思春期は何を抱えて何処へ行く──『ヨルクラ』と『ガルクラ』【国士舘アニ研ブログ】
カバー画像:TVアニメ『ガールズバンドクライ』第4話「感謝(驚)」WEB予告 より
こんにちは。鯖主です。
今期アニメもそろそろ折り返しですが、この辺りで放送開始時だけは「似ている」と言われがちだった『夜のクラゲは泳げない』と『ガールズバンドクライ』の今について書いてみます。(執筆時はそれぞれ5話まで放送。)
『夜のクラゲは泳げない』
まずは『ヨルクラ』。
何者かになりたくて音楽を始めるところから始まる物語です。「何者かになってみたい」という願望は非常に思春期的であり、むしろありきたりだからこそ、どういう着地をするのか興味深い作品です。
さて、非常に今っぽい印象を受ける本作ですが、この今っぽさこそ『ヨルクラ』の特徴と言えるでしょう。
1話こそ渋谷で音楽してましたが、それ以降は音楽の場がインターネットの中であり(なんなら1話も動画サイトで配信されていた)、また音楽の形も1枚絵をベースにしたMVに曲を乗せた動画であり、やけにSNS時代的な現代の側面を用いた作品となっています。40mPを起用していることからも、この点に関しては意図的なものでしょう。
このSNSに由来する今っぽさは他にも現れており、例えばフォロワー・再生数・インプレッションを気にするキャラクター達やコメント欄を見つめる光月まひる、などなど。(まひるの本名と対称的な「海月ヨル」というハンドルネームには、何者かになりたい、今の自分から変わりたいという願望が現れていて良いですね。)
このようにインターネットを表現の場とし、また世間を気にするような価値観を用いている点などから、本作に今っぽい印象を受けるのです。
しかし、そんなインターネットが持つ広さ・大衆性とは裏腹に本作で描かれる世界は非常に小さいものです。それは日常系に代表されるような、ごくごく小さなコミュニティのみを描く作品のような小ささであり、5話では特にこの側面が強く描かれていました。(例えば「私がヨルの絵のこと大好きなんだって」の一連のセリフ。)
この方向性で何者かになりたい衝動を小さな人間関係の中で解消する着地でも良いな、なんて思ってしまいますね。
『ガールズバンドクライ』
続いては『ガルクラ』。
「負けたくないから、間違ってないから」高校を中退して、川崎に来て、自分に爪痕を残した人に出会って、音楽を始めるところから始まる物語です。
負けないために、間違っていると思っていることや嫌いなことに中指を立てながら(自分は間違っていないから)、自分自身が抱えているどうしようもない不条理を曲にして歌っている非常に純粋で明快な作品だと思っているのですが、反骨精神だけの作品では無さそうなのが楽しみなところ 。現時点では、身近な人間関係に帰結するような雰囲気を感じてます(もちろん『ヨルクラ』とは別のベクトルで)。引用した公式の作品紹介文に「居場所」って単語が使われていたり、ちょうど5話がそんな感じだったり。
さて、1話放送時点で『ヨルクラ』と『ガルクラ』が似ていると言われていた理由は(略称タイトルが似ているのは別として)、夜の都会で路上ライブに割り込んで音楽する点と、思春期的なものを扱っているという点のふたつがお互いに共通していたからだと思います。しかし、2話以降の『ヨルクラ』がライブしなかったり、そもそも扱っているものの方向性が大きく違っていたりと、結局は言われてたほど似ている作品ではなかった訳です。
それでも本稿では比較できる部分で比べてみます。
引用した『ガルクラ』のあらすじに「この世界はいつも私たちを裏切るけど。何一つ思い通りにいかないけど。」とあるように、『ヨルクラ』と比べて抱えているものが重いのが『ガルクラ』です。(負けないで生きるために、解決不可能なものを抱えている。)そして、抱えているものが重くて、どうしようもないものだからこそ『ガルクラ』では度々社会が顔を出します。物語が現実的、もとい非ご都合主義的だからこそ抱えているものが重いのです。あるいは、抱えているものが重いからこそ非ご都合主義的な物語である、とも言えるかもしれません。生活のためにバイトはしなければなりませんし、ライブのチケットはちゃんと売らなければなりません。また、社会があるからこそ井芹仁菜は実際に中指を立てることはなく、代わりに小指を立てているのです。それでも反骨精神はあります。そこに社会があって、ここに反骨精神があるからこそ仁菜は小指を立てるのでしょう。『ガルクラ』という作品においては指を立てる対象が必要です。
対して『ヨルクラ』は社会を抜きにして世界に飛ぶ、というインターネットの特徴(セカイ系みたいな特徴?)を活かすことで、なるべく社会を描かないままに物語が進んでいます。先程、『ヨルクラ』は日常系に代表されるような小ささを持つ作品であると述べましたが、なるべく社会を描かないことで小さな世界を保つことに一役買ってるようにも思えますね。学生のキャラクターにはこの小さい世界がよく合うと思います。そして、この小さい世界のまま自分たちの音楽を世界に発信する。まさしく今っぽい音楽です。
これらの点において象徴的なアイテムがそれぞれの作品に登場するスマホです。
『ヨルクラ』においてはスマホの奥、すなわち(社会を抜きにした)インターネットの世界や他人との繋がりはウェイトが大きいものであるように描かれています。(先述した「フォロワー・再生数・インプレッションを気にするキャラクター達やコメント欄を見つめる光月まひる」や、JELEEの他3人と自分を比較して気にするまひるが代表的。)
逆に『ガルクラ』序盤ではスマホを忘れるシチュエーションがやたら多いです。やたら多いといっても2回ですが、2回も使っていれば、それは意図的なものであると思います。スマホを忘れるということは、すなわち世間や他人との繋がりに対する意識が薄いということ。自分が抱えているもので精一杯なのかもしれません。あるいは、実家から飛び出して川崎に来た仁菜からすれば、実家との繋がりが残るスマホは忘れるべくして忘れたものなのかもしれません。それでも、物語が進むにつれて新しい繋がりが増えていきます。そして、繋がりは居場所になります。
果たして『ガルクラ』はどこに着地するのでしょうか。
ということで『ヨルクラ』と『ガルクラ』の話でした。アニメ自体が終わってないので話の落ちもありませんが、今期アニメの残り半分も楽しめそうです。
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