川村文乃が「アンジュルム」になる日
こちらは #川村文乃アドベントカレンダー 11月27日(19日目)の文章です。
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#川村文乃アドベントカレンダー は2024年11月28日をもってアンジュルムを卒業され、アイドルとしての物語を完結する川村文乃さんの門出を祝福したい!という趣旨のアドベントカレンダーです。
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本文
アンジュルム六期の二人は、自分がアンジュルムのヲタクになって初めて迎えた新人であった。
2017年のゴールデンウィーク、自分は初めてアンジュルムのリリイベに行った。その後、自分は各種ヲタ活を急ピッチで履修していく。そして六月最終週、あのハロステ号外がやってきて、アンジュルムのヲタクとして初めて、自分の推しグループに新人を迎えることになったのである。
だがその新体験は、のっけからデリカシーが要求されるものであった。アンジュルムは当時休業中の相川茉穂の問題を抱えていて、さらにカントリー・ガールズから「兼業」メンバーを迎えるという事務所の不可解な采配に、ハロヲタ界隈は物情騒然としていた。なので、たとえばSNS上でこの件に触れる時には相応の慎重さが必要となる局面だったのである。もっとも当時「ヲタ垢」も持っていなかった自分は、余計なことは口にせず、できることを淡々とやることにした。確実にやってくるであろうカントリーの兼任メンバーについて知見を深めるべく、彼女たちの過去映像を履修することに決めたのである。そして一通り視聴した結果、自分は船木結に来てほしいと感じた。福田花音と田村芽実の卒業でアンジュルムに不足していた「太い声」の持ち主だったからである。
そして船木結は本当にやってきた。難しい局面で彼女を迎え入れる和田彩花の振る舞いは実に見事なもので、全ての雑音は一瞬にして吹っ飛んでしまった。私などは、⑴カントリーから誰が来るのか? ⑵その人をどう迎えればよいのか? の二つに意識が集中していたせいで、和田のおかげで緊張の糸がふっと緩んだ瞬間、全ては終わったような気にすらなっていた。
その時、和田彩花は「走ってきた!」と叫んだものである。
二人目の新人である川村文乃が部屋に入るや否や、全速力で駆け寄り、涙を流しながら歓喜の輪に加わったのである。
これは川村文乃の一側面を象徴するムーヴだったと思う。彼女の「有能さ」は基本的に「静」的な地道さに基づくものだが、時折目の覚めるような「動」の側面を見せるのだ。
たとえば上述の場面では、和田彩花と船木結の間に、後々に繋がる特別な関係性が既に醸し出されていた。そしてヲタクの意識は完全に船木結の物語に集中していた。川村文乃も「ローカルアイドルがハロメンを夢見て上京」というバックグラウンドストーリーを携えてはいたが、ハロヲタへのアピールという点では、カントリー・ガールズをめぐるストーリーの悲劇性にはかなわなかった。そこに川村文乃は、ただ勢いのままに飛び込んできた。その風景を見た時、少なくとも自分は一つの錯覚を覚えた。それは、
「川村文乃は既にアンジュルムのメンバーで、新しく加入した船木結を歓待するために駆け寄ってきた」
というものであった。
人間心理をめぐるテクニックとして、「相手の注意を他のことに集中させた瞬間に、自分が本当に伝えたいメッセージを伝える」というものがある。この技を仕掛けられた相手は、あたかも自身がその考えを以前から抱いていたかのように錯覚し始めることが多い。つまりそのメッセージは、相手の無意識の中に既存のものかのように埋め込まれるのである。
川村文乃のムーヴとはまさにそれだった。無論それは、川村が意図的になしたことではないだろう。おそらく彼女もまた、船木結をめぐる複雑な事情をよく理解していて、自分自身よりも船木を気遣っての動きだったのかもしれない。だが結果として、川村文乃は以前からアンジュルムに存在していたかのように、自分の前に登場したのだ。
ところがその後、アンジュルムは明らかに変わった。アンジュルムの活動全体が、以前よりも効果的にプレゼンされるようになっていったのである。
その頃、マネージャーの働きは今よりはるかに鈍重だった。メンバーは引き続き魅力的に躍動していたが、自身やグループを効果的にプレゼンするという意識の高いメンバーは少なかった。だが川村文乃は違った。彼女の日常的な言動は(最大の武器である土佐弁を除いては)決して派手なものではなく、あくまで自然体のまま、ヲタクが求める情報を整理し、発信していった。この点は喋りの強い船木結との分業が出来ていて、オーラルなプレゼンは船木の、リテラルなプレゼンは川村の担当という風に見えたものである。
そうした彼女の心尽くしは、確かに「有能」そのものであった。だが何よりも重要だったのは、彼女がアンジュルムというグループを、そしてメンバー一人一人を観察しその魅力を見出すことに長けていたということに尽きる。そして彼女がそうした俯瞰的な視点を持つことが可能になった理由として、自分はどうしてもあの加入動画を思い出してしまう。
本来加入動画とは、新メンバーにとってのイニシエーションである。幼少期の体験がその人の「世界」との関係性を決定づけてしまうのに似ていて、あるメンバーがどういう形でグループに加入したかは、そのメンバーのグループとの関係性を左右するのである。
だがあの時、グループのイニシエーションのベクトルは全て船木結に集中していた。一方の川村文乃はそれを十分に経ることなく、アンジュルムへの只中へといきなり飛び込んできた。思えば新人二人とアンジュルムメンバーの顔合わせシーンでも、上國料萌衣が駆け寄って出迎えたのは船木結の方で、奇声をあげながら大型犬のように駆け回る笠原桃奈に、川村は困ったような笑顔を浮かべるばかりであった。複雑な事情を抱えた船木の方にメンバーの意識が向かうのはやむを得ないことだったと思う(そんな中で川村にとって唯一ともいえる「イニシエーション」シーンとなったあだ名命名を率先して行った室田瑞希を、その後の川村は格別に慕い続けることになる)。室田が例外的な存在だったということで言えば、長いアイドル歴を背景に比較的年長で新加入した川村にとっては、当時のアンジュルムは佐々木莉佳子と笠原桃奈といった(厳密にいえば上國料萌衣も)「年少の先輩」ばかりで、それもまた、加入時の川村が「新人らしく」振る舞うことが出来なかったもう一つの理由かもしれない。
その結果、川村文乃はアンジュルムの中で極めて特異なポジションを獲得した。たとえば彼女は、アンジュルム史の節目節目で、熱くヲタクに物申すようなブログを書く役割を担うようになった。室田瑞希の卒業発表後、ざわつくヲタクを一喝するブログは、まさに彼女の「有能」さの「動」的側面だったと思う。それは和田彩花リーダー期であるなら、和田が引き受けていたようなスポークスマンとしての役割であったが、「背中で語る」タイプの竹内リーダー期には、サブリーダーたる川村がその役割を一手に引き受けることになったのである。そして何よりも、期の若い彼女がその適性と貢献度に応じて、サブリーダーを任されたという事実自体が、アンジュルムというリベラルな理念を体現するグループを雄弁に象徴していた。アンジュルムのヲタクは「かむちゃんをサブリーダーに選ぶようなグループ」だからこそ、自分の推しグループを誇りに感じたものである。
だがその一方で、竹内朱莉の卒業発表後、ヲタクの間で川村文乃をリーダーに推す声があがった時、自分は一抹の違和感を感じていた。その点については自分と意見を同じくする人も一定数存在していて、「かむちゃんはサブリーダー向きだ」とか「大将というより参謀タイプだ」とか、様々な意見があった。
だが、自分の感じた違和感の本丸は、おそらく彼女自身が抱き続けていた「アンジュルムに対する他者性」に尽きると思う。たとえば、三代目リーダーとなった上國料萌衣とは、川村文乃のアンジュルム愛の語り口は全く違う。上國料の場合は、彼女がもはやアンジュルムと完全に一体化しているがゆえに、そのアンジュルム愛は彼女自身の主観的な情緒として語られる。ところが川村の場合は、彼女がアンジュルムを客体として切り分けていて、アンジュルムの魅力が具体的でヴィヴィッドな形でプレゼンされるのである。
その違いについて自分が抱く仮説は、川村文乃はアンジュルムの中で他者性を維持し続けたのではないか、というものである。その理由が、イニシエーションの不十分さにあったのか、あるいは単にそこに象徴的に体現されていたのかは定かではない。だが、いずれにせよ川村文乃は「他者」であるがゆえにアンジュルムを効果的にプレゼンすることができる一方で、異質であるがゆえに熱狂的な単推しヲタクも付くことにもなった。そうした人気の質というよりも、コアなファンよりはアンジュルムヲタに幅広く愛されている「太陽のような」上國料萌衣とは対照的で、それは彼女が「アンジュルム」と不可分の存在だからであろう。リーダーを務めるべきはやはり彼女のような人なのだということを改めて思う。
川村文乃と同じような特異性を持つメンバーとしては、OGの中では福田花音の存在を挙げることができる。彼女は和田彩花と並ぶアンジュルムの「元勲」であり、山田社長も述懐するように、結成当時からグループに対するメタ視点を持ち合わせていた唯一のメンバーだった。彼女が1期と2期の間で「1.5期」的に振る舞ったことが、アンジュルムの平等主義的な文化を創り出したのだということは以前も論じた。だが福田は、スマイレージがアンジュルムに改名した途端にアンジュルムを去った。共同体の開闢者がその開闢とともに共同体を去るというのは実に民俗学的な寓話だが、そんな彼女の選んだセカンドキャリアが、「一見非アンジュルム的でありながら、実は誰よりもアンジュルム的であった」という逆説についても、以前論じたことがある(実際には「サブリーダー」という役職は彼女の卒業時に彼女によって制度化されたものだったが)。彼女もまた、生粋の「サブリーダー気質」だったのだと思う。
だが、川村文乃が福田花音と異なる点の一つは、(スマイレージではなく)アンジュルムの(制度化された)サブリーダーとして、五年半にわたる任期を務めあげた点にある。これは前任の中西香菜、竹内朱莉と比べても異例の長さである。しかも彼女たちとは異なる単独任期だったこともあり、もはや「サブリーダーといえば川村文乃」とも言える状況が生まれている。この長い任期の中で、川村はアンジュルムの裾野を大きく広げた。その広げ方は福田の構えと少し似ていて、平面的というよりは立体的なものであった。一見「アンジュルム的」ではないものをも包摂することが最も「アンジュルム的」であるという逆説を見事にやってのけたのである。
思えば川村文乃加入前後のアンジュルムというのは、今以上に「ウォーキズム」と揶揄されやすいグループであった。和田彩花は現在の彼女の活動に繋がる政治的メッセージを既に発信し始めていたし、アパレル担当の勝田里奈の言動は今よりもっと尖っていて、竹内朱莉の立ち居振る舞いはもっとあからさまにボーイッシュだった。佐々木莉佳子は今ほど明確に「地元愛」をアピールすることもなかったし、「りかみこ」のスタイリッシュな2トップはアンジュルム新時代の象徴であった。そして笠原桃奈は「赤リップ事件」で早々とアンジュルムの政治性のアイコンとなり、川村と入れ替わるようにアンジュルムを卒業していったのが、文化資本高めの相川茉穂だったことを考えても、川村が加入した頃のアンジュルムのパブリックイメージは今よりももっとソリッドに、都会志向、リベラル指向、グローバル指向だった。このことは本来土俗性の強いハロプロにあって、女性ヲタを中心とする新たなファン層を惹きつける一方、保守的なヲタクから「ウォーキズム」的揶揄を受けることも今以上に多かったのである。
ところが川村文乃は、グループの先進的なイメージとは真逆の先鋭性をアンジュルムに持ち込んでいった。それはアップフロントに元々備わっていた「SATOYAMA SATOUMI」的「なんちゃって」な土俗性をはるかに凌駕していた。すなわち自ら鉈を振るってカツオをさばく、「本気の土俗性」だったのである。それは、アンジュルムの中における川村の異質性の鮮やかな発露であった。こうして川村加入以降のアンジュルムは、グローバル指向に加えローカル指向(伊勢鈴蘭の伊勢コラボ)、都会志向に加え自然志向(橋迫鈴の爬虫類、川名凜の両生類)を導入していく。そして川村の徹底したサービス精神も相まって、保守的なハロヲタをも巻き込む形でアンジュルムヲタクの裾野を広げていった。アンジュルムは言わば、「共和党支持者にも支持される民主党」になったのである。
こうして多様なヲタクを糾合するきっかけを作り出した川村が、昨年「四国上陸」公演をめぐって、価値観の違うヲタク同士の論争の焦点となったのは決して不思議ではない。そして、その論争の落としどころが、彼女の「大岡裁き」であったことも自然な流れであった。
アンジュルムのファンダムは「価値観の共同体」であると自分は常々思うのだが、その場合の「価値観」はある種のメタ構造を伴う。何故ならばそれは、「様々な価値観を尊重するべし」という価値観だからだ。その価値観のことを、たとえば笠原桃奈は「BIG LOVE」と呼んだ。だが彼女の「BIG LOVE」があくまで普遍的な「友愛」であるのに対し、川村文乃の言葉はいつも切れば血が出るようで、それゆえにヲタクがより説得力をもって彼女の「愛」を感じることが出来るのだと思う。おそらく彼女の「愛」は本質的には普遍的というより、たとえば室田瑞希に向けられるような個別具体的なもので、時にそれが爆発すると先に挙げたブログのように血潮の迸る発信となっていた。かつて川村文乃自身が「アンジュルムと言えば笠原さんです」と述べたほど、アンジュルムのアイコンとしてグループと一体化していた笠原桃奈と比べると、やはり川村文乃の愛には「火が通って」いない、陸揚げされたばかりのマグロのように「生身」なのである。それもまた、川村文乃が自分自身をアンジュルムと切り分けていたからだと自分は思う。彼女はアンジュルムについて語る時は客観的だが、自分自身について語る時は極めて主観的で感情的なのだ。おそらくここが、彼女の「有能」さにおける「静」と「動」の分かれ目であり、「動」の彼女が醸し出す「生身」の息吹こそが、彼女の土俗性の「本気」を裏打ちし続けたのではないかと思う。
ただし、室田瑞希の卒業から数年の時を経た「四国上陸」のブログは、そうした「生」の鮮度を維持しながら、普遍的な「BIG LOVE」に匹敵するメッセージを持つものへと変化していた。
これは本当に、途方もない「成熟」だと思う。「成熟」と「馴致」は異なるものであり、後者を経た人間は、彼ら彼女らが本来持っていた生体エネルギーを失ってしまいがちだ。一方で真の「成熟」は決して本来の生体エネルギーを損なわない。その意味で川村文乃は、その加入によってアンジュルムを「成熟」させた。だがことが彼女自身に及んだ時、未成熟な「生身」が噴出することもあった(上述の室田瑞希卒業時のブログ以外には、加入当初船木結がMCの内容を予め仕込んでくることを初めて知り、「そんな発想は自分にはなかった…」と半泣きになる彼女の顔が忘れられない)。ところが数年が経ち、彼女は見事な「大岡裁き」ができるまでに成熟した。川村はアンジュルムを成熟させ、アンジュルムは川村を成熟させた。そして彼女がなおも「生」の熱を失っていないということが、彼女の卒業発表によって明らかになった。
川村文乃が卒業と芸能界引退を発表した日の彼女のブログは、「表示ツイートに最も重要な情報を全て凝縮する」という彼女が培ってきたスキルがふんだんに発揮され、しかもそれらが念入りにサムネ画像にも盛り込まれたものであった。すなわち「卒業しても芸能界に残ってくれるに違いない」というヲタクの望みを容赦なく打ち砕くものだったのである。まさに彼女の「有能さ」における「静」と「動」の集大成だな、と、自分などは思わずゲラゲラ笑ってしまった。
そして、その翌日の川村文乃のブログは、よりはっきりと彼女の「生身」が感じられるものであった。アンジュルムでは叶えられなかった夢があったからと言って、卒業後も芸能活動を続けるのではない。この点も「アンジュルムの申し子」であったはずの笠原桃奈とは対照的な選択である。
思えば、ここまで明確に「芸能界からの引退」を表明したメンバーというのはここまで存在しなかった。アンジュルムのOGのほとんどは卒業後も各々の道で芸能活動を継続し、常にアンジュルム本隊の周りで旋回する姿をヲタクは見ることができる。川村文乃に関しても、そうした「衛星」の一つになることを期待する向きがほとんどだったと思う。そうしたヲタクの期待を、川村は初手から容赦なく打ち砕きにかかってきた。笠原の選択は、それまでのアンジュルム卒業者の衛星軌道を、無限大規模にまで拡大したものではあるが、あくまで「同一平面上の」選択ではある。ところが川村の選択は、またしても「アンジュルムからの卒業」のあり方に、従来と異なる立体的な軸を持ち込んできたのである。
そんな彼女のやり方は、あえて言えば2017年夏、川村と入れ替わるように芸能生活を終了した嗣永桃子に近いのかもしれない。思えば嗣永桃子も、「カントリー・ガールズ」と「嗣永桃子」を明確に切り分けてアイドルを演じる「プロ」として知られており、まさに「プロ」としての熾烈さをもってアイドル人生の幕を閉じた。だが川村文乃の場合嗣永とは逆に、「アンジュルム」と「川村文乃」を明確に切り分けることで、「川村文乃」の血の通った人間性を前面に打ち出し、彼女のバックグラウンドにある土俗性を「アンジュルム」に加味したのである。そしてこの場合、川村と嗣永の違いを論じるよりは、アンジュルムとカントリー・ガールズの違いを論じる方が有効であるように感じる。その点について考える材料として、まず川村文乃がハロウィーンの日にXに投稿したポストを見てみたい。
上記ツイートを最初に見て以来、自分は彼女の意図についてずっと考えていた。まず最初に思ったのは、やはり彼女は自分自身に、「アンジュルム」と一体化しえない異物感を抱きながら活動していたのではないか、ということである。
そして、今この文章を書きながら思いついたのは、アンジュルムの本質とは「卒業」である、ということだ。アンジュルムの多様性の開花は、卒業してからが本番なのである。アンジュルムのメンバーは卒業することで本当に「アンジュルム」になるのだ。
我々は、少なくとも芸能人としての川村文乃の「開花」を、今後見届けることはできなくなった。だが、その代わりに今回彼女が見せようとしているのは、「アンジュルム」という花園のあり方を見せてくれるように思う。何しろ、彼女はアンジュルムに関しては超一流のプレゼンターなのである。そしてそのヒントは、川村が「アンジュルムの申し子」と位置付ける笠原桃奈の「皆さんもアンジュルムです」という言葉にある気がする。
ところで最近、X上の名物アカウントの一人であるアメリカ史研究者のオッカム先生と親しくさせていただいており、彼のポストに自分とのやりとりが反映されることがとみに増えている。最近では、たとえばこんなツイートがそうであった。
さて、自分がオッカム先生からこの話を聞いて真っ先に感じたのは、「なんだか笠原桃奈の言うアンジュルムみたいな話だな」ということであった。大統領だろうが一支持者だろうが一括で「Democrat」とか「Republican」だと言うのなら、「アンジュルムのメンバーだろうがヲタクだろうが、みんなアンジュルム」という話に通ずることになる。
アメリカというのは実に変な国で、かつて英国本国と切り離された植民地だったがゆえに、前近代以来の身分制の残滓が全く存在しない。と同時に、早々と宗主国から独立してしまったがゆえに、19世紀以降の欧州やその影響を受けた非欧州諸国が経験した変化を全く経験していない。そのため、18世紀末の革命期に生まれた近代的公共空間のあり方が、「生」のままで冷凍保存されているようなところがある。たとえば党員と支持者が区別されないということは、職業政治家と一般有権者の間に日本のような擬似身分的差異が存在せず、政治的公共空間が国民生活を覆う形でシームレスに広がっているということを意味する。
日本的な「公」は元々単に上位権力を意味するので、「公」によって用意された空間においては、私人が「個」を出すことは控えられなければならない。ところが欧米的公共空間の原型には、日本的「公私」の区分は存在しないため、欧米のストリートが大道芸人で常に賑わうように、欧米の公共空間は「個」の織り成すアリーナとなる。だがそうした空間の成立には重要な前提条件が必要となる。公共空間に参加するプレイヤーの間に、各々の「私」を致命的な形では侵害しないという前提が共有されている必要があるのだ。だが、その前提を維持することは難しい。たとえば今日のアメリカの「分断」は、そうした前提が二大政党各々の内部でしか成り立たなくなっているということなのかもしれない。
だが、そうした話はひとまずおき、アンジュルムに話を戻す。私がアンジュルムに惹かれた最大の理由は、「この人たちのやろうとしていることは近代的公共空間の再構築だ」と直感したことである。そしてここ数年、様々な場所でアンジュルムOGと触れ合う機会が増える中で、自分はその確信をますます強めつつある。勝田里奈の伊勢丹ポップアップを見に行った時は彼女がにこやかに話しかけてきたのでしばし世間話に耽ったし、夏のロッキンの客席が佐々木莉佳子がヲタクと仲良く話していたので、思わず手を振ったら大きく手を振り返してくれた。彼女たちの笑顔からは、同じ空間を構成する者として、ヲタクを心から信頼してくれていることが伝わってきた。こうして、やはり笠原桃奈の言葉というのは噓ではないな、と実感することが増えていった。
ところがそういうことを繰り返しているうちに、「アンジュルムのヲタク」としての自分のモチベーションはますます下がっていった。アンジュルムのことは相変わらず素晴らしいと思うのだが、「ヲタク」としての活動が、何だか論理的に間違っているように思えてきたのである。アンジュルムの方が、「皆さんもアンジュルムです」と言っているのに、何故ヲタクの方がいつまでも「ヲタクとしての線引き」を続ける必要があるのか。
誤解を招かないように付言すれば、自分は「線引き」そのものを取っ払ってしまえ、と言っているのではない。何故ならばその線引きは、「アイドルとヲタク」の間ではなく、「個と個」の間に引かれるべきものだからである。互いの間にその線引きが存在し、互いを尊重し合うという前提が存在するからこそ、互いの個を安んじて発揮し合うことができる。そして欧米における「友愛」という革命の理念は、実のところ革命前の「隣人愛」というキリスト教精神を換骨奪胎したものである。だとすれば自分もまた、「アイドルとヲタクの間の線引き」という革命前の敬虔を、「個と個の間の線引き」として再解釈すべき時期に差し掛かっているのではないだろうか。
そしてそうした自分の仮説は、川村文乃自身が直近のブログで、完璧に裏付けられたようである。
川村文乃は芸能人を辞めることで本当に「アンジュルム」になる。だとすれば、芸能人だろうとそうでなかろうと、「アンジュルム」であることは論理的に可能になる。川村は笠原桃奈の言葉を論理的に裏付けようとしてくれている。芸能人を辞めることで、全ての人間が「アンジュルム」たれることを証明しようとしてくれているのだ。
それは、「アンジュルム」と「川村文乃」を常に切り分けてきた彼女にしか果たせない役割だと思う。彼女は「公共的なプレゼンテーション」という意識をアンジュルムに与えながら、「川村文乃」の生身によってアンジュルムという公共空間の裾野を広げ続けた。そして最後に、その裾野を無限に広げる一手をも打ってくれた。
そう考えると川村文乃のアイドル人生は、もしかしたら我々ヲタクが「アンジュルム」になるための壮大なイニシエーションだったのかもしれない。少なくとも自分にとってはそうだった。自分は八年間のヲタク人生をかけて、彼女の「行きて還りし」物語を見届けることになった。もうこれで十分だろう。自分もアンジュルムのヲタクを卒業し、次に進むことを決めた。ただし、(あえて名前は挙げないが)あと一人だけ絶対に見送らなければならないメンバーが残っている。おそらくは近々、彼女が卒業する瞬間を、自分の「卒業」の時と定めることにした。
ことほど左様に、八年という歳月が経てば、自分のように代謝率の悪い老兵でもそれなりの変化はある。川村文乃のように若くて優秀な人ならなおさらのことだが、それはまたアンジュルムについても同じである。
川村文乃は彼女自身が実感するよりも早く、とっくにアンジュルムになっていた。彼女が彼女自身であり続けながら、アンジュルムのために動き続けたことで、アンジュルムはとっくに彼女を含む形へと変化していたのだ。
アンジュルムという存在とは、「アンジュルム」になろうとしてなれるものではない。人が「己自身」であり続けながら成熟を果たすことで、人は「アンジュルム」になれる。そう考えると、川村文乃は実のところ最も「アンジュルムらしい」メンバーであったと言っても過言ではない。そして最も「アンジュルムらしい」形で広い世界へと旅立っていく。
だとすれば、彼女はこれまでアンジュルムを変えたように、この世界を変えるために旅立つのかもしれない。だが、そのためにはまず、人々を「アンジュルム」へと変えなければならない。そしてヲタクという幼獣を立派な成獣に育てるために、親獣はいつしか子獣の前から姿を消す。川村文乃のやり方はいつでも徹底している。そして、彼女の言う通り、彼女の夢の大きさをなめたらいかんのである。
追記
さて、アンジュルムのOGの中で、この世界を変えるために率先して多彩な活動に身を投じているのは、言うまでもなく和田彩花である。
今思い出したのだが、あれは川村文乃が加入するまさに直前のことである。2017年5月のアンジュルム武道館公演「変わるもの 変わらないもの」、川村という臥竜をまだ得ていなかった武道館公演をめぐる事務所の宣伝活動は、相変わらず鈍重なままだった。そこで和田彩花が手描きの宣伝チラシを作ってTwitter上に放流、するとヲタクがそのチラシをどんどん加工して、瞬く間に見映えのするものへと作り替えていったのだ。誰かのアクションを受け止めた上で次のアクションを重ね、メンバーとヲタクが協働して空間を築き上げていく様を見て、自分は「アンジュルムとは近代的公共空間の再構築である」という自分の確信を新たにしたものである。
アンジュルムOGの卒業後の進路は多様だが、それに呼応するようにアンジュルムのヲタクも多士済々で、様々な分野の人間がいる。そうした各々の得意分野とアンジュルムOGの発信力が力をあわせれば、ファンダムを超えたインフルエンスを持つことができるのではないか、と自分は予々思っていた。
そしてこの度、来たる12月7日13時から、ありがたいことに和田彩花がそうした自分の思いに応えてくれる企画が催されることになった。
本企画は、和田彩花率いるLOLOETと、演劇メソッドを用いたコミュニケーションワークショップを主宰している林拓郎氏のコラボレーション企画である。アンジュルムのヲタクでもある林氏は、劇団が心理的安全性に基づく一つのチームとして機能していくために行われてきたワークショップを、自由闊達なコミュニティ作りを目的とする一般向けのワークショップへと応用し、氏曰く「皆がアンジュルムになること」をサポートする活動に邁進している。そしてそのワークショップは、まさにあのチラシがヲタクの手で次々にアップデートされていったのに通ずる「Yes, and」の精神を涵養するものである。
そしてこの度は、LOLOETで和田彩花が試みている実験性、即興性の高い表現と演劇ワークショップのコラボということで、以前からこの話を聞いている自分自身にも、どんなものが飛び出すか全く分からない。そしてこの企画が、アムネスティの人権週間イベントの枠で行われることになったはこびは、実はこの川村文乃アドカレ企画の主催者である Akari さんのご尽力である。「アンジュルム」という空間を江湖に開かれたものにしていくという働きにおいて、やはりヲタクは推しに似るものなのだ。
そんなわけで12月7日には、可能な限り多くのアンジュルムヲタクの皆さんに足を運んでいただけることを願っている。ワークショップの参加枠には25人程度という定員があるので、ワークに参加したい方は下記フォームからご登録いただければと思うが、何が起こっているか外側からご覧になるだけならば、飛び入りでも大丈夫だそうです。
そんなわけで、今回の機会が「アンジュルム」という空間を開かれた形で活性化していくためのよいキックオフになればいいと自分は思う。そうした営みを続けていけば、いつかまたあの日と同じように、扉が開くかもしれない。そして和田彩花は、全速力で「アンジュルム」へと飛び込んでくる彼女に向かって再び叫ぶだろう。
「走ってきた!」と。