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もう幾度となくやめてきた


タイトルに関して、
私はひどく飽き性でこれまで色んなものに手を出してはすぐさま存在を忘れ、亡きものにしてきました。娯楽物から仕事まであらゆる事象に関して全てです。
「人はいつ死ぬと思う?猛毒キノコのスープを飲んだ時?不治の病に侵されたとき?違う。。。人に忘れられたときさ。」
Dr.ヒルルクはそう言っていたけど、それを間に受けるなら僕はドバイにある超高層ビル「ブルジュ・ハリファ」をも遥かに凌駕するほどの死体を作ってきたと思います。
多分僕がいづれ死んだ時は、これまで埃を被せてしまったあらゆる代物たちが悪魔の権化となって僕を地獄の果てまで追い詰めてくると思います。
※人間関係に関しては別です。大切な人たちは一生大事にするし、何なら少し苦手な人からもどこか好きなところ無理やり見出そうとするタイプです。薄情だねとか言わないでください。マジでやめてください。



なぜこんな話をしているかというと、
今回noteを始めるにあたって、またすぐ飽きてしまう可能性があるからです。
僕は学生の時から文章を書くのが好きで、いわゆるブログと呼ばれる類の物はある程度手を出してきましたが、基本的に三日坊主。もって半年といったところ。
盛り上がりの絶頂期に突如として連載が終了し話題を生んだスラムダンクですが、僕がスラムダンクの作者なら陵南との練習試合で連載終了です。桜木の体育館履きが壊れるシーンをめちゃくちゃ壮大に描いて終了です。なので、あそこまでたくさんの名試合を生んだスラムダンクは全然短くないです。


話が逸れてしまいましたが、
以上の理由から今回のnoteもすぐ辞めると思います。








と言いたいところですが、言いたくありません。
僕は今の「映像編集」という仕事を約7年やっています。僕の中では最長の継続歴となり、そこで継続するということの大切さを身に染みて感じました。

継続するということは、
色んな人たちとの出会いがあり、
その出会いという種が実となり、
実と実が新たな出会いを生んでくれて、
出会いの数だけ感謝の気持ちが増えます。
そしてそれは継続した分、増えていきます。
「継続は力なり」という言葉がありますが、少し軽薄だなって思います。
継続したことで人生が変わった僕からすると、「継続は卍なり」って感じです(軽薄)


といわけで笑、いちいち話が逸れてごめんなさい。
今回のnoteは継続しようと思います。
継続するにはどうすればいいか僕なりに考えました。
「習慣化すること」
おそらくこれが世間的にはまかり通ってる継続学だと思いますが、僕の場合これは逆効果です。不規則な業界で働いている僕に何かを習慣化させることはほぼ不可能だからです。むしろそれがストレスとなって、すぐ辞めてしまうと思います。

なので、ゆる〜く書きたい時に書く。
つまらない授業の時にノートの右下にパラパラ漫画を書いてた時のように。気ままに。
更新が半年に一回になるかもしれないし、一ヶ月連続になるかもしれない。それくらい自由に。継続するということは大風呂敷を広げないことなのかもしれません。背水の陣という言葉がありますが、完全にそれの逆です。




そもそも何でnote始めようと思ったのかと言いますと、まぁ元々文章を書くのが好きということもありますが、つい最近「コタローは一人暮らし」というアニメを見たのがきっかけです。

ざっくりあらすじを説明すると、
ある日、ネグレクトを受けている幼稚園児が一人暮らしをする為にボロアパートに引っ越してきます(その子は心優しい人からの仕送りで生活しています)
隣に住んでいる売れない漫画家の狩野という男が、そんな傷ついたコタローのことがほっとけなくて面倒を見始めるのですが、そこらへんの大人よりもしっかりしているコタローからの真っ直ぐな言葉に幾度となくハッとさせられ、もう2人はただの近隣でない深い関係になっていく話です。めちゃくちゃ感動します。

そこでの話のひとつに、
幼稚園のお楽しみ会でコタローの保護者だけ来てなくて、コタローが悲しい顔をしてる時に、漫画の納期ギリギリでソレどころじゃないはずの狩野が現れます。

「ただの近隣なのに、狩野さんはどうしてそこまでするの?最悪責任なんか取れないじゃない」

と言われた狩野がこう答えます。


「せめて記憶してやりてぇなと。普通子供が成長する姿って親が記憶してるもんだろ?その記憶って生きてる証だと思うんだよ。あいつにはそれがない。確かになんかあったとき俺はコタローの責任は取れないかもしれない。明日にでも離れ離れかもしれない。だから今だけでも俺がアイツの一日一日を記憶してやるって決めたんだ」


このセリフを聞いて以来、
生きてる証ってなんだろう。
と考えるようになりました。



誰かのために何かをすること?
仕事をすること?
家族を大切にすること?


どれも大切だし、生きてる証になると思います。でもそれは数百年後、自分の周りの人たちが絶滅したときに消え去ってしまうモノです。もちろんそれは儚く素敵なものだし、それでいいと思うのですが、せっかくこの時代に生まれ、何かをわかりやすい形として残せるわけだからそれを使って自分が何を考えてこの時代を生きたか「シンプルな生きた証」を作ろう!となったわけです。


冒頭にも書いたヒルルクの名言。
「人はいつ死ぬと思う?人に忘れられた時さ」の意味合いにも少し似てますね。なので無理やり忘れさせないスタイルです。
まぁ今後、著しい技術の進歩でnoteのサービスが廃止して、共に消えていくのだろうけど。笑


というわけでこれからもよろしくお願い致します。

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