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五,泣きながら食べた広島焼き

あれは一年前、生温い風が吹く三月半ばの夜だった。ソメイヨシノは蕾をぷくっと可愛らしく膨らませ、カンヒザクラは一足早く満開になったと思ったのも束の間、私の寂しさを誘うようにひらひらと儚く花びらを落とし始めた季節だった。

そこは、路地にひっそりとある少し古びた広島焼きのお店で店主は無愛想で怖いと噂だった。この日は、私の恩師であり、第2の母のようであり、友人の一人でもある養護教諭のなおちゃんが最後の大仕事を終えた日だった。高校生の頃、私が養護教諭になると決めたのは彼女に憧れたからの他理由はない。子供のように明るく楽しく働いていた。大学に進学し、勉強をして気づいたが、彼女は暇に見せるのが本当にうまかった。養護教諭としての実務は山ほど溜まっていたにもかかわらず、生徒が保健室にきた時には一切時間を惜しまなかった。まるで暇で暇で生徒が来るのを心待ちにしていたというように嬉しそうに楽しそうに、時には真剣に生徒と向き合っていた。何よりも生徒を愛おしそうに大切に思って接していた彼女が私は心の底から大好きだった。

高校3年生の頃、なおちゃんの退職と同時に私がこの保健室を引き継ぐよと硬く約束をしたはずだったにもかかわらず、彼女はあっさりと一年早く退職を決めた。そううまいこといかないと分かってはいた。それでも、悔しくて寂しくてたまらなかった。あの保健室になおちゃんがいないことがどうしても、考えられなかった。

彼女の最後の大仕事は、春の選抜甲子園の引率だった。厚かましいが校長先生にお願いをしてボランティアという形で私も連れて行って欲しいとお願いしたところ快くイイよと言って下さった。勝ち続けたら、お仕事として何度もなおちゃんと甲子園に行くことができる。負けてしまったら、もうなおちゃんと働くという高校生の頃の夢が終わってしまうという状況だった。

簡潔に言うと、一度勝った。その後の二試合目は1−2で惜敗した。先制された後に一度は追いつく粘りを見せたが、リリーフしたエースが追加点を奪われ、試合をひっくり返すことはできなかった。

広島焼きを食べにやってきたのは、その夜だった。

店主が広島焼きを作ってくれている隙に、最後に頼まれていたものを渡そうと鞄にしまっていたアルバムを渡した。彼女の40年分の思い出が詰まっていた。保健室に置いてあった生徒にもらった贈り物や写真をすべて持って帰ることはできないからアルバムにして欲しいと、それを死んだら棺桶に入れてもらうんだと私に頼んできた。どうかと思う。私に副葬品を作らせたり、遺影を撮らせたり、彼女は私の寂しさを、友人としての虚しさを、どこまで刺激するのかと最初は怒りさえあったが、ただただそんな憎めない無邪気な人だった。

アルバムを嬉しそうに開いたのも束の間、彼女は泣いていた。すぐにもらい泣きした。すごいね、この子はこんな子だった、あ〜懐かしいなあ、と平気そうな言葉を並べながら涙は瞬きをしなくても流れ続けた。時には、この子は亡くなったんよ。と私に言いながら愛おしそうに写真を撫でた。40年という月日は彼女にとって決して楽しかったことばかりではなかったのだと思い知った。無愛想な店主は、私たちがボロボロ泣いていようと何の気遣いもなく出来た広島焼きを目の前に差し出した。でもその無愛想さが、二人にはとてもありがたかった。

「あったかいうちに食べようか」と泣きながら食べた広島焼きは、悔しいのに、寂しいのに、猛烈に切ないのに、世界一うまかった。

彼女は帰り際、私に言った。


「私は養護教諭という職をうまくやりこなした自信はないけど、あの保健室で子どもたちと過ごすことができて本当に幸せだった。」


「幸せだった」その言葉を私もいつか言う日が来るように、なおちゃんの想いを引き継ぎながらあの個性溢れる保健室のように、私らしい保健室を作っていこうと心に決めた夜だった。

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