Yes.
「あなたは変人か?」ーYes.
「あなたは一般的な人物か?」ーYes.
「あなたは頭がおかしいのか?」ーYes.
「あなたは賢いのか?」ーYes.
「あなたはバカなのか?」ーYes.
「あなたは利口なのか?」ーYes.
「あなたは欠損のある人間か?」ーYes.
「あなたは全てにおいて十分か?」ーYes.
「あなたは配慮のある人間か?」ーYes.
「あなたはエゴイストか?」ーYes.
「あなたは創造的か?」ーYes.
「あなたは破壊的か?」ーYes.
「あなたは危険か?」ーYes.
「あなたは安全か?」ーYes.
………
私は、誰に何を問われようと、返せる答えは「Yes」の一言だ。
人は自らの物語の中に、自身も他者も描き出して見つめている。
それがその人にとっては「現実」であり「真実」なのだ。
私がその人の物語を書き換えることはできない。
私が話すこと、私が表現することは、時に湾曲して捉えられ、その解釈のまま物語の中に書き示される。
そして、それを第三者が見聞きすると、さらにその人物の解釈によって「事実」のカタチは変わっていく。
しかし、それらは彼らの物語だ。
私という登場人物がその中に居ても、私自身は何も関係してはいない。
彼らが「私」というキャラクターに「問題」を見出すのなら、それは「彼らの問題」だ。
なぜなら、私にも私の物語があり、私の物語の中にも彼らは登場し、時には私の問題として彼らは描写されるからだ。
ここで重要なのは、その「物語」との距離感だ。
目の前のTV画面に映し出されているドラマや映画、アニメーションの物語に、「これはまるで私の人生その物だ!」と、巻き込まれれば巻き込まれるほど、苦悩と快楽の両方も合わせて、全てを存分に楽しむことができるだろう。
しかし、「とてもリアルに感じられるが、これは物語なのだ」と引きで見れば、苦楽の体感は少し鈍くなるが、当事者には見えていない視点を観察することができる。
どちらがいいのかは、人それぞれだ。
そして、どちらの立ち位置も私たちには許されている。
その事を知っているからこそ、私は全てに肯定的だ。
否定したがるのは自我の働きだ。
その作用も否定はしない。
だから私は色んな一面を見せる。
それ全てを捉えてもらえないとして、私には何も問題がない。
それ全てを捉えてくれないからと言って、彼らは何も問題がない。
だから私は、「Yes」と答えるのだ。
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