王子と神獣と太公望〜Juice=Juice封神演義絵図〜
はじめに
先日、Juice=Juiceの井上玲音が以下のブログを更新した。
引用部分からも分かる通り、この写真は以前に井上玲音のInstagramに掲載された写真群の未収録カットを、井上が改めてブログに投稿したものである。二度にわたってWeb上に投稿するほど、井上がこの写真群を気に入っていることがよく分かる。
ちょうど先日、上記の記事でも少し触れたが、井上玲音はかつてこぶしファクトリーの「末っ子」として活動してきたメンバーである(彼女は私生活でも三姉妹の「末っ子」に当たる)。だがJuice=Juice加入後は年下のメンバーも次々に増え、彼女が「末っ子」らしさを披露する機会はそう多くはない。そんな中、唯一の年長メンであるリーダー植村あかりのもとで「末っ子」らしい表情を見せている写真群と言えるだろう。
ところで自分が気になったのは、この写真の撮影者が松永里愛、演出者が植村あかりだということだ。彼女たちは言動の一つ一つが含蓄に富み、自分が目下ハロメンの中で最もその言動に注目している二人のメンバーと言ってもよい。その二人がJuice=Juiceというグループの中で特異な位置を占める井上玲音を印象的な写真によって「プレゼン」したことに、自分は大いに関心を喚起させられた。現に井上の投稿を受ける形で、植村も自分のInstagramに同じ写真を投稿した事実からも、この写真が彼女にとっても重要な意味を持つことがうかがい知れる。
そこで本記事では、松永里愛と植村あかりという二人が、現在のJuice=Juiceでどのような存在なのか、そして彼女たちがJuice=Juice加入後の井上玲音とどのように関わってきたかを振り返った後、井上玲音がJuice=Juiceにとって持ちうる重要な意味について改めて論じてみたいと思う。もっとも、実際には深遠な意図など毛頭ない、彼女たちの単なる遊び心から撮影された写真群なのかもしれない。だが、この数年定点観測し続けてきた松永-植村-井上の関係性を何としても小括してみたくなるほど、これらの写真群は自分にとって象徴性の高いものだったのである。
松永里愛:仁愛の王位継承者
「りあいちゃんに撮ってもらうことも珍しい気がする」と井上玲音が綴っていた通り、松永里愛はブログに自撮りや他のメンバーとの2ショットを載せることが少ないメンバーである。そのポリシーの背景にはある種のダンディズム、自分と他のメンバーとの関係性を決して安売りしないという美学が潜んでいると自分は理解している。しかし、他メンバーとの絆を人一倍大事にしている彼女は、仁愛的目的のためであれば、全く逆の行為に打って出ることもある。その一例として、井上玲音が加入して間もない頃に松永が書いたブログを紹介したい。
井上玲音と、工藤由愛・松永里愛の「ゆめりあい」コンビは、なかなか一筋縄ではいかない関係性にあった。年齢的にもキャリア的にも井上の方が先輩だが、Juice=Juiceでのキャリアという点では「ゆめりあい」が先輩になってしまう。さらに加入決定後の井上がコロナ禍の影響でなかなかJuice=Juiceに合流できないという事情まで重なった。だが「ゆめりあい」はその複雑さを十分に自覚した上で、井上の合流直後から(おそらくはかなり意識的に)彼女に関わり始めている。同時期に工藤が更新したブログについては以下のものを参照されたい。
さて、ここでも「ゆめりあい」の対照性が明らかになっている。十分に言葉を尽くして先輩たる井上玲音に礼を失しないよう努めている工藤由愛に対し、松永里愛は唐突に井上の「盗撮写真」を掲載し、そのことに何の言及もなくブログを終えている。おそらく松永は一定のリスクを冒しても井上に「悪戯」を仕掛け、「仲良くなりたい」というシグナルを送ったのではないか。「先輩」が加入間もない「後輩」に仕掛けるグルーミングとしてはハロプログループ(特にアンジュルムなど)ではありうるものかもしれませんが、井上と松永という複雑な関係性において、年下の人間が仕掛けるにはなかなか勇気のいる行為ではあると思う。
そんなわけで、このブログは松永里愛とは並大抵の人物ではないと自分が強く印象づけられた最初の切っ掛けだったが、その後アンジュルムおよび大アンジュルム関係が色々と忙しかったということもあり、自分が彼女を主君と仰ぎ臣従するに至るまではそれから一年以上の年月を要した。ちなみに自分が彼女に臣従する決定打となったのは、彼女が金澤朋子卒業直後に綴ったブログである。
松永里愛の「王位継承宣言」と宣言と自分が呼んでいるブログであるが、ここで重要なのは、彼女が「先輩方のことも」と明言していることである。そしてこれを読んだ自分がまず思ったことは、彼女は常にJuice=Juiceというグループが抱えている複雑な事情を念頭に置いているのではないか、ということであった。
Juice=Juiceは梁川奈々美、稲場愛香、井上玲音といった形で、他グループ出身のメンバーを多く受け入れてきたグループである。そしてその反動としてファン層の間では「オリメン原理主義」が非常に強くもあった。実際、井上自身も宮本佳林の卒業公演の際、ブログで以下のように記している。
こうした「外様組」の思いを耳にするにつけ、Juice=Juice生え抜きの松永里愛は、稲場や井上に肩身の狭い思いをせずに過ごしてほしいと強く思っていたのではないかと自分は想像する。実際、金澤の卒業直後の時期、松永は立て続けに以下のような発言をしている。
ちなみに、井上玲音について書かれたブログの方は現在削除されてしまっている。おそらくはこの時期、稲場や井上とかなり踏み込んだ話がなされ、松永里愛はそれを受けて驚くほどの率直さで自分の思いをブログに綴ったのだと思う。そして井上の件についてはその言葉があまりにも赤裸々だったために、事務所判断で削除ということになってしまったのではないか。この辺りには彼女の若さが感じられるが、一方でそれは彼女の溢れんばかりの仁愛のなせるわざでもある。そして松永のブログが綴られた直後、井上はInstagramに以下のような投稿をアップしている。松永に抱きつく井上の表情から見ても、この投稿が松永への「若さ」に対して表された心からの謝意であったことは明らかであろう。
植村あかり:回天の神獣
さて、ここまで少し長くなってしまったが、松永里愛が井上玲音に対して特別な思いをもって接してきたことを論じてきた。そしてその彼女が件の写真群の撮影者である、ということは今回の話の出発点に過ぎない。もう一人植村あかりという重要人物が絡んでくるからだ。
植村あかりが奔放に見えて実に細やかなリーダーシップを発揮することはこのnoteでも折に触れて言及してきた。その構えは一見松永里愛に近雲見えるが、若さゆえか時にその思いが暴走することもある松永に比べると、植村のしなやかさには実に﨟たけたものを感じる。そのあくまで自然体な、いい意味での老獪さは、到底20代前半の女性とは思えないところがある。変な話、一見より「しっかり者」な金澤朋子の方が実は「年相応」というか、有能な若い女性の極端な典型というところがあるのだが、植村にはどうにも人間離れした底知れなさを感じるのである。そして植村の持つこうした美質については、先月の植村の誕生日に際して井上玲音が以下のような形で端的に言い表している。
最近井上玲音がアップした件の写真群もまた、こうした植村あかりとの良好な関係性を物語るものであることは論をまたない。植村は松永の言う「井上の居場所」を提供し、写真としてこれをプレゼンしたのだと言える。そして同時に井上は、植村の一筋縄ではいかない底知れなさを十全に感知している。その意味で自分は、植村自身がよく自称する「犬」という自己メタファーについてはしばしば物足りなさを感じる。確かに彼女は他人の「セラピードッグ」として機能しうる存在だが、実のところ「犬」などという生易しい生き物ではない。ただ、確かにイヌ科の生き物ではあるかも知れない。植村の正体とはおそらく、千年を生きる伝説の化け狐、「千年狐狸」だ。
歴史上、千年狐狸は蘇妲己、玉藻前などの絶世の美女に化け、殷の紂王や日本の鳥羽上皇などに取り憑き、天下大乱の火種となってきたことから、酒呑童子、大嶽丸と並んで世に災いをもたらす日本三大妖怪の一つとして数えられることも多かった。しかし、これはあくまで日本限定の、朝廷中心主義的な捉え方に過ぎない。たとえば中国では千年狐狸は回天(世の一新)をもたらす神獣として崇められてもいる。古く腐敗した王朝の君主に取り憑いてその崩壊に決定打を与えるのだから、新しく立ち上がる側の王朝からすれば当然「害獣」ではなく「益獣」というわけだ(日本の玉藻前にしても、鳥羽上皇の拙政が招いた保元・平治の乱が武家政権への道を切り開いたと考えれば、「回天の益獣」という解釈は可能になるはずだ)。
既に上掲記事でも論じたが、Juice=Juiceの世代交替を見守る立場に徹し、金澤朋子の引退に際しての声明を全て王位継承者たる松永里愛に託した植村あかりの在り方は、まさに千年狐狸そのものである。九人のメンバーを従えたJuice=Juiceの美人リーダーとしての姿も、九本の尾をたなびかせる古妖の姿を連想させるものがある。その植村が自ら構図を指定する形で、井上玲音との2ショットを松永に撮影させたというのが、今回の話のもう一つのキモである。
同じような立場であった稲場愛香が卒業してしまった現在、「生粋のJuice=Juice育ち」ではないメンバーは今や井上玲音だけになってしまっている。彼女のそうした複雑な立場に植村あかりが色々と心を砕き気を回し続けていることは、井上のブログからも読みとれるものがあるだろう。たとえば植村は井上のことを「れいこ」という彼女独自の呼び名で呼ぶが、これは彼女が格別に親愛の情を表現したい相手に対して発揮するコミュニケーションスキルなのではないかと自分は考えている(他には有澤一華に対して「いちかち」と呼んでいるが、おそらく何かと不安を抱えやすかった有澤に安心感を与えるためのものだろう)。こうした植村の人を食ったコミュニケーションスタイルは、井上に対していきなり「盗撮」という悪戯を仕掛けた松永里愛にも近いものがあり(彼女もまた稲場を「いまなさん」と呼ぶなど、独自の呼び名が目立つメンバーである)、ひょっとしたら大阪人女性の美質なのかもしれない。
実際ハロプロ全体を見回しても、他グループから途中加入したメンバーの定着率はとても低い。各グループのヲタクの興味は、どうしても「自グループから育つ若いメンバー」に向かいがちである。特にカントリー・ガールズ組に関してはそのグループ消滅と前後して、梁川奈々美、船木結、森戸知沙希らが若くして所属グループを去ってしまった。そんな中、稲場愛香だけが最終的にはJuice=Juiceのサブリーダーまでも勤める形で終の住処を見つけ、アイドル人生を全うして卒業することができたことは、植村体制のJuice=Juiceが果たし得た大きな成果であろう。だが、それにしても彼女がヲタクの「様々な声」に対して複雑な思いを抱えてきたことは、卒業前のインタビュー(下掲リンク参照)の中で赤裸々に語られている。
もっともそうした複雑な事情を肌身に感じながら育ったのは「ゆめりあい」世代までで、「3flower」から下の世代にとっての井上は、今やただの「先輩の一人」になってきている可能性は高い(少なくともハロ歴や年齢とJuice=Juice歴の間で井上と「ねじれ」が生じてしまうのは「ゆめりあい」までで終わっている)。たとえば井上は有澤一華の誕生日に当たり、純粋な「先輩」として以下のような素晴らしいメッセージをブログに綴っている。
その意味ではJuice=Juiceの「回天」までは「あと一歩」なのではないか。すなわち井上玲音が稲場愛香のような余計な気苦労もなくJuice=Juiceに「居場所」を見つけられた時、Juice=Juiceは完全に旧弊を脱して「回天」を成し遂るのではないか。井上の存在は、彼女をグループに受け入れながら志半ばにしてリーダーを辞すことになった金澤朋子から植村あかりが引き継いだ大きな課題の一つである。そしてまた今一人、井上をめぐる複雑な文脈を若年ながらに最も汲み取り、時にリスクを冒した言動を繰り出してきたのが松永里愛だ。金澤や稲場といった先輩たちに対してダル絡みを続けたのとは打って変わり、松永は植村に対しては一目置いたスタンスをとっているように見える。そして同じことは植村の方についても言える、彼女はよくからかいのネタとして後輩の話を出すが、松永に対してだけはそれをやらない。かと言って仲が悪いわけでもなく(本などの貸し借りは頻繁にしているようだ)、「わざわざグルーミングアピールをする必要のない相手」としてお互いに認め合っているようなところがあるのだ。そしてこの二人が共有する「井上玲音はJuice=Juiceのキーパーソン」という認識が、件の写真群にあらわれているように自分には感じられるのである。
井上玲音:太公望の「こぶし魂」
さて、今のJuice=Juiceを殷周革命の故事に擬えるならば、植村あかりは回天の天命を託されて地上に派遣された千年狐狸であるという話をしたが、その伝で行くなら松永里愛は後に「武王」として周王朝の開祖となる王子姫発であろう(若い頃の姫発が血気盛んで「やんちゃ」な王子であったという点も実に松永らしい)。だとすれば、その二人が「Juice=Juiceのキーパーソン」と見なす井上玲音は何者なのか。当然、後に武王を補佐して周の天下獲りに貢献する名軍師太公望ということになるはずだ。
その理由は大きく分けて三つある。一つは言うまでもなく、井上がそれだけの実力者ということである。特に植村体制下における井上の特に歌唱面での活躍ぶりは、まさに「国士無双」と呼ぶのに相応しいものがある。そして上に引用した通り、今や後輩の誕生日に際しては心を尽くしたメッセージを送る「先輩」ぶりも発揮している。このことは二つめの理由である、ある共同体の運命を左右するほどの「マレビト」は常に共同体の外部から現れる、という話と関係してくる。太公望もまた殷王朝の圧力で滅ぼされた少数民族「姜」の出身であり、その苦難の歴史が彼の才幹を形作ったという。そういえば先日Juice=Juiceの武道館公演が中止になった時も、井上は己の実体験に則る形で骨太なコメントを残していた。
太公望は周に仕官した時、齢80を数える老人だったという話である。さすがにそれは盛り気味な伝説ではあるだろうが、相応な経験値を備えた優れた人物が共同体の内部から彗星の如く現れることなどありえない、ということを指し示す逸話ではあるのだろう。井上玲音がJuice=Juiceに加入してすぐに「即戦力」として活躍を見せているという事実は、彼女が既にグループ外で積み重ねてきた経験値なくして成立し得ないものなのである。
さて、自分が今回最も重視したいのはそこではなく、三つめの要素だ。すなわち例の有名な、太公望が周に仕官するきっかけとなった「釣り」の故事である。
ある日、姫発の父親である姫昌(周の文王。この人物は息子の姫発とは対照的な穏やかな人格者であり、Juice=Juiceに擬えるならば、今回はあまり多く触れない段原瑠々に相当するだろう)が狩猟に出かけた時、川のほとりで釣りをしている太公望に出会った。ところが太公望はまっすぐな釣り針で、しかも針を水面に着けることなく釣りを続けていた。これを見た姫昌は「この人は大人物だ」と感じ入り、請うて自国に招いたところから殷朝打倒、周朝興国のサクセスストーリーが始まった、という話である。
さて、それはそうなのだが、どうも中国の故事にはよくわからない謎掛けめいた話が多すぎる。何故太公望は「まっすぐな釣り針」で「針を水面に着けることなく」(つまり一匹の魚も釣ろうとしないような構えで)釣りをしていたのか。そして何故姫昌はそれを見て「この人は大人物だ」と見抜いたのだろうか。
これは自分の考えだが、この釣りの故事が意味するものは太公望の「具体的な行為」ではなく、彼の振る舞い全体のメタファーのような気がするのである。
「まっすぐな釣り針」は、一切の返し(小細工)のない、真の実力を指す。また「針を水面に着けないこと」は、安易な私利を求めないことを指す。そして「にもかかわらず釣りを続けていたこと」は、高い志を失わなかったことを指す。現実にはこうした人物は極めて稀だと思うが、太公望はそうだった。あるいは少なくとも姫昌はそうした観点から太公望の人となりをじっくりと見極めていったのではないか。その長いプロセスが、「釣りの故事」に凝縮されているように思えるのである。
繰り返すが、現実世界ではこうした人物は稀ではある。だがハロヲタはかつてハロプロに太公望のようなグループが存在したことを記憶しているはずだ。水面に届かないようなところで小細工のない真っ直ぐな釣り針を志高く磨き続け、やがて太公望の祖国のように消滅していったこぶしファクトリーというグループである。
井上玲音はその中でも特に「こぶしファクトリーらしい」特性が際立つメンバーである。「顔面国宝」と言われるほどのビジュアルメンでありながら、松永里愛と同じくSNSなどでヲタクを「釣り」に来ない。もっとも松永の場合にはそのストイシズムが「美学」として際立つために逆説的な形で「返し針」となり、それが彼女のカリスマ性にも繋がっているのだが、井上の釣り針はひたすらにまっすぐである。歌やボイスパーカッションといった堅固なスキルで釣り針を塗り固めることで、生まれ持った「美貌」という返し針をその中に埋め込んでしまおうとしているようにすら見えるのである。
だが、井上玲音は「控えめ」ではあるにせよ、決して「無難」な人間ではない。口を開くべきところできちんと口を開く人物であることは、この記事でも折に触れて取り上げてきた。だが、それにしても華のある松永里愛の発言などと比べると、ヲタク一般の印象には残りにくい。こぶし時代から長きにわたって彼女を定点観測して自分のような人間でないと、彼女の美質はあまりにも地味で無骨で、なかなかわかりにくいのではないか。しかし同時に思うのは、稀代の軍師と言われた「太公望」というのも、案外そういう人物だったのではないか、ということだ。おそらく姫昌は長期にわたって太公望の人間性を見極める縁があった。だが、その美質が隠秘的で一言では表現しにくいものだったので、「まっすぐな釣り針を水面に着けずに垂らす」というようなあり得ない逸話をメタファーにせざるを得なかったのではないだろうか。
だが幸いにして今日の我々は、太公望の美質を表すうってつけの言葉を既に持っている。清らかな辛夷の花のように私利を求めず、ひたすらに小節を磨き続け、天高く築き上げた拳のように志の高さを保ち続けた太公望こそ、人類最古の「こぶし魂」の持ち主だったのではないだろうか。
おわりに:化け狐の託宣
以上、Juice=Juiceにからめてかなり自分独自の無粋な太公望論なども披露してきた。その勢いでもう一つ身も蓋もないようなことを言うなら、「回天の神獣」などというものも当然現実には存在しない。実際にはありえない「釣り」の故事によってしか太公望の資質の絶妙さが表現できなかったように、殷が滅び周が興るに至った歴史の数奇さもまた、その背後に「九尾の千年狐狸」という意思を備えた超越的存在を想定しなければなかなか説明できなかったのだろう。現実はその実態よりも演劇的にしか説明できないものなのである。
だが一方でハロプロは、現実の実態よりは演劇的に作られた世界である。したがってそこで育った人間は人並みよりは演劇的な存在になる。そんな一人である植村あかりが、明確な意図をもって「Juice=Juiceの回天」のために奔走しているのだから、彼女が伝説の化け狐のように見えてきてしまうのも仕方がなかろう。ならば我々は素直に彼女に化かされる形で、狐の後を追っていくほうがよい。
そんなわけで改めてこの写真を見てみる。伝説の化け狐は井上玲音を指し示している。そして「この者こそが我が国に天下をもたらす太公望である」と宣っているのだ。この写真の撮影者である松永里愛もまた、そのことをとうに知っている。だが、万民はまだそのことを知らない。この写真は、回天の天命を背負った若き王位継承者が、回天の神獣から賜った託宣を満天下に知らしめるためのものなのだ。
思えばローマのユリウス・カエサルしかり、戦国期の北条早雲しかり、長い雌伏の時を経た後に志を得た者ほど磐石たる王国を築いてきたものである。ぬけぬけとあぐらを掻いたまま居座る老害を批判するのはもっともな話だが、だからといって回天の大業を「若さ」だけに委ねるのはいささかリスクが大きい。だとすれば興国の鍵はそのちょうど中間、運悪く志を得ぬまま経験値を重ねた「80歳の新人」にあることを古代中国の故事は物語っているのではないか。そして三年前に太公望の「こぶし魂」を吸収した時点で、Juice=Juiceは「回天」の天命を既に我が物にしているのである。