
阿修羅の偶像(アイドル)第2章第5節
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うたた寝から目覚めると、咲良の体は寝汗でびっしょりだ。
この前の夢ではいまいち確信が持てなかった。だが、今回ははっきり分かる。あれは確かにあの街だ。そして、あれはあの寺なのだ。
咲良は手元のスマホを手に取り、台場の番号に電話をかける。出ないのは分かっていた。悪い予感が線となって繋がっていく時は、だいたいこういうものなのだ。
-ーさて……
むなしく呼び出しを繰り返すスマホを見つめながら咲良は考えを巡らせる。今夜は顔馴染みのライターとちょっとした打ち合わせがある。だが、決して喫緊の案件ではない。普通の社会人の感覚ならば実にふざけた理由でキャンセルすることになるが、人生には時々そうしなければいけないタイミングがある。そして、そういうタイミングがどういう時なのかを見極めるために咲良は音楽をやっているようなところもある。音楽は決して魔法ではない。だが、人知を超えた大きなものを見極める勘所を育ててくれるのだ。
咲良は意を決して台場へのコールを切ると、牟佐リンダのホームページを改めて検索して表示させる。自分としたことが何故気づかなかったのか。トップページに散りばめられた風景画像は、確かにあの寺のものだった。
続いて咲良はライターの番号を呼び出した。付き合いの長い彼ならば分かってくれるだろう。咲良は行かなければならないのだ。自分が生まれ育った、東京の外れの街に。
虫を水天像の前に置いたところで、保(たもつ)の視界が切り替わった。目の前には、茜色に染まり始めた空が広がっている。
保は上体を起こして周りを見渡した。隣で倒れている沙羅も目が覚めたらしく、もぞもぞと体を動かしている。保はもう一度空を見上げ、そのまま社の方向に視線を落とし——
あんぐりと口を開けた。
空からまっすぐに社のあたりに向けて、オーロラのような巨大な虹色のカーテンが降りているのだ。
保は身を震わせながら、社の方に向かった。橋のたもとまで来ると、社の中の水天像を覆い包む虹のカーテンの前で、直立不動の姿勢をとっているバルナの後ろ姿が見える。
——あれは……
虹のカーテンの向こう側には、本来そこにあるはずの鬱蒼とした山林の代わりに、広大な湖が開けているのがうっすらと見えた。それは保が庚申の夜の明け方に見た光景である。
「来たか」
振り返らずにバルナが言った。保の後ろからは、異変に気付いた沙羅が息を殺しながら近づいて来る。沙羅が社に入るのを待って、バルナが口を開いた。
「二人には礼を言うぞ。これで目的に大きく近づいた」
「いっ!」
沙羅が息を飲んだ。水天像の前、虹の帯の中には、先ほど保の手の中にあった虫が、この前の虫と並んでヒクヒクと痙攣しているのだ。
「下を見ろ」
バルナは二匹の虫が蠢いている床を見下ろして言った。
「これは……」
上空から降りている虹の帯はそのまま床を穿ち、真っ暗な深淵を作り上げていた。深淵の奥からは何者かが蠢いている気配と、そのまたはるか底からはおぞましい阿鼻叫喚の声が微かに響いてくる。
「人道の下には鬼道があり、そのまたはるか下には地獄道がある。この淵は、その二つの世界に繋がっている」
バルナが口を開いた。
「人道と修羅道は、ともに別時空の地水の面を覆う世界だ。普段は行き来できない二つの世界が、先の庚申の夜、この社を介して繋がった。ちなみに畜生道は人道と修羅道に重なる形で存在する。だから修羅道にも畜生はわんさといるぞ。そして、」
バルナは上を見上げた。虹の帯は社の天井を貫き、そのまま無限の宙へと続いている。
「この帯が『外道(げどう)』だ。すなわち六道の外にある世界。六道は『外道』を介してのみ互いに繋がることができる。そして、この虫どもは『外道』の生き物なのだ」
「はっ!」
沙羅が声をあげた。見れば、二匹の虫が互いに呼応して近づき、ピクピク痙攣しながら融合し始めているのだ。
「三尸(さんし)の虫は、元はと言えば外道の神王として一体をなしていた」
バルナがまた口を開いた。
「これがはるかな昔、上尸(じょうし)、中尸(ちゅうし)、下尸(かし)の三匹に分かたれたそうだ。その経緯はよくわからないがな。バルナは既に中尸、下尸を捕らえた。やつらは今や待ちきれずに元に戻り始めているのだ」
確かに中尸は人の胴体、下尸は下半身のような形をしている。今、その二匹の虫がじわじわと融合し、人の胸から下の形を作り始めているのである。バルナはしばらくその様を無言で見つめた後、再び口を開く。
「そして最後の一匹、上尸が揃った時、こいつは次の庚申の夜に人の形をとって立ち上がり、上空を指し示すという。その時『外道』はこの帯のはるか上空、天道へと通ずる階梯となる。そしてバルナはその道をのぼって天道へ赴き、」
バルナは保と沙羅を鋭く一瞥して、力強く言い放つ。
「天帝に、一騎打ちを挑んでやる」
その時、中尸と下尸の動きが静かになった。二匹の虫は今や完全に融合を果たし、そのまま静かな眠りに落ちていく。あわせて水天像を覆う虹の帯が色あせ、やがて消え失せていった。
そして、水天像の前に横たわっていた二匹の虫の姿はなく、社の窓からはいつも通りの鬱蒼とした山林が見えている。バルナはその彼方を鋭く睨んで言う。
「さあ、ものども、待っていろ。あと一匹だ」
そう言って踵を返し、社を出ていく。その背中に向かって、
「もう、やめてよ!」
沙羅が叫んだ。
「言ってるでしょ? あなたは闘争神じゃなく、音楽神なんだよ! これ以上誰かを殺すのはやめて! 天帝と一騎打ち? バルナだって殺されるかもしれないんだよ? もっと他人の命も、自分の命も大切にして!」
「……サカラ、お前もか」
バルナは橋の途中で立ち止まり、振り返って苦笑を浮かべる。
「人道に転生すると何故皆そうなるんだ?……いいか、衆生の今生など、大いなる六道輪廻の一環でしかない。ことに三尸に心を食われた輩など、いずれ鬼道に赴くべき天命の者たちなのだ。バルナは奴らを鬼道に送る車の運びを少し早めているに過ぎない。そしてバルナもまた、今生での自分の天命を精一杯果たしているだけだ。たとえその先に、バルナを切り刻む刃が待ち受けているとしてもな」
「……バルナの、」
だが沙羅はひるむことなく、眼差しをバルナに突き返す。
「バルナの『天命』って何なの? バルナは、何のために生きているの?」
「修羅道の者たちのために決まっている」
バルナは静かに、だが速やかに答えた。
「かつて惨めにも天衆に蹂躙され、二千年間、味も匂いも痛みもない世界で生きてきた哀れな民のために決まっている。このバルナに一縷の望みを託して、すべての恥辱を耐え忍んできた民のために決まっている。やつらのために天道に赴き、天帝と雌雄を決する。それがバルナの天命だ。それが……」
バルナはそこで声を詰まらせると、
「……あの女が、あの裏切り者が産み落とした、このバルナの天命なのだ」
そう言い捨てて、再び前を向くと、
「……何だ……あいつは?」
ぎょっとした声でつぶやいた。

橋のたもとで小柄な女性が腕を組んで仁王立ちになり、バルナを睨みつけている。
肩の辺りまである女性の髪の先にはピンク色のメッシュが入っていて、ジーンズに派手なアウターをはおっている。背格好はティーンの少女のようだが、顔つきと佇まいには人生を何度も生きてきたような貫禄の漂う、不思議な印象の女性だ。すると沙羅が「はあっ!」と大きく息を飲んで、
「……あなたは……」
そう言って絶句した。
「一つ聞きたいんだけど、さ」
女性は小さく首を傾げ、手に持っているCDケースをバルナに見せると、
「これの持ち主を消し炭にしたのはあんた?」
「……ああ」
バルナは小さく頷きながら、女性を訝しげに睨んで言った。
「何故、バルナの姿が見える?」
「もう一つ聞きたいんだけど」と、女性は構わず畳み掛ける。
「高坂波瑠夫を、消し炭に変えたのもあんた?」
「ああ」
「嘘」
女性は嘲るような笑顔を浮かべながら言う。
「だってあんた、その記憶があるの?」
「途中まではあるがな。その瞬間の記憶はない」
バルナはそう言って小さく肩を竦めると、
「奴らから『虫』を取り出す時は『戦闘相』を憑依させる必要があるからだ。その間はヤクシャとサカラに任せて、バルナの記憶は無くなる」
「なるほど」
女性はそう言ってふんと鼻を鳴らすと、急に保の方を見て、
「あんた、ちょっと何か喋ってみてくんない?」
「な、なんですか?」と急に振られた保は目を白黒させながら答える。
「あ、もう十分。ありがとう。やっぱり聞いた声だ。いい声だね。職業柄、耳は超絶に良くてね。一回聞けば忘れない。つまり、あんたは、」
女性はまたバルナを睨みつけると、
「自分はぐっすりとお休みになっている間に、他人に人殺しをさせていたわけだ。あの子たちと、あたしに」
「『あたし』?」と、バルナが顔色を変える。
「ああ、そうだよ」と言って、女性は凄絶な笑みを浮かべた。
「だって、あたしは覚えてるよ。高坂の肉がベーコンみたいに引きちぎられる感覚も、台場の断末魔の叫びも。ねえ、あんた、なんであいつらを殺そうと思ったんだ? あいつらにどんな怒りがあるんだ?」
「怒りなどない」と、バルナはかぶりを振りながら、微かな嘲笑を浮かべる。
「あの通り、絵に描いたような仏敵だ。おかげで、バルナの必要としている『虫』を、あいつらから取り出しやすかった。ただそれだけのことよ」
「あんた、怒りもないのに人を殺したのかよおっ!?」
女性が怒鳴り声をあげた。烈火を吹くような鬼神の激昂である。
「確かにあたしはあいつらが嫌いだ! 殺意を覚えることだってある。でも『殺したい』と『殺す』は違う! あたしは誰かの命を奪う覚悟を本気で背負うつもりなら、『殺す』という選択だって否定しないよ…でも、あいつらがこのクソみたいな世の中で、何であんなクソみたいなやつになっちまったかも、あたしには痛いほどわかる。殺すんなら、その痛みをきちんと抱きしめなきゃダメだ。でもあんたは違う! あんたは、てめえの殺意をこしらえず、てめえの血を流さず、ただ他人の殺意を自分の目的のために利用してるだけだ! 人の殺意を盗むなあっ!」
「……お前が何を喚いているのか、バルナにはさっぱりわからない。だが、」
バルナはそう言って目を細めると、
「何より解せぬのは、最初からお前にバルナの姿が見えていたということだ。こちらに転生した天龍、まだ会ってないのがあと一人いるが、まあ最初からバルナの姿を見ることは不可能なはず。だとすれば、一体お前は何者なのか。今のところお前の中に『虫』の姿は見えない。だが今までの二匹と違い、上尸は宿主の外側からは見つけにくいという話も聞いてきている」
「……いっ」
保の胸に最悪の予感が走った瞬間、既にバルナは女性ににじり寄っている。そして「やめて! その人は!」と叫んだ沙羅の声が次の瞬間には——
「見城咲良さん!」
遠く、橋のたもとから響いたのである。沙羅の顔は、既にバルナの側頭部にあった。そしてバルナの両脇から沙羅の両手がにょきにょきと伸び、見城さんの両手をがっちりと掴む。続いて保の視界が切り替わり、程なくして両掌に見城さんの両足の感覚が伝わってきた。
「カカッ、わざわざこいつの名をバルナに教える必要はないぞ。サカラ」
バルナは見城さんの頭を肩に抱え込むと、そのまま彼女の体を逆さ吊りに担ぎ上げていく。小柄な彼女の体は軽く、台場のように悪足掻きもしないので、すんなりと殺人バスターの型が完成した。
「……ほう。こいつはすごいね」
そう、見城さんは驚きに目を丸くはしているが、自分に起きていることに対し、あまりにも冷静なのだ。
「ガチで三面六臂かよ……本当に『阿修羅』ってやつを目の当たりにできるとは思わなかったね…おかげで世界観が変わった。仏道って本当だったんだ。ああ、早く次の曲を書きたくなってきたな」
見城さんは軽口を叩きながらヘラヘラと笑い続けている。
「黙れ」
バルナはそう一喝して、見城さんの首にグッと右腕を巻きつけた。
「上尸の虫は人の頭に宿るというからな。その減らず口から絞り出してやろう」
「バカッ! やめろ!」
保は思わず叫んだ。この体勢から首に手をかけてバスターを決めれば、確実に相手に致命傷を与えることになる。
「oṃ devayakṣa bandha bandha」
だがバルナは構わず、獲物の体を異形へと変える呪文を唱え始めた。
「ha ha ha ha svāhā oṃ maheśvarāya svāhā」
と、そこまで呪文を唱え、バルナは「何?」と怪訝そうな声を漏らした。 そしてもう一度、「oṃ devayakṣa bandha bandha ha ha ha ha svāhā oṃ maheśvarāya svāhā」と唱えた後、「バカな……」と小さく呻吟する。
「『戦闘相』とやらが現れないかね」
それを見て見城さんが嘲笑うように言った。
「なるほど、よくわかったよ。今まであんたがその呪文を唱えると、あたしが駆り出されたってわけだ。でも、今回ばかりはそうは問屋がおろさないよ。何故だかわかるかい?」
見城さんはニヤリと笑い、誇らしげに言い放った。
「自分で自分を殺すな、それを歌い続けることが、あたしの生きる理由だからだよ! そんなあたしが、あたし自身を殺せるわけがないんだよ! あんたの『戦闘相』はあたしなんだからな!」
「……貴様」
「やめろ!」
おのれの手の動きに不穏な気配を感じ、保はまた叫んだ。だが、バルナは聞く耳を持たず、押し殺したような声で呟いた。
「……こうなったら、生身のまま虫を引きずり出してやる……」
「ハハハハハ、そう来なくっちゃねえ! やるなら、自分でやんなきゃ!」
見城さんは高らかに哄笑する。
「あんたの恐怖が、怒りが、焦りが、今はビンビンに伝わってくるよ! 人を殺すならそうでなきゃダメだよ! 自分で自分を殺すのはあたしの信念に反するが、他人に殺されるなら大歓迎さ! あんたのおかげで世の中には『六道輪廻』ってのが本当にあるってわかった以上、もう何も怖くない。次はどこに生まれ変わらせてくれるんだい? ハアアッハハハアッ! さあ、ころせぇぇっ!」
「うぉあああっ」
次の瞬間、耳元でうなりをあげていたバルナの声が急に遠くなった。続いて保の目の前に青空が広がり、少し遠くでバタバタと人が転がる音が聞こえた。保は瞬時に上体を起こして橋向こうを見ると、地面に崩れ落ちたバルナの後ろに「あったあーっ」と呻きながら腰をさすっている見城さんの姿があった。
「……お前たち……」
バルナが顔をあげた。目が点になっている。何が起こったのか全く理解できないという表情だ。
「……何故だ……何故……」
バルナの体は既に一面二臂に戻っていた。保の横では、沙羅もゆっくりと上体を起こしてバルナに顔を向ける。そう、保と沙羅は、自らの意思でバルナを拒絶し、自分たちの体に戻ったのである。
「……俺は……人間だ」
保は意を決して口を開く。
「……人間は……阿修羅と一心同体になんて……なれない」、
その瞬間、バルナの目の色がすうっと失せ、そのまま沙羅の方を向くと、
「……サカラも、」
と、問う。
「ヤクシャと同じなのか?」
「……あたしが……」
沙羅は燃えるような目でバルナを睨み、声を絞り出した。
「見城さんを殺せるわけないじゃない……」
「……わかった」
バルナはそう言ってプイッと顔を背けると、ゆっくりと立ち上がって、
「では、ここらでお役御免だな。今までのことには礼を言おう。だが元々お前たちは与力に過ぎん。バルナの邪魔をしない限りは、お前たちを勝手に取り込むようなことはもうしないと約束しよう。そして見城咲良とやら、」
バルナは見城さんを見つめると、折目正しく頭を下げた。
「先程の狼藉を謝罪する。頭に血が上っていた。確かにお前が本当にバルナの戦闘相だとすれば、そこに『虫』などいるわけがない。そしてお前もここでお役御免だ。ここから先はバルナ一人でやる。バルナが間違っていた。結局、」
バルナは小さく首を傾げると、
「変に与力などに頼るから話がおかしくなるのだ」
そう言って、再び山門の方へと歩いていく。もう一回り、虫探しの散歩に出かけるつもりなのだろう。
「見城さん!」
沙羅が見城さんのもとに駆け寄っていく。
「大丈夫ですか? ほんっとうに申し訳ありませんっ!」
沙羅が深々と頭を下げるのを見て、見城さんはあはは、と笑うと、
「首をへし折られるところが腰で済んだんだ。礼を言いたいのはこっちだよ。しかし、」
遠ざかるバルナの後ろ姿を見ながら、見城さんは小さく頭を振った。
「見直したよ。あの子はいいね。抜群に賢くて潔い。そしてぞっとするほど孤独だ。あれは確かに『アイドル』だわ。ああいう子を口説きたいなら、」
見城さんは地面に落ちているひび割れたCDケースを開け、中身をひとしきり検分すると、沙羅に差し出して言った。
「『音楽』に限るよ」
「え?」
「あんた、牟佐リンダちゃんでしょ。想像した以上の可愛い子で嬉しいね。これはあたしがあんたをイメージして書き下ろした自信作。好きに詞をつけるなり、アレンジするなりして使って欲しい。この際あんたが作曲したってことにしてもいいし、あたしの名前を使ってバズりたければ、あたしが作ったって公表してもいい。でも、」
見城さんは、沙羅の目を覗き込んで、言った。
「二つだけ約束して。まず、必ずあの子に聴かせること。そして、あの子のことを歌うんじゃなくて、あんた自身の生き様を歌うこと。誰かに刺さる歌を作ろうと思ったら、その誰かのことを勝手に『代弁』しようと思っちゃダメ。この歌自分のこと代弁してくれてる、とか思われても、そんなものはてめえ自身のことをよくわかってないやつの勘違いだもの。人と人は、絶対に一つにはなれないんだから」
——人と人は……
保がハッとした顔を見せた時、見城さんは一瞬保と目を合わせて小さく頷くと、また沙羅の方に向き直って、
「だから、てめえのことを本気で歌うしかないんだ。そうすれば刺さるやつには刺さる。自分の孤独だけが、他人の孤独に刺さるんだ。少なくともあの子には絶対刺さるはず。あたしたちは人間だから、あの子みたいな魔法は使えない。だから人間には音楽くらいしか使えそうなものはない。そして音楽は決して魔法ではない。でも、」
見城さんは「くくっ」と笑いを漏らしながら立ち上がると、
「音楽は」
そう言って、痛々しげに腰をさすりながら山門の方へと歩き去っていく。保はその後ろ姿を見送りながら、彼女は一体何者なのだろう、と唖然とするばかりだ。
保はバルナの言っていたことを改めて思い出してみる。彼女は地上に転生している天龍ではないという。またバルナ自身が意識を失う「戦闘相」の時には、水天の意識をつかさどっているのは彼女なのだという。その辺りのことに関しては、保にはよくわからない。ただ保にもわかるのは、彼女はバルナに名前を呼ばれる前からバルナのことが見えていた、ということである。そんな人は、確かに保も今までに見たことが——
「いや!」
保は思わず大声を轟かせた。沙羅がビクッと身を震わせ、参道の彼方に遠ざかっていた見城さんまでもがぎょっとした顔でこちらを振り返る。
そう、バルナに名前を呼ばれる前からバルナのことが見えた人は、もう一人いたのだ。あの時、あの三叉路の石仏の前で、バルナの背中を指差した保に向かって、
「あの人に、何かされたんですか?」
水戸さんは、確かにそう言ったのだ!
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