阿修羅の偶像(アイドル)第3章第5節(1)
登場人物一覧
ここまでのお話はこちら
先生による開会の辞が終わった後は、保(たもつ)とバルナのプロレスが始まる運びになっているため、本堂の上には既にプロレスのリングが設置されている。厳かな僧衣に身を包んだ先生はリングのロープを背にして立ち、悠々と観衆を睥睨する。
すると、会場に不穏なトラックが流れ、
押し殺したような声で、先生が言葉を紡ぎ始めた。
先生が言葉を紡ぐほどにトラックが攻撃的にうなり、それに合わせて先生の声はますます迫力を増していく。説法のようなラップ、ラップのような説法に、保はただ呆然と惹きつけられるばかりだ。やがて先生は、リングの周りをぐるりと半周して池の前に出ると、社を指差してまた口を開く。
社の前にはバルナが仁王立ちになり、先生を睨みつけていた。既に拝火の炎が灯され、バルナの青い衣を明々と照らしている。
……これは——
宣戦布告だ、と保は確信した。そう、これはバルナの宣戦布告に対する先生の回答なのだ。ただし、武器をとって戦えと迫るバルナに対し、先生は言葉をとって盾となし、武器を捨てよとバルナに迫っているのである。
音楽が止み、先生は再び観衆の前に立って会場を睥睨している。ただの主催者挨拶と高を括っていたであろう観客は、今や先生のパフォーマンスに完全に圧倒され、先生が次に何を言うか、固唾を飲んで見守っていた。
「曰く、信じる者は救われる」
先生が口を開いた。
「この二ヶ月間、青海市の新型コロナウイルス感染者はゼロ人を維持している。この青海池からは異界の気が放たれ、全ての疫病を癒すと言われている。それを信じるか否かは諸君に委ねよう。しかし、我ら僧侶の仕事とは信心である。そして今宵は音楽に身を委ねるための祭りの夜だ。したがって、」
先生は観衆をゆっくりと見回して、言った。
「諸君が声を発し、体を踊らせて音楽に身を委ねても、私が止めることはない!」
その瞬間、竹林さんが慌ててノートパソコンを覗き込み、配信動画の画面に目を走らせる。そう、この様子は、無料でネット配信されているのだ。感染拡大に厳しく目を光らせるネット民の目に止まったら、大炎上に繋がりかねないことを先生は口走ったのである。
「では、祭を始めるとしよう。祭、すなわち大庚申祭とは!」
先生は勢いよく社を指差した。
「先の庚申の夜、あの社より戦闘の神たる水天が悪しき虫を掃除するために人道に来訪した。今宵は水天が最後の虫を仕留め、宿敵天帝に決戦を挑むため天道へと向かう旅立ちの夜なり! だが、水天の前に立ちはだかる者、それは六道の平和を守る使命を仏に与えられた怪力の鬼神、すなわち、」
先生は保を指差し、大音声で呼ばわった。
「多聞天!」
賑やかなハンドクラップとバスドラムの音に続き、伸びやかな声が会場に響き始めた。打ち合わせ通り保の入場テーマとなった「ウィー・ウィル・ロック・ユー」である。保はリングに上がり、お約束に従って両手を挙げながら会場を見回す。観客からは拍手は聞こえてくるものの、歓声はあがらない。先生にああは言われているものの、やはり実際に声を出すことは憚られるのだろう。それに大部分の観客のお目当ては水戸さんなのだから、自分などは前座も前座なのだ、と保は腹を括っている。また、いきなり前座でプロレスを見せられるというのは、さすがに面食らっている客も多いのではないか。
「さて、では本日の主役にご登場願おう」
保がひとしきり会場に挨拶し終えるのを見計らって、先生がまた口を開いた。
「行く手を阻む多聞天を斥け、宿敵のもとへと天道を駆け上らんとする護法神、戦闘の神たる阿修羅の王子、」
先生は勢いよく社を指差して叫んだ。
「水天バルナ!」
「次々続々 次々続々」
——あれ?
特徴的な水戸さんの声が聞こえてきたので、保は思わずリングサイドの水戸さんの顔を見たが、彼女は照れ臭そうに苦笑いしながら肩を竦めているだけだ。
「次々続々 次々続々」
水戸さんの声に合わせて軍隊の行進のようなリズム音が鳴り響き、続いて攻撃的な電子音が流れ始めた。そして池の方を見れば、煌々と燃え上がる拝火の炎を背に、バルナがまっしぐらに橋を渡ってこちらに向かってくる。会場からは先程保に向けられたのものとは比べ物にならないほどの拍手が立ち上り、やがて力強い手拍子へと変わっていった。
その時、一瞬音楽が止まった。境内に訪れた静寂の中、バルナが勢いよくリング上に飛び上がり、観客に向かって大音声で呼ばわる。
「ようこそ! 人間たちよ!」
「おおっ」という驚きの声が客席から漏れた後、音楽が再び流れ始め、会場は盛大な拍手の渦に包まれた。それを見て、すっかり忘れていたことを保は思い出す。そう、本来ならば自分の名前を呼ばれない限り、人道の者はバルナの姿を見ることはできない。だが、「阿修羅の王子」という設定でプロレスのリングに駆け上がったバルナから「人間たちよ!」と呼びかけられれば、観客全員がそれは自分のことだ、と認識できる。こうして観客全員がバルナの姿を見ることができるようになったのだ。それも、バルナがいきなりリング上に現れるという、エンタメ性抜群の驚きを伴う形で。
リングに上がったバルナは不敵な笑みを浮かべながら、会場に向かって隈なく手を振り続ける。観客の中には、バルナに勢いよく手を振り返す者、そして曲に合わせ、複雑な、だが明らかに熟逹した動きでペンライトを振る者、さらにはバルナの衣の色に合わせ、ペンライトを赤から青に切り替える者、会場はますます異様な盛り上がりを見せ始めた。ナラキンさんと翼に至っては肩を組み、「ウオッオッオオー! ウオッオッオオー!」と絶叫を続けている。
裂帛の気迫を漲らせながらリング上を闊歩し、観客に手を振り続けるバルナを見て、やはりこいつは阿修羅族の王子なのだ、と保は改めて実感した。生まれてから今まで、周囲に注目され続けてきた者だけが持ち合わせている堂々たる振る舞いが、誰かを注目し続けてきたアイドルヲタクの観客と、異様なシンクロを見せているのである。そういえばバルナの端正な容姿、モデルのようにすらりと伸びた手足、闘志溢れる体のキレは、あのShangri=laのパフォーマンスと通ずるものがある。彼女たちのファンがこれだけの興奮を見せているのは、単にバルナの入場テーマがShangri=laの曲であることだけが原因ではないのではないか。
「いやあ、凄まじい音ハメだねえ」
リングサイドのファルークさんが、感心しきりに呟く。
「やろうと思ってやってる動きじゃないんだよね。これはもう、王子様の天分だよ」
それを聞いて保はまた思う。Shangri=laの楽曲に乗って颯爽と登場したバルナの、このハマり具合はどうだ。この曲は元々ファルークさんのお薦めではあったかもしれない。だが、あの気難しいバルナが、自分の入場テーマについてそう簡単に首を縦に振るだろうか。そういえばバルナはあの「赤いイヤホン」についても、「女が歌うような曲ではない」ということは口にしても、楽曲そのものや彼女たちのパフォーマンスについては、一切否定していないのだ。そしてバルナが一通り会場に手を振り終わった後、リングサイドの水戸さんを猛禽のような目つきで睨みけたのを見た時、保は先生の言葉を思い出した。
——ここはバルナ様が『男らしさ』を見せつけてやる、というのはいかがでしょう?
そう、先生はバルナに保とのプロレスを提案した時、そう言ってバルナを挑発したのだ。そしてこの一本気な阿修羅の王子はその言葉を真に受け、己が戦いの火蓋を勇壮な形で切るため、言わば彼女たちに「勝つ」ために、彼女たちの楽曲に乗ってリングに登場したのではないか。
やがて音楽がフェイドアウトし、バルナは大きく腕を動かしながら、不敵な面構えで保を睨みつけた。保と一戦交えるのが楽しみで仕方がない、といった表情である。
一方の保は、さあ、どうしよう、と内心頭を抱え続けている。
試合前の盛り上がりの歴然たる差が物語っているように、この試合の主役はバルナであり、自分は悪役である。
竹林さんが言っていた通り、確かにアイドルとプロレスは似ているのかもしれない。「女らしさ」という夢を売るのがアイドルなら、「男らしさ」という夢を売るのがプロレスだ。ただ、Shangri=laというグループはねじれていて、見目麗しいアイドルが勇壮なパフォーマンスを売りにしている点では、その両者を兼ね備えた存在と言える。だから少女のような美貌を持つバルナが颯爽とリングに立つ姿に、Shangri=laのファンたちはこれだけ熱狂しているのかもしれない。
だとすれば、観客の期待に応える意味でも、自分はバルナをある程度苦しめた後、しっかり負けなければならない。しかし、それは果たしてバルナにとってよいことなのだろうか……
——それにしても……
保は顔をしかめる。さっきまで音楽でかき消されていた鬼の哭き声がいや増しに大きくなってきているのだ。そのボリュームは二ヶ月前の比ではない。そしてこの哭き声は庚申の夜の夜半までは続くのである。何故ならば鬼は性懲りも無く、自分たちが水天に退治されることに恐れおののいているからだ。
だが、そこで保は気づいた。
今回の鬼の哭き声は、以前とは明らかに違うのだ。それは厳密に言えば哭き声ではなく、歓声のように聞こえるのである。それはまるで試合前のプロレス会場に鳴り響くような……
——今回は『覇道』でいけ
その時、点が線として繋がった。なすべきことが分かったのだ。その瞬間、先生と目があった。先生はニンマリと笑い、大きく頷いて、確かにこう呟いたのである。
「暗示の外へ出ろ」
「では!」
そう言って竹林レフェリーがリングの中央に立った。保とバルナは歩み寄り、竹林さんの差し出す指に向かって拳を付き合わせ、またそれぞれのコーナーに向かう。
そして、ゴングが鳴り響いた。保はすぐさまロープに身を投げると、右手を水平に伸ばして、
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
腹の底から雄叫びをあげながら、バルナに向かって突進した。保のいきなりの攻勢にバルナはギョッとした顔を一瞬見せた後、軽やかに身をかわして保のラリアットをかわそうとする。だが、保はすぐに軌道を修正し、半身になったバルナの右肩に素早く右腕を絡ませた。
「……何?」
戸惑うバルナを保は力づくで引き寄せ、そのままバルナの背後から左腕をバルナの左肩に絡ませると、両掌をバルナの首の後ろでがっちりと固めた。
「……ドラゴン・スープレックス?」
そう呟いたバルナを保は軽々と持ち上げ、そのまま一気に後方へと体を倒していく。二双の龍はまさに龍体が弧を描くように宙を舞い、やがてマットに落ちた。
「あ……」
あまりの電撃戦に呆気にとられていた竹林さんが我に帰り、慌ててしゃがみ込んでマットを三回叩く。
そして、試合終了のゴングが鳴り響いた。
保が両肩のホールドを解くと、バルナはそのまま力なくリングに横たわる。保は立ち上がり、竹林さんに手を持ち上げられて勝利のポーズをとった。
会場からはわずかにまばらな拍手が聞こえるだけで、観衆は静まり返っている。それはそうだろうな、と保も思う。何しろ、せっかくあれだけ盛り上がったところで、悪役であるはずの自分が空気を読まずに主役を瞬殺してしまったのだ。
だが、その一方で、保は彼だけに聞こえる盛大な歓声に包まれていた。
そう、鬼どもの目には、この試合の結果は全く逆のものとして見えているはずだ。長きにわたって彼らが恐れ続けてきた水天は、彼らの王である多聞天によってあっという間にリングに沈められた。さすがの彼らもこれで学習し、今後は心安らかに庚申の夜を迎えられることを保は祈る。なぜなら水天が鬼どもを蹂躙するなどということは、彼らが自分たちで自分たち自身にかけた暗示に過ぎないのだから。
暗示ということで言えば、プロレスで悪役が負けなければならないとか、それどころか自分が悪役だということだって、所詮は暗示に過ぎないのである。鬼どもの哭き声にしても、実はそれが哭き声だと保が思い込んでいただけで、あいつらは最初から保を水天を倒してくれるヒーローと見込んで歓声を送っていたかもしれないのだ。でも、プロレスとかアイドルというものの存在は、ファンがそういった暗示にかかることによって成立しているところがある。そして水戸さんは、ファンの暗示を解くべく奮闘し続けているということなのかもしれない。
やがて、バルナはゆっくりと身を起こし、保たちに背を向けると、
「……手加減のないのが、お前のいいところだ」
そう言ってリングを降り、再び橋を渡って社の方に向かう。その背中を見つめながら、保の胸にはバルナに申し訳ないという思いと、これで良かったのだ、という気持ちが交錯していた。
バルナは確かに強い。だがそれは、バルナが阿修羅の力を持って保や沙羅を制御下におさめた時、阿修羅と人間の能力差を活かした場合の話だ。その力を用いない「人の身」としてのバルナは、せいぜいよく鍛えられた十代の大柄な少女程度の肉体しか持ち合わせていない。到底、保の敵ではないのである。
だからこそ、保は「プロレス」を演じなければならない、と最初は思った。だが、あえて真っ向勝負でバルナを瞬殺することを選んだ。バルナにかけられている暗示を解くには、そこまで問答無用の衝撃が必要だ、と悟ったからである。
それに、手加減なしの勝負を望んでいたのはバルナも同じだったのだ。いかに修羅道で鍛えられてきたとは言え、バルナは修羅道の王子であり、周囲にそれなりの遠慮がなかったとは考えにくい。いや、それどころかバルナが天帝の返り討ちにあった方がよいと考える者たちもいたのだとすれば、バルナに手心を加えてスポイルしようと目論む者がいたとしても不思議ではない。そしてバルナ自身もそのことに不安を抱いていたのではないか。それは水戸さんが抱えていたのと同じ不安であり、まさに「アイドル」の孤独なのだ。だからバルナは保との真剣勝負をあれほど欲していたのではないか。バルナは自分自身に暗示をかけながら、「人と人」としてぶつかり合える保に、どこかで自分の暗示を解いてくれることを望んでいたのではないか。
「バルナ!」
バルナの背中に向かって、保は声の限りに叫ぶ。
「訂正するよ! 一つになれないのは『阿修羅と人』じゃない! 『人と人』なんだ! だから……」
だがそれ以上、保には言葉が見つからなかった。そしてバルナは振り向かず、そのまま橋を渡りきって社の中へと入っていった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?