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始りに向かう終わり

 無事に空港にたどり着くいうことは、どんなに嬉しいことなのだろうか。わたしはほっと胸をなでおろす、とはこういうことなのかと初めて知る。9月9日の明け方から早朝にかけて、台風15号が関東地方を通過した。特に千葉県の被害はすさまじく、家屋の損害、浸水、停電がおき、交通機関は止まり、道路は大渋滞となった。わたしはその日、バイトをしてから空港に向かい、夜行便で旅立つ予定だった。しかし、台風に備えてJRなどが前日から運休を発表したため、バイトはなくなった。わたしは有頂天になりながら、旅の前日、台風が通過する前日を過ごした。9日の朝10時ころにゆっくりと起き、スマホで交通情報を確認して驚いた。なんと、成田空港に行く手段である、京成線と成田エクスプレスの両方が止まっていたのだ。再開見込みは立っていない。さて、どうする。わたしは意外と冷静に、高速バスの存在を思い出す。地元の駅から、または東京シティエアターミナルから空港行きのバスが出ているのだ。電話をかけてみると、口をそろえて、今日は運休です、と。わたしは完全に行く手段を失った。タクシー?いくらかかる?どうする?タイムリミットはまだある。16時までに空港につけば、大丈夫。でも電車の復旧は待つに待てない。11時ごろ、どうしようもなくなったわたしに母親が救いの手を差し伸べる。夕方の仕事に間に合うように引き返すかもしれないけど、途中まで送っていくよ。まだ電車の復旧を信じていたかったわたしは何度か断ろうとしたが、言葉に甘えた。電車が再開すれば近くの駅から電車で行く予定だったので、常に情報をチェックしながら、車は一般道を走る。高速道路は成田付近が通行止めになっていたのと、渋滞で、国道や田んぼ道を抜ける一般道で向かうことになった。道路は成田市内に入って一変した。まず、信号がついていない。そして木々が散乱し、おおきな水たまりができている。人は少ないが、車は多く、大渋滞になっていた。まずいな。母親の焦りが伝わってくる。もう引き返さないと間に合わない時間になってしまったのだ。約束でもあったし、これ以上迷惑をかけるわけにもいかず、わたしは渋滞を抜ける前に車から降りた。普通に走れば30分もかからない距離だったので、タクシーに乗ることにした。降りたときは、とても楽観的に、捕まえることができると思っていた。何とかなると思うから、とりあえず母親の車から降り、母親を仕事に間に合わせたいと。しかし、まさかこの渋滞の中空車のタクシーがあるわけもない。わたしは楽観的な思考を少し改め、最悪のビジョンが浮かんだ。このまま間に合わないで、旅はキャンセルになる、さよならわたしの15万円。いや、そうしてたまるか!わたしは諦めたくなかった。時刻は2時。ここから最悪歩いても、4時には間に合う。その手段をとる前に、一つ思い当たることがあった。すぐ近くにあったイオンモール成田から空港行きのバスが出ているのではないか?わたしは少し明るくなりながら、飛び散る木の枝を飛び越えてモールに向かった。
 
 モールは浸水被害があったようで、営業しているのかわからない。バス停には成田空港と書いてあって、スーツケースをかかえた家族が待っている。もうバスが来るはずの時刻であったが、家族は待ち続けていると言う。この渋滞だから定刻の運転は難しいだろう。わたしはインフォメーションセンターに向かい尋ねると、スーツを着たお兄さんが苦々しい顔をして、きょうは運休なんです、と!わたしは「どうしてそれをバス停で待つ人に言わないんですか?みんな来ると思ってますよ!」と少し興奮気味に早口で言い、望みが薄くなっていくのを感じた。まさかタクシーも来るはずはない。どうする、歩く?いやいや、まだ何かありそうだ、と思った瞬間、私の前にバスが現れた。なんとそれは、ホテルの送迎シャトルバスだった。あれに乗れば、空港付近までは行ける!わたしの中に生まれた少しの希望は次の運転手のセリフでかき消されることになる。「ホテル利用者以外は乗れないよ!」かなり強い口調でわたしを追っ払う、その手に腹が立った。「こんな事態でも乗せてくれないんですか?!」わたしの言葉には耳を傾けもせず、運転手はドアを閉めてしまった。参ったな。するとわたしと同じように運転手に追い払われた夫婦がいた。彼らは50代くらいの訪日観光客で、手には大きなビニール袋を抱えていた。目が合うと、違うホテルのバスを待っているのだと、ホテルから空港に向かうバスに乗り換えて、5時にフライトだと英語で言った。私も彼らも、あと少しのところで足が届かずにいる空港利用者だった。その共通点は、この事態の中、互いの絆を深めるのに時間はかからなかった。わたしも自分の事情を話し終えたころ、ちょうど夫婦が乗る予定のホテルバスが到着した。夫婦は私の手を引っ張り、一緒に乗って!と叫ぶ。このバスもおそらく、利用者以外は乗れない。彼らはそれを知って言っているのか、それとも知らないで?どちらでも、もうどうでもいい。わたしは覚悟を決めて、そのまま乗り込んだ。このバスで夫婦の言うプランで空港まで行くのだ。それしかない。バスの運転手は明らかに日本人じゃない夫婦と、あきらかに日本人のわたしが一緒に乗り込むのをいぶかしそうに見て、「ホテルのお客さん以外は乗れないよ!」」とさっきの運転手と同じことを言う。わたしも夫婦もうなずきあい、わたしは夫婦の養子か、友達か、ガイドか、もうなんでもいいけど、とにかくホテル利用者のふりをした。バスは発車してすぐに渋滞にはまる。この道をまっすぐ行けば空港なのに、列はびくとも動かない。時刻は一刻と過ぎていく。夫婦はタイから来たと自己紹介をしたが、日本観光の思い出を聞くような雰囲気ではなかった。アンラッキーだね、お互いと苦笑いをした後は、もしこのまま渋滞が続いたらどうするかと話し合った。ウーバーはないのかを聞かれたが、そこまで主流ではないので無理だと伝え、代わりにタクシー呼び寄せアプリを使ってみた。しかし、一向に見つからない。後で電話して分かったのだが、成田市内を走るローカルタクシーは運休だそうだ。多くのタクシーが渋滞にはまっていたが、それはみな東京やそこらから空港めがけてきたタクシーなのだと知る。このままバスが渋滞にはまり続けるよりも、歩いたほうが早い。わたしは夫婦にそのことを伝えたが、夫婦は乗り気ではなかった。しかも最悪なことに、このバスは成田駅を経由してホテルに行くらしい。寄り道しているわけにはいかない。すでにホテルの地点で寄り道なのだから。おまけに、駅に向かう車線は渋滞している反面、空港に向かってまっすぐ伸びる右車線はすき始めた。スピードを出して空港に向かう多くのタクシーや自動車を見ると、わたしの焦燥感も高まる。現地点から空港までは徒歩で一時間半。時刻は14時半。ちょうど歩けば16時までに到着する。外は台風一過でサンサン太陽だったが、わたしはいてもたってもいられなくなり、夫婦に降りることを伝えた。ある意味夫婦を裏切ることになってしまったが、夫婦はわたしを満面の笑みで送り出した。Take Care!と手を振り合う。運転手は降りるわたしに向かってもう一度、ホテルのお客さん?と聞いたが、迷わずうなずき、おろしてくださいと強く言った。扉は開き、わたしは歩き始めた。
 
 あつい。想像以上に暑い。残り僅かのソルティライチはすぐ飲み干してしまった。しかしなぜかわたしは清々しい。どうしてかわからない。さっきのバスの不正乗車や、タイ人夫婦との交流が「ふつう」ではなかったからだろうか。成田空港までは幼いころから何度も行く機会があったが、このような目にあったことはなかった。わざわざわたしの渡航日に合わせて飛んできた台風。異常な状況に、不安や焦りはあったものの、それを楽しんでしまう自分がいた。そうだ、この感覚はわたしがインドで身につけた術ではないか。おおらかな気持ちで、自分がまるで当事者ではないかのように、楽しんでしまう。「こいつこんなに焦ってんぞ!」と外から見るのは、まるで自分を主人公にした映画を見ているみたいで楽しい。ノリに乗ってきた。ずんずん勇敢に歩いていく。歩道にまたがって木々が倒れ、そのたびにくぐったり飛び越えたりと、台風の被害の大きさを感じる。すっかり空いてしまった空港までの道だったが、今度は逆に対向車線が渋滞していた。空港についてから気づいたのだが、交通機関がマヒしているということは、空港に行けないのと同じく、空港から出ることができないということでもある。到着した飛行機を降りた日本人なり、訪日観光客なりは、そのまま足止めになってしまう。「陸の孤島」そのような呼ばれかたをしていたのも、あとになって知った。向こうからスーツケースを転がして歩いてくる人とちらほらすれ違う。旅の疲れも重なって、その顔は苦痛に歪んでいた。わたしのスーツケースは、もともとバイトに行ってからという状況を見込んで、事前に宅配で送ってもらっていたのだった。どちらにしても、3000円出してよかったとつくづく思った。あいかわらず、あつい。このまま飲み物なしで歩いたら旅に支障が出そう。わたしはコピー用紙の裏に、0.5ミリの細いボールペンで「成田空港 第二ターミナル」と書いて、ビュンビュン走り抜ける車に向かって冗談半分で掲げる。しかし、細い字のせいか、みんなそれどころではないのか、だれも止まってくれない。まず歩道を見てもいない。そりゃそうだ。わたしの人生初のヒッチハイクは失敗に終わりそうだ。と思っていたその時、奇跡は起こった!

 グレーのバンがわたしめがけて停車した。わたしは思わず叫び、状況を理解するのに少し時間がかかった。なぜなら、その車の扉がひらき乗車していたのは、あのタイ人夫婦だったからだ。しかもさらに時間がかかることに、ドライバーが懐かしい顔、インド系の顔立ちをしたおじさんだった。タイ人夫婦が乗るインド人が運転する車が、わたしの横に突然停車して、奥さんが「早く乗って!」と叫ぶ。わたしは理解する頭を置き去りにして、体一つで飛び乗った。とにかく、救われた、のか?
 
 タイ人夫婦はあの後すぐにバスから降りて、タクシーを探すために歩道をさ迷っていた。しかしもちろんのこと、タクシーは見つからない。そんな夫婦を見た、ニューデリー生まれ日本在住14年、幕張のコストコ勤務で友達を迎えるために空港に向かっていたおっさんは、夫婦を乗せた。夫婦はわたしのことも伝え、もし歩いているのを見つけたら拾うように頼んだそうだ。そして夫婦とわたしは、この不思議な絆に結ばれたわたしたちは、インド人のおっさんによって救われたのだ。なんて、おかしなことだろう。わたしは感謝の気持ちをありったけ伝えた(少ない英語力を初めて恨んだ)夫婦は荷物を取るためにホテルで降りる。ここまでくれば渋滞もしていないし、シャトルバスで容易にたどり着けるだろう。夫婦との別れは寂しかった。まるでずっと一緒に戦ってきた仲間との別れのようだった。一緒にいた時間は1時間も満たないはずなのに。おっさんはそのまま車を飛ばし、英語と日本語を交えながらインドの話をし、あっさりと念願のターミナルについた。わたしは幕張のコストコに行くことを約束して、感謝の気持ちをもう一回伝えて、車を降りた。時刻は15時過ぎ。余裕で間に合ったが、ようやく、着いた。地獄とも呼べるくらい長く、何度も途方に暮れながら、そのたびに打開策が降ってくる、不思議な旅路だった。ベンチに座ったとたん疲れがどっと出てきたが、満足感でもあふれていた。なんだか旅の終わりみたいだ。到着ロビーには手段のない大勢の人が途方に暮れた顔をしていた。でもだいじょうぶ、あなたたちもきっとなるようになる。少しのエールを送って、わたしは感謝とともに日本を出た。欠航便も出ている中、無事に飛んでくれたキャセイパシフィック航空にもお礼を言い、まずは香港へ。アドレナリンが駆け巡っていたわたしの体も、機内に入れば静まって、そのまま眠ってしまった。旅の終わりのような心地よさ、でも、これがはじまりなんだ。
 

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