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憧れは憧れのままでいてね

 パリに行きたいと思ったのは、いつからだろうか。それはかなり昔に遡りそうだな。高校生のときか、多分。きっかけはなんだったっけ。レオス・カラックスという監督の『ボーイ・ミーツ・ガール』『ポンヌフの恋人』『汚れた血』というアレックス3部作を観たことがかなり影響しているかもしれない。パリの夜の、汚い街を全力で走り抜けるアレックスの、その姿。バックで流れるのは、デヴィッド・ボウイの「Modern Love」。「疾走する愛を信じるかい?」そんなセリフに、くらっときた。そうか、パリの夜は暗いのか。私はそんなことを思った。カリフォルニアのサンサン太陽に憧れていた私は、途端に、ヨーロッパの暗いくらい街角に引き込まれてしまった。しかし理想と現実は度々違うことが多く、走ることなんてできなかった。暗い原因はおそらく、その街灯の圧倒的少なさにあると思う。東京の夜は明るい。映画の中だったら、この街を走り抜けることだってできる。でも私は異国から来た21歳の旅人。手にはホテルで食べる夜ご飯のサンドウィッチと、ハイネケンの缶と、飲みにくいエビアンのペットボトルの入ったトートバック。肩からかけたパンパンのバックには、ガイドブックから非常用の薬まで、様々なものが詰め込まれていた。そんな大荷物を抱えて、私は走ることなんてできない。

 暗いパリよりも、まず最初にくるのは明るくてポップでおしゃれな、恋の街のイメージだろうか。映画『アメリ』はちょっぴりダークだけれども、その色彩感覚や町並みのお洒落さに恋い焦がれてしまった。多分同時期だとは思う。『汚れた血』を見て、暗いパリの道を走りたいとおもった一方で、『アメリ』を見てお洒落なカフェに入りたいと思った。そんな『アメリ』に出てくる「カフェ・ド・ムーラン」は実在する店で、そのままロケ撮影が行われたということはずっと知っていた。そこでクレームブリュレを食べるんだと、映画そのままの理想を描いていた。高校生のわたしは張り切っていたけれども、実際その地に行くと途端に自信がなくなる。そんな映画そっくりのことをしたら、ただの観光客になっちゃうじゃん、と。わたしは観光客にはなりたくないと意地を張る旅人なので、アメリごっこはできなくなってしまった。「聖地巡礼」なんて言葉もは、あからさますぎて嫌い。地元の人、お店の人がわたしのことを見て「ほら、またアメリに影響された観光客だよ」とか噂してそうで、嫌だ。そんなこと言われていたとしたら、わたしは顔から火が吹き出そうなほど恥ずかしくなるだろう。何よりも自分自身が一番嫌なのだ。絵に描いたような観光客にはなりたくないんだ。度重なる旅行経験の中、観光客へのまなざしに違和感というか、ヨソヨソしい冷たさを感じてしまったことが理由かもしれない。わたしは何もない街並みを、何もないように歩くのが一番好きなのだ。だから、知らんぷりをしながら「カフェ・ドゥ・ムーラン」の前を通り過ぎた。誰もわたしのことを見ているわけではないのに、なぜか知らないようなふりをして。そして、偶然を装って店の前で立ち止まる。ここであからさまに喜んだりすれば、一気に観光客になっちゃうじゃんか。だから、わたしは知らんぷりをし続ける。他のカフェとは変わらない態度で、店の様子を見る。パリにあるカフェは大体扉がオープンになっているかテラス席が広がっているかで、内装は丸見えなことが多い。確か映画では扉がきちんとあったが、実際のカフェは他のものと同じように、オープンだった。ギャルソンは暇そうに店内をうろついている。おじさん一人がエスプレッソを片手に新聞を読んでいた。その他の席は閑散としている。わたしはそれ以上見るのはやめて、引き続きモンマルトルの坂を下った。少し悲しい?アメリのふりをして、観光客を思いっきり楽しんで、堂々とカフェに入り、クレームブリュレを食べればよかった?あとあと後悔しそうだ。でも、それよりも今が恥ずかしくて、そんなことできっこないや。

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