており、どちらかと言えばポジティブな理由に起因しています。これにより無垢からの脱却は様々に起因し、それぞれの経緯を辿り成されるものであることが分かります。(Gレコ視聴済みの方に「ベルリはともかくアイーダは無垢か?」と言われそうですが真っ直ぐな性格や「戦争の実態を知った上で"純粋"な天才パイロット」であり比較しやすいクリムとの比較で相対的に無垢であると考えています)
ここまでに示した通り無垢とは「ケガレ」を知り、理解し、経験してなお純粋として残ることがあり、無垢からの脱却は悪であるというような単一の結果のみを示すことができないものです。むしろそれを踏まえれば"純粋"でなくなることも悪と断言することもできないのかもしれません。ムクは脱却を経て他者の命を繋ぐことを解釈し直し、アイーダ・ベルリは脱却で得たものを通して新たに自分たちの世界を見つめ直すことを決めました。ネガティブに見えるような脱却でもどこかに希望が残る。これは無垢からの脱却が単なる変化ではなく成長の一途として物語に描かれていることの証左です。物事が複雑化する現代の中だからこそ、自分の内に残る無垢を見つめ直してみませんか。