
阿修羅の偶像(アイドル)第1章第2節
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街道はやがて駅の近くで踏切を渡り、線路の南側を東西に走る都道に突き当たった。右に曲がると、左手に「ガンダルヴァ」と書かれた看板が見える。店の前に置かれた灰皿の傍らでは、店の名前のついたエプロンをつけた店員らしき太り気味の中年男性が、気怠そうな顔でスマホを弄りながら煙草をふかしていた。
「あの、すみません……」
保(たもつ)はおずおすとその男に話しかけると、ぎょろりと睨み返された。保も人のことは言えないが、客商売とは思えないほど目つきの悪い男である。
「羅睺院(らごういん)の者ですが——」
すると男はドアをガチャリと開けて勢いよく「ファルーク!」と叫んだ。
「どうぞ」
「は、はい」
保にドアの取っ手を渡すと、男はまたスマホの方に視線を落とし、親指で画面をタップし始める。
「はいはい、どーもどーも」
店の奥からファルークと呼ばれた男が走ってきた。浅黒い肌に大きな目が特徴的な、インド・イラン系の顔立ちだ。
「あなたが和尚さんとこの新入りだね。どうもご苦労様」
ファルークさんは愛想よく笑いながら、保の運んできた大皿を受け取る。年の頃三十くらいだろうか、濃ゆい顔立ちに慇懃な物腰、まくった袖から垣間見える剛毛も相まって、同じ外国人といっても、バルナとは全く異なる印象である。
「美味しかったですか?」と、ファルークさんが聞いてくる。
「はい、とても……」と答えはしたが、昨夜は正直それどころではなく、あまりきちんと味わえなかったことを保は申し訳なく思いながら、
「あ、それでお昼ご飯いいですか?」
そう言って保が立てた二本指を見て、ファルークさんは怪訝な表情を浮かべた。
「お二人、ですか?」
と、ファルークさんが返した途端、保の後ろでバルナが口を開いた。
「お前が乾闥婆(けんだっぱ)か?」
声の方を見たファルークさんは、大きく目を見開いてしばらくバルナを凝視した後、「ブラボー!」と叫び、
「和尚さん! グッジョブ! おい、ナラキン!」
ファルークさんは店の外で二本目の煙草を吸い始めた中年男に駆け寄っていく。
「お客さんだよ! アッチャカレー、二つ作ってくれ!」
「二つ?」
「ナラキン」と呼ばれた中年男は、怪訝そうな顔で煙草の火を揉み消しながら店の中に入ってくると、保の方を見て、
「お客さん、確かにガタイは良さそうですが、うちのカレーは無駄に量が多いですよ。一人で二杯も食えますかね?」
「あ、あの——」
「お前が緊那羅(きんなら)だな?」と、またバルナが口を開いた。しかしナラキンさんはバルナの問いかけには答えず、相変わらず保の方を凝視している。
「あとでゆっくりこのお客さんと話したいんでね」
そこで、ファルークさんが口を挟む。
「二杯目は私が食べる用よ」
「あ、そういうことね」
ナラキンさんはようやく納得した顔になって、厨房に入っていった。その様子を見送りながら、ファルークさんは悪戯っぽい笑顔を浮かべて、
「あいつの名前は奈良原欣也、『ナラキン』と呼べば振り向くけど、『緊那羅』じゃダメですね」
「なるほど」
バルナはにんまりと笑い、
「あいつも事情をよくわかっていないクチか。いいだろう。面白いからしばらくあのままにしておこう」
「王子様も人が悪いね」
ファルークさんはそう言って親指を立てると、鼻歌を歌いながら舞うように店の奥へと歩いていき、
「それにしてもめでたいね! 今日は全人類にとって記念すべき日だよ! 人類はこの日この時から大いなる進化を遂げる! こういう時は、」
テーブルに置かれているノートパソコンの音楽プレーヤーをカチャカチャといじり、「Shangri=laしかないね!」と言いながら再生ボタンを押した。
「ん?」
イントロの電子音が流れ始めると、バルナが怪訝な顔で店を眺め回す。
「どこかに楽師どもがいるのか?」
「王子様、こちらでは、」
ファルークさんが、さもありなん、という顔で口を挟んできた。
「楽師どもの奏でる音曲を録音して、後で再生するという技術が発達しているのですよ」
「まことか? では、どこでも音曲を楽しめるということか」とバルナは目を丸くしている。
21世紀近未来育ち 私たちに
やがてイントロが終わり、女の子の歌声が流れ始める。
GPS テルミー 確かな現在地 迷わないように
すぐに違う女の子の声になった。フレーズが移るたびに声が変わっていく。どうやらアイドルグループの曲のようだ。
本音を公開 いさかいに後悔 後の祭り
自分を探し 超自我探索(スーパーエゴサーチ)
特定できてない
バルナは軽く体を揺らしながら、興味深げに曲に聴き入っている。
いじわるな地球(ほし)よ
資源も自然も全部用意しといて
一番欲しいもの よりにもよって
はぐらかし続けてるのね
愛のため今日まで進化してきた人間
なのになぜ寂しいの?
(Lonely Lonely Lonely Night)
何のため生きて
誰のため生きていこうと思うのでしょう?
愛のため今日まで進化してきた人間
早く私を見つけてよ
高速電波 飛んでないところでも
見つけてほしいの
「王子様はリズム感が素晴らしいようで」
ファルークさんが慇懃な笑みを浮かべながら口を開く。
「音曲を嗜まれておられるのですか?」
「女子のやることだ」と、バルナは例によってにべもない。
「男子はそれを聴くだけで十分。我々が精進すべきは体術のみ」
と、そこでバルナは何かを思い出したような顔で保を見つめると、
「しかし、お前は聞きしに勝る大力の者だな」
「え?」
「さっきはバルナが思いついた体術を、いとも容易く破りおって」
「ロメロは足のフックが弱いんですよ。そこを外して足元を崩せばいいんです」
するとバルナは身を乗り出し、
「ロメロ? ロメロというのか? 人道にあの技があるということか」
と目を輝かせる。ロメロスペシャルは別名「釣り天井固め」とも呼ばれる派手な技で、かける側とかけられる側の暗黙の了解の上で見せる「エンタメ」としての要素が強い。保はプロレス同好会に入りたての頃、空気を読まずにロメロを外してしまい、よく先輩に怒られたものだ。
「足元を崩せば、バランスが崩れて一瞬手の張りが緩みます。その隙に手を振り払うんです」
「……なるほど。さすがはヤクシャ。勉強になる」
バルナは興味深げに頷くと、すぐに悪戯っ子のような笑みを浮かべて、
「ならば、両足を両手でしっかり押さえればよい、ということだな」
「……でも、それだと、」
保は少し言葉を躊躇する。あまりにも当たり前過ぎて、自分が馬鹿げたことを言っている気がしたからだ。
「肝心の両手を……フックできなくなりますよね……」
「手が二本しかなければ、な」
バルナはそう言ってニヤリと笑う。
愛のためすべて退化してきた人間
なのにまだ寂しいの!
(Love me, Love me, Love me Now)
何の意味あって
誰かを傷つけ、傷つけられるのでしょう?
愛のためすべて退化してきた人間
今すぐには逢えないよ
始発電車 動き出さなくては・・・
逢いにいけないよ
「この曲はいい曲だけど、アレンジの詰めが甘いんだよな」
話し込んでいるうちに曲が終わると、厨房でナラキンさんがボソッと呟いた。するとファルークさんがふっ、と鼻を鳴らして、
「めんどくさい楽曲ヲタだね」
「一事が万事だよ。詰めが甘いのは楽曲だけじゃない」
ナラキンさんが目を剥いて反論する。
「あの事務所は全てにおいて詰めが甘い。だいたい『Shangri=la』って名前からしてそうさ。何でグループ名に『=』を入れるかね? 『=』はハッシュタグに入らない記号なんだよ。Twitterでバズらせようって時に、えらいマイナスだよ」
ナラキンさんは何かのスイッチが入ってしまったようで、ものすごい早口でまくし立てる。
「今はレイヤが卒業してグループが大きく変わっていく大事な時期なんだ。事務所にはもっとしっかりしてもらわないと」
「まあ、大丈夫よ。Shangri=laは」
ファルークさんは小さくウインクすると、
「レイヤが作り上げたグループよ。私は全く心配してないよ。それより気になるのはレイヤの方だよ」
「レイヤねえ……もう一年音沙汰ないからなあ……」
ナラキンさんは大きく溜息をついた。
「まあ、頑張って勉強してるとは思うけどな……いや、俺はね、レイヤがもう一度表に出てこない限り、この暗い世の中は変わらないとすら思ってるよ。レイヤこそがこの末法の世を終わらせる弥勒だよ、ほんと」
「カカッ」
その時、バルナの口から乾いた笑い声が漏れた。
「おい、乾闥婆」
バルナはファルークさんに皮肉な笑みを向けると、
「緊那羅は何を言ってるんだ? 聞けば女楽師風情が弥勒だと? お前たちの仏法、だいぶたるんでるんじゃないのか? この有様じゃあ涅槃で釈尊も泣いているぞ」
「おそれながら王子様」
ファルークさんの目が一瞬鋭く光った。
「王子様もすでにご覧になった通り、像法(ぞうぼう)入りより二千年、人道の文化文明は著しく進化しております。女性が弥勒として現れることも、ありえないことではないかと」
「『進化』?」とバルナの顔に嘲りの色が浮かぶ。
「末法に『進化』などあるものか。その後末法入りより一千年、人間どもはかくも『退化』したということよ」
「末法は確かに『退化』の時代ではあります。しかし王子様、人道の者どもを甘く見てはいけません。人道のうち心ある者たちは、」
ファルークさんはバルナをまっすぐに見つめて言った。
「次なる正法(しょうぼう)の世に向けた『進化』を、既に始めているのです」
「ほう」
バルナは目を細めると、挑発的な笑みを浮かべてファルークを睨み返す。一触即発の空気が漂い、保は思わずごくりと喉を鳴らした。
「出来たよ」
その時、ナラキンさんがカレーを運んできた。ファルークはそれを見てにんまりと笑い、
「さて、王子様、こちらが当店自慢の『アッチャカレー』にございます」
「何?」
バルナの目が鋭く光る。
「婆羅門(バラモン)教に日和った貴様ら天衆が、牛の肉を使うとは珍しい」
「この乾闥婆、ここ近年は拝火教徒にござりますれば、牛の肉は禁忌ではございません。ここ日本ではビーフカレーの出せるインド料理屋はブルーオーシャン。何かと都合が良いのです」
「噂通りの風見鶏だな、乾闥婆」
バルナは苦笑を浮かべると、カレールーを一匙掬い、口に運ぶ。
「だが、」
やがてバルナは目を閉じ、押し殺すような声で言った。
「अच्छा」
「はい」と、ファルークさんは満足げな表情を浮かべ、厨房に入って行った。
「あの、バルナさん」と保が口を開く。
「『バルナ』でよい」と、バルナが返した。
「お前はバルナと一心同体。敬称などまどろっこしい」
「……じゃあ、バルナ」
「なんだ?」
「『アッチャ』ってどういう意味だ」
「……『अच्छा』か?」とバルナは保を見ずに言った。
「『美味い』という意味だ」
バルナは保の質問などそっちのけで一心不乱にカレーを食べ続けている。どうやらこの異国の王子はやたらに気が強い一方で、とりあえず食べ物を与えておけば容易くご機嫌取りができる単純なところがあるようだ。やがてバルナは保の方をちらりと一瞥して、
「どうした? お前は食べないのか? こんなに美味いものを」
「いや……蘇摩が……」
このカレーにもふんだんに蘇摩が使われているようなのだ。昨夜の記憶のせいで、どうやら蘇摩は保のトラウマになってしまっている。
「蘇摩の強さは、牛の強さによって相殺されるから、心配は要らないよ」
ファルークさんが水差しを持って戻ってきた。二人のグラスにトクトクと水を注ぎながらファルークさんは、
「強すぎるアッチャは人を損なうから、他のアッチャによって中和すればいいのよ。すなわち両者共存。あ、いらっしゃいませー」
そう言って、新しく入ってきたカップル客のもとに駆け寄っていく。
「体が熱い」
その時、バルナがぼそっと呟いた。
「すごい、腹の中が燃えるようだ。こんなことは初めてだ」
バルナは目を輝かせながら一心不乱にカレーを掻っ込んでいる。その様を見て、保は何やら微笑ましさを覚えた。
「そんなに勢いよくかっこめばそうなるだろ」
「我々の世界では、食べたものは喉元で灰の味になってしまう」
「え?」
保は耳を疑った。またしても、バルナの言うことがよくわからなかったのである。
「だから、こんな感覚は初めてなんだ」
その時、店のドアが開いた。入ってきたのは現場作業着を着た浅黒い肌の、小柄な外国人の若者である。
「お、スシル——」
若者に声を掛けようとしたファルークさんの表情が、次の瞬間にこわばった。続いて入ってきたのは、同じ作業着を着た日本人の中年男である。
「これ」
中年男は憮然とした顔で、手に持っている包みをかざす。
「何?」
ナラキンさんが中年男を睨みつけた。
「『何?』じゃないよ」
中年男も喧嘩腰で応じる。
「うちの社長は辛すぎるの苦手なんだよ。こんな辛いのとても食えないんだよ。早く交換してくれ」
「は?」
ナラキンさんが顔色を変えた。
「それはそっちの注文間違いだろ!」
ナラキンさんは声を荒げた。その瞬間、店に入ろうとした新しい客が、慌ててドアをパタンと閉める。
「さっきおつかいに来た時、スシルは確かに『並』って言ったんだ!」
ナラキンさんはメニュー表を指差して叫ぶ。保も手元のメニューを確認してみたが、そこには「激辛・中辛・並・なし」と書かれている。
「ふーん……ってことは、」
中年男はスシルをじろりと見た。
「お前が間違えたな……」
スシルは目を見開いて狼狽している。日本語はあまり理解できていないようだが、自分が責められている、ということはわかるのだろう。その様を見て意地悪く目を細めた中年男は、冷たく言い放った。
「カレー代は、お前の給料から引いとくからな」
「何でそうなるんだよ!」
ナラキンさんが再び声を荒げる。それに合わせて、さっき入ってきたカップル客の女の子がびくりと背中を縮めた。
「スシルはまだ日本語もよくわかんないんだ! あんたの指示がまずかったんじゃないのか? 少しは考えてやれよ!」
ナラキンさんの言う通りだな、と、保も感じた。「並」と「なし」では色々な意味で間違えやすい。日本語もまだよくわからないというのなら、なおさらの話であろう。
「どうした? 騒がしいな」
また戸が開き、スーツ姿の男が入ってきた。年の頃四十ほどか、細身の優男である。その瞬間、それまで目を細めて事の成り行きを見守っていたバルナの眉がぴくりと動いた。
「社長!」
中年男は優男のもとに駆け寄ると、ことの次第を説明し始めた。やがてすべて聞き終わった社長は、ポンっと中年男の肩を叩いて、
「まあ、カレーの一杯くらいでケチケチするな。今回は運が悪かった。それでいいだろ。スシルも、」
そう言ってとってつけたような笑顔をスシルに向けると、
「次からは気をつけるんだぞ」
「だから!」
ナラキンさんがまた声を荒げる。
「何でスシルが一方的に悪いことになるんだよ!」
「ナラキン!」
ファルークさんが痺れを切らして一喝した。客商売の手前、店員が無闇に怒鳴り散らすのは確かにまずい。が、ナラキンさんの言うこと自体はもっともだ、とは保も思った。
「店長、色々とお騒がせして申し訳ありません」
社長はファルークさんに向かって慇懃に頭を下げると、
「昨日からまた、東京都の緊急事態宣言が延長になりました」
そう言って、マスクをだらしなくつけ崩したナラキンさんの口元を一瞥し、
「感染対策の方は、引き続きしっかりお願いいたします」
「そのつもりです」とファルークさんは応じる。
「ところで」と言って、社長は顎に手を当てると、
「閉店時間の方は、しっかりお守りいただいているでしょうか? 何でもうちの実習生たちが、閉店時間後にこの店に集っているという話を聞いたもので」
「仕事が終わった後、彼らが夕飯を食べられるところが全て閉まってしまうので、」
そう言って、ファルークさんは敢然と社長を見つめる。
「あくまで個人的に、彼らに夕食を振舞っているつもりです」
「同胞たちへの店長の優しさには感じ入ります。しかし、日本人と衛生観念が異なる彼らがあまり『密』になる状況を作るのはいかがなものでしょうか。せっかくコンビニなどもたくさんあるのですから、ね」
その言い草に、保は猛烈な反発を覚えた。社長の言葉遣いは丁寧だが、声音にゾッとするような冷たさを感じる。まるで彼らにはコンビニで十分だとでも言いだけな物言いである。保もコロナ禍になってこの方、夜のバイトの後、店がことごとく閉まってしまい、苦労してきたクチなのだ。それに、社長の貼り付いたような愛想笑いにも嫌な既視感を覚える。周囲の誤解からトラブルに巻き込まれがちだった保を、自分たちの保身のために切り捨ててきた連中がよく見せていた表情だった。
「……あんたも市議会議員なら知ってると思うけど、」
すると、ナラキンさんが懲りずに口を挟んできた。
「青海市の感染者数は、ここまでゼロなんだぜ」
——そうなのか……
ナラキンさんの今の言葉には保も驚いた。そう言えば今まで東京都の感染者数は毎日のように目にしてきたが、自治体ごとの感染者数を知ることは少ない。青海市は東京都の西の外れにある。ありえない話ではないのかもしれない。
「はい、存じております」
社長は、一瞬かしこまった顔でそう答えた後、一瞬狡そうに目を細めると、
「しかし、我々が住んでいるのは青海市である以前に、東京都であり、日本なのです。外国人の皆さんにも、そのことをご理解いただければ幸いです」
そう言って、社長は小さく頭を下げ、「では、失礼します」と店を出ていく。それを見たバルナが、
「見つけた」
そう言って、すっくと立ち上がった。ぎょっとして「おい」と呼びかける保に、
「後で手を貸してもらう。それまでしばらく寺で待っていろ」
と言い残して、バルナは社長たちに続いて店を出ていく。
「おい、どうしたんだバルナ!」
バルナを追おうとする保を、ファルークさんが掌で制して言う。
「今は王子様にお任せを」
「え?」
ファルークさんの言葉に保が目を白黒させている間に、バルナは路肩に駐車していた社長たちの車に乗り込み、行ってしまった。
「って、何やってんですか、あいつは! どうしよう……自分、先生にあいつの世話を頼まれてるんですよ……」
「気になるなら、和尚にことの次第を話せばいいよ」
そう言って、ファルークさんはにんまりと笑い、
「きっと、大喜びするから」
「何でですか? まあ、いいです……とりあえず、寺に戻って先生に話します」
そう言って、荷物をとるためにいそいそと席に戻ったところで、保は目を見開いた。
テーブルの上に、一口も口をつけられていないまま、バルナのカレーが残っていたのである。
「……何で……?」
「だから言ったでしょ」
後ろからファルークさんが近づいてくる。
「そのカレーは、後で私が食べるって」
そう言って、ファルークさんはポンっと保の肩を叩いて去っていった。あまりに奇妙なことが続くので、保の頭は完全に混乱してしまっている。
その時、隣の席のカップルの会話が保の耳に入ってきた。
「さっきの人、こないだの選挙で頑張ってた議員さんだよね」
「良さそうな人だよな。俺、投票したもん」
「それに引き換え、あの店員、感じ悪いよね」
「ほんとキモいよな。日本に来て日本語喋れない方が悪いだろ」
「この店、ちょっと不安になってきちゃったな。もう出ない?」
「俺もそう思ってた。そうしよそうしよ」
二人はそのまま立ち上がり、レジの方へと歩いていった。

寺に帰り、話を保から聞くや、
「はっはっは、それは早速面白くなりそうだ」
先生はそう言って愉快そうに笑い始めた。
「あの店、最近厄介な連中に目をつけられてるんだよ。お前さんが見たのは高坂建設の連中さ。先代の社長は割とまともだったが、二代目がどうもキナ臭い奴でな。東青海駅南口の再開発にあの店が邪魔なもんで、色々と小狡い嫌がらせを仕掛けてくる。今回も見事な『犬笛』だな」
先生は感心しきりと言った様子で頷いている。
「『犬笛』?」
「見てくれの良さと口先の巧さで市議会議員に当選するような男だ。排外主義的な会派に属しているくせに、会社は海外からの技能実習生をこき使ってる。排外主義メッセージをアピールしたいが、表立ってそれを口にするわけにもいかない。だから暗にそれを匂わせる。『犬』にだけ聞こえるような『笛』を吹くってわけだ。今回は自分とこの実習生たちを泳がせて閉店後のあの店に集まらせてから、客の集まる時間帯を狙って店に行って、客の前でそれを指摘したのかもな。そうすれば責任は自分たちにはなくて店のせいだと印象づけられる。実習生の無能さを印象づけるため、あえて実習生に不十分な指示を出してカレーを買いに行かせたかもしれない。何であれ、やつにしてみれば一石二鳥だ。犬笛を吹いた上に、店の評判も上手く貶めれば、地上げにも一歩近づく」
「……ひどい……」
想像通り、保が一番嫌いなタイプの小狡い連中である。全身が総毛立つほどの憤りを感じた。すると、先生はやるせなそうに頭を振りながら、
「だが、奴さんは狡猾だ。やってることは理不尽でも、絶対に穏便な態度を崩さない。そりゃ言ってることはナラキンの方が正しいさ。でもナラキンがやつの理不尽にキレ散らかすほど、『ミス』に寛容な上司の『人格者』ぶりが際立ち、その指示のまずさは目立たなくなる。物事の筋が分からない人間は、主張の内容ではなく、それがどういう口調で語られているかだけを問題にしがちだ。理不尽なことを穏やかに語るやつは、そうやってまともな人間を泥沼に陥れていく。まともな人間は理不尽に対して怒れば怒るほど、その怒りによって周りの支持を失っていくんだ。いやはや、困ったもんだな」
そう言って先生は苦笑する。それを見た保は目を剥いて叫んだ。
「笑い事じゃないですよ! そんなろくでもない連中のところに、バルナは自分からついて行っちゃったんですよ! 何をされるかわかったもんじゃないでしょ!」
そこで保はハッと口に手を当てた。先生が両耳を手で塞いだのを見たからだ。
「……すみません。つい……」
保は肩をすぼめる。すると先生は「いい声だ」と苦笑しながら頷くと、不意に真顔になり、
「古代アナトリアに、ゴルディアスという名の王あり」
そしてにやりと口の端を緩め、続ける。
「この王、王位についた時に神に感謝を捧げるため、牛車をミズキの樹皮で出来た丈夫な紐でしっかりと柱に結びつけ、『この結び目を解いた者が、四海を統べる大王となるであろう』と予言したそうだ。その後幾多の者がこれを解こうと試みたが、誰一人として成功することはなかった。さて、この結び目、誰がどのようにして解いたのだと思う?」
「……いい加減にしてください……」
保はつとめて押し殺した声で言う。
「また、そうやってはぐらかすつもりですか……」
「……そうだな」
先生は、少し反省したように一瞬肩を竦めると、
「思わせぶりなことを言うのはここらでやめにしよう。お前さんも既に十分すぎるほど不可思議なものを見てきたはずだ。だが、その理由を今俺が話してもにわかに信じがたいだろう。だから、ここから先は、自分で考えてみるがいい。まずは王子様に言われた通り、しばらくお呼びを待て。そしてその時見えたものを、点を、線にしてみるんだ。そうすれば、あの王子様がやつらについて行っても俺がヘラヘラ笑っていられる理由もわかるだろう。いいかい、お前さん」
そう言って、保の目をまっすぐに見つめた。
「お前さんの目に見えるもの、手に触れるものが、全てだ」
幸いにして、寺男としての仕事は探そうと思えばいくらでもある。まずは本堂の周りの板を原状復帰させた後、保はとりあえず境内の掃除でもして気を紛らわすことにした。だが、どうしてもバルナに関する不安を振り払うことはできなかった。
確かに不可思議なことは既にいくつも起きている。耳に聞こえる鬼の哭き声、今朝見た池の彼方の景色、彗星のごとく現れたバルナの謎めいた言動、そして一口も食べられずに残されていたカレー……だが、それらの「点」をどうやって「線」にしろというのか——
「そろそろ夕飯ですよ」
声にハッと我に返ると、境内は既に夕闇に包まれている。
「お掃除も適当なところで切り上げないと、切りがないですよ」
振り返れば沙羅が腰に手を当ててこちらを見ている。保は「そうですね」と言って、箒を用具入れに仕舞いに向かった。すると沙羅が問う。
「バルナはどこにいるんですか?」
「あ、あの……しばらく……一人で街を歩いてみたいっていうので、途中で別れました」
「え?」と沙羅は目を丸くする。
「大丈夫なのかなあ? 迷ったりしないのかな?」
「……先生がスマホは持たせてるんで……何かあったら連絡が来るはずです」
「そうなんだ。いいなあ。バルナの連絡先、あたしも欲しい」
沙羅はそう言って仄かに拗ねた表情を見せると、
「じゃ、片付け終わったら炊事場に来てください。あ、あと、その……」
沙羅は少しはにかむような顔になって、
「叔父さんに聞いたんだけど、あたしとタメなんだって?」
「あ……そうなんですか……」
保は少し驚いた。沙羅は年よりも幼く見えることもあって、一つ、二つ下だとばかり思っていたのである。
「あたし、少し歳上だとばかり思ってて。よかったら、これからタメ語にしない?」
「あ……わかりました」
「まだ敬語だよ」
沙羅は小さく笑うと、足早に母屋に入っていく。その後ろ姿を見ながら、先生の入れ知恵とは言え、沙羅に小さな嘘をついた後ろめたさを感じていた。バルナが沙羅の「アイドル」なのだとすれば、確かに要らぬ心配はかけさせない方がいいのだが……
しかし、と保は頭をかく。保にはタメ語で気軽に話せるような女友達もほとんどいない。沙羅が打ち解けようとしてくれているのは有難いが、どうにもむず痒い気持ちを覚えてしまう。
そういえば——
保は、ふと思い出した。昼間、バルナは今の沙羅と同じことを保に言ったのだ。自分に敬語は使わなくてよい。何故なら自分たちは一心同体なのだからと——
その時、保の体が地面に崩れ落ちた。