阿修羅の偶像(アイドル)第3章第5節(4)
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水戸さんが堂上に上がり、つかつかと歩いてきた。バルナはその声に振り向き、何か畏れにも似た眼差しで彼女を見つめている。
「たとえ、あなたが地獄道に堕ちることが構わないとしても、」
水戸さんは、バルナの後頭部に張り付いて呻き声を漏らしている男の顔を指差して言った。
「その人はどうなるのですか?」
「……こいつ、だと?」
バルナは忌々しげに唇を歪める。
「こいつは既に上尸(じょうし)に心を食われた者だぞ。遅かれ早かれ鬼道に堕ちる。何かの過ちで人でも殺めれば、地獄道にさえ堕ちるだろう。もう手遅れなのだ」
「何故あなたにそれがわかるのですか?」
「……何?」
「たとえばあなたはさっき『八草さんたちに報いたくなった』と言いました。ということは、以前はそういう気持ちはなかった、ということですよね? あなたは、自分の気持ちが変わることを予測できていたのですか?」
バルナは何も答えず、小さく目を伏せた。すると水戸さんは畳み掛ける。
「私はその人を知っています。かつて何度も握手会に来てくれた、私のファンだった人です」
「……何?」
「でも、私が自分を主張するようになってから、その人は変わりました。わざわざ握手会に来て私をなじるようになり、やがて出禁になりました。その人は悪い方向に変わった。でも、いつか良い方向に変わることだってあるでしょう。だから、どんな人に対しても、その人が変わることを期待して、辛抱強く待ってあげなければならないと思います。その前にその人を殺めてしまえば、その人が変わる可能性が失われてしまいます。私たちが輪廻転生の輪の中にいるとしても、私たちは毎回初めての人生を生きているんです。お互いをもっと長い目で見つめ合うべきではないでしょうか?」
「……変わる前に、」
バルナは水戸さんをキッと睨んで言った。
「こいつがお前を殺めでもしたらどうするんだ?」
「もし輪廻転生があるとすれば、善き行いの結果として私たちが殺されたとしても、再び善道に転生し、また善き行いをする機会を得られるでしょう。でも、悪い行いの結果悪道に転生してしまえば、その先、善き行いをする機会を得にくくなると聞きます。他人の可能性を奪うことは、自分の可能性を奪うことに繋がるのです」
「……だから地獄堕ちの咎はバルナが負うと言っているだろう?」
バルナの声が震えている。
「人の善と阿修羅の善は違う……この男の命と引き換えに世界の歪みが直るのならば、喜んで地獄に堕ちようというのが阿修羅の……善、なのだ」
「私などに、何が『人の善』なのかはわかりません」
と、水戸さんは小さく頭を振る。
「『善』は人によって様々です。だから、自分の『善』を他人に押し付けてはいけないと思います。でも何が『悪』なのかは、人も阿修羅も同じはず。たとえば弱い者いじめです」
その時、バルナの顔色がはっきりと変わった。
「かつての私は、ファンの人たちの期待に沿うために努力することが『善』だと信じて励んできた。でもある時から、立場の弱い者に自分の理想を強いるようなことは『悪』なのではないか、と思い始めたのです。だとすれば、それをファンの人たちにちゃんと言ってあげるのが、『善』なのではないかと思うようになった。もし、あなたの大事な人たちの喜ぶことが、あなたに弱い者いじめを強いるようなものなら、それはその人たちの方が間違っているのだと思います。だからそういう時は、あなたたちは間違っていると伝えることが、」
水戸さんはバルナの顔をまっすぐに見つめて言った。
「『善』なのではないかと思うのです」
「では! 何故そうなったのだと思う?」
バルナは激昂して叫んだ。
「このバルナが、何故弱い者いじめなどをする羽目になったのだと思う? それはこのバルナが弱いからだ! 戦闘相とやらの力を借りなければ何も出来ず、人の身ではヤクシャに一瞬で吹っ飛ばされる……こんな弱きバルナの相手には、もっと弱き者をお膳立てしなければならなかったんだ! 全ては出来試合だ! プロレスだ! 出来試合の末に覇を唱えたところで、覇道も王道もクソもあるか! 挙げ句の果てに天帝はもう天にいないだと? ふざけるな! そんなバルナが出来ることといえば……」
バルナは苦悶に顔を歪めながら、池の向こう、水平線の彼方にひしめく阿修羅軍の篝火に目を走らせる。
「たとえ己は地獄に堕ちようとも、あの者たちに夢を与え、お前たちに安らぎをもたらす……それ以外ないではないか……」
「……ですから、今は他の人のことはよいのです。あなたは、」
水戸さんは小さく微笑んで言う。
「あなた自身は、どうしたいのですか?」
バルナはまた俯き、しばらく考え込んでいたが、
「……強く、なりたいだけだ」
やがて、唸るように言葉を絞り出していく。
「……力強く、勇ましく、のびやかに……そう、」
バルナは顔を上げて、水戸さんの顔を見た。その瞳は微かに潤んでいる。
「……お前たちのように……」
そしてバルナはまた俯き、消え入るような声でもう一度言った。
「……お前が築き上げた……あいつらの舞のように……」
すると水戸さんは、少し困ったような笑みを浮かべて、
「私はそんなに強くありませんよ。あなたと同じで、そうありたいと願っているだけです……少し私の話と、歌を聴いていただけませんか。どちらも、」
水戸さんはバルナに歩み寄ると、バルナをキュッと抱きしめる。
「……あ」
バルナは小さく声を漏らす。その瞬間、後頭部の顔と背中側の両腕がすっと消えた。
「あなたのことを思って、考えてきたものですから」
水戸さんはそう言って、ゆっくりとステージの中央に向かい、マイクスタンドの前に立った。ついに本日の主役が正式に登場とあって、観客席は真っ赤なペンライトに染まり、盛大な拍手が巻き起こる。先ほどの保(たもつ)のステージで、長いコロナ禍で培われた呪縛が少しほぐれたのか、方々から「レイヤ!」「水戸玲耶サァァァァン!」など、アイドルのステージらしい歓声も聞こえてくる。そして天道、鬼道、修羅道から届く色とりどりの光も合わせ、今やこの小さな山寺の周囲の光景は、巨大なスタジアムの観客席のように変貌していた。
「十五歳の時、奈良の興福寺で、私は一体の仏像に出会った」
水戸さんが語り始めた。
「私はその仏像に興味を覚えた。なんだか他人事のように思えなかったからだと思う。少年のようにも少女のようにも見える阿修羅は、元々は乱暴者の戦いの神で、今は仏の教えに帰依して仏敵から仏法を守る護法神になったのだという。でも、調べれば調べるほどわからないことが出てきた。まず、仏敵から仏を守る神様にしては、阿修羅像はあまりにも穏やかな顔をしている。阿修羅は仏法に帰依したから穏やかな顔になったのだと言うけれども、調べてみると阿修羅は天帝に戦いを挑んで敗北し、修羅道に閉じ込められたという話だ。力づくで押さえ込まれた阿修羅が、こんな顔で心の底から仏の教えに帰依するだろうか。興福寺は朝廷が仏教を利用して国を治めようとした奈良時代の建築物だ。阿修羅像の逸話も権力に都合の良い形で作られただけで、本当は違う話なのではないか。私はグループを卒業し、アイドル活動を少し休んで、そのための研究に専念することにした。そして、自分が導き出した仮説は、この阿修羅像は過去ではなく、未来をあらわしているのではないか、ということだった。
阿修羅と天帝の戦争は、阿修羅王の妻だった舎脂(しゃし)を天帝が奪ったことから始まった。天帝の妃となった舎脂には修羅道に残された赤子がいた。舎脂は略奪された後、天帝を愛するようになってしまったことから、阿修羅族からは裏切り者扱いされ続けてきた。でも、もし自分が舎脂だったらということを考えてみると、それで戦争が終わるのならば、形だけでも天帝を愛していると言ってしまうかもしれない。ただ、自分が誰かの所有物のようにやり取りされるようなのは二度と御免だから、次に転生した後はもっと自由に生きたい、とは思うかもしれない。
そしてもう一つ、修羅道に残してきた自分の赤子にも、のびのびと生きてほしいと願うだろう。興福寺の阿修羅像の三面は、幼年期から青年期に至る阿修羅の成長を表しているという。だとすればあの阿修羅像は、舎脂が自分の赤子について思い描いた未来の夢が伝承され、結実したものなのではないか。それが私の現時点での仮説だ。きっと私たちは己の実像のまま、他者の実像を尊重しながら生きられるようになった時、あの阿修羅像のような顔になる。仏の教えに帰依したからあのような顔になったのではない、そのような顔をして生きよ、というのが仏の教えなのだ。
私はアイドルグループを卒業して一人の学生に戻った時、あまりの解放感にこのままアイドルを辞めてしまおうかと思ったこともあった。でも、この時代のこの国で己の実像のまま生きることはとても難しいのだという。そしてそういう生き方の手本を示すために、Shangri=laというグループは存在しているのだ、と言ってくれた人もいた。今のアイドルはまるで奈良時代の阿修羅像のように、江戸時代の水天像のように、ファンにとって都合のいい偶像として崇められ、都合の悪い実像には罵声が飛ばされる。私はそんなアイドルの扱われ方に異を唱えてきた。でも、そんな私の、そんなShangri=laのあり方自体が、多くの人たちに勇気を与えるアイドルなのだ、と言われたのだ。だから私は思った。もしそれが本当なら、そんなアイドルのあり方が可能だとするのなら、私はこれからも『偶像(アイドル)』を名乗り続けたいと。
そして私はその話を聞いた時、自分が何故阿修羅像のことを他人事だと思えなかったのかもわかった気がした。己の実像のまま生き続けることが仏の教えに適っているとすれば、まさにそのような生き方をすることによって、阿修羅の王子は仏道の護法神となるのではないか。だから今、人間界に来ているという小さな護法神(ヒーロー)に、私はささやかなエールを送りたいと思う。あなたはあなた自身であり続けることで、ヒーローになれるのだ。だから、たとえあなたがどんな道を選んだとしても、あなたが何者であったとしても、」
水戸さんは、バルナを見つめてニッコリと微笑み、言った。
「のびのびと、やるんだよ」
すると、一旦関係者席に降りていた沙羅が再び堂上に現れる。手にしているのは先ほどまでのギターではなく、真っ白に輝く阿修羅琴(あしゅらきん)だ。
「それでは、聴いてください」
牧歌的なイントロが響き、その上に沙羅の阿修羅琴が朗らかな旋律を奏でていく。
そして、水戸さんは歌い始めた。
水戸さんが歌い終わった。子供に語りかける母親のような慈愛と、子供自身の無邪気さを併せ持つような不思議な声だと保は感じた。そして水戸さんの歌詞も、沙羅の曲も演奏も、全てが素晴らしかった。
当然のごとく、会場からは割れんばかりの拍手が巻き起こった。そして流れの中で堂上に取り残される羽目になってしまっていた保は、猛烈な肩身の狭さを感じながら佇んでいる。
バルナはと言えば、堂上の片隅に座り込んだまま俯いている。水戸さんの話の時からその格好で、表情を見せようとしない。だが、水戸さんの話の最後の方では、鼻を啜るような音も聞こえた。
「ありがとうございます」
水戸さんは改めて観客席に頭を下げる。
「あのような形で卒業することになり、いつか皆さんにお会いする機会を作らねば、と思いながら時間が過ぎてしまいました。皆さんにお届けできるだけのものがなかなか思いつかなかったからです。今回、このような機会を与えてくださった天海(あまみ)先生、」
水戸さんは先生に向かって手を向ける。
「素敵な曲を作っていただき、演奏までしていただいた永井沙羅さん、」
沙羅は神妙な表情で、客席に深々と頭を下げながら言った。
「そして、阿修羅の王子水天に、改めて感謝の意を表したいと思います」
「何故、お前がバルナに感謝する必要がある?」
その時、俯いたままバルナが口を開いた。
「さっきお前がバルナに向かって話したことに、何をどう返せばいいのかはわからない。だが……」
バルナはそこでしばらく言葉を探していたが、
「お前とサカラの歌に対しては、バルナは返すことができそうだ。ヤクシャ」
バルナはようやく顔を上げた。その頬には、やはり涙の跡があった。
「阿修羅琴を持ってきてくれ」
「……おう」
保は沙羅から阿修羅琴を受け取り、バルナのそばに向かう。
「いつものやつを弾いてくれ。チャーチャッチャ、チャッチャッチャチャラーってやつだ」
「……あれ、ただのコード練習だぞ」
「それでいい」
「でも……」
「いいから弾いて!」
沙羅が鬼気迫る声で叫んだ。保は肩を竦めて「は、はいっ」と答える。するとバルナはくすっと笑って沙羅を見ると、
「サカラ、『歌』というものの価値がようやくわかったぞ」
そう言ってゆっくりと立ち上がる。
「何を言えばいいか、わからない時に、便利だ。さあ、ヤクシャ、未完成で構わん。『仮』でもいいんだ」
バルナは親指を立て、今まで見たこともないような穏やかな笑みを浮かべると、
「のびのびと、やろう」
「……ああ」
保は阿修羅琴でコードを反復し始める。そしてしばらく経った時、
バルナは朗々と歌い始めた。少しハスキーで、艶のある素晴らしい声だ。
バルナは虚空を見つめ、祈るような表情を見せると、目を閉じて声を絞り出していく。
——あれ?
その時、保は自分の手の中に異変を感じた。阿修羅琴が手のひらからするすると抜け落ちていくのである。まるで阿修羅琴がバラバラに解けて、這い出していくような——
「……蛇ぃ!」
「国孫(こくそん)様ぁっ!?」と沙羅が叫ぶ。
今や阿修羅琴の化身をほどいた一匹の白蛇が、そのままするすると保の体を離れてバルナの近くに這い寄っていく。バルナは呆然とその様子を見ていたが、やがて合点のいった顔で「そうか……」と呟き、
「……お前が龍衆最後の一人、摩睺羅伽(まごらが)……」
すると、国孫様は見る見るうちにバルナの体を這い上り、やけに複雑な型を作ってバルナの上体に絡みつくと、白銀の光を放ってそのまま動かなくなった。
「これは……」
驚いて目を剥くバルナをよそに、ファルークさんは「ホワイトスネイク! ダブルネックギター!」と叫びながら興奮している。
「これは……あの時、バルナが池に捨てた……」
バルナが呟いた。それは柄が二股に分かれた、真っ白なギターだったのである。
「わかった!」
沙羅が手を叩いて叫んだ。
「わかったよ! 阿修羅本人は『触れもせず』に奏でる阿修羅琴! どういうことかわかったよ! それがあなたの『変身アイテム』なんだよ! バルナ、早く呼んで! あたしたち二人を、あなたの中に呼んで!」
「……何?」
次の瞬間、保の顔は久々にバルナの側頭部にあった。そして保の両腕が、見る見るうちに阿修羅琴の左右へと伸びていく。
「ヤクシャは上の弦、あたしは下の弦。オッケー?」
バルナの頭の反対側で沙羅が声を弾ませ続けている。
「で、とりあえずさっきのコードを繰り返して! そう! いい感じ!」
沙羅はバルナの体から己の腕が生え揃うや、保のコード反復の上にリフを重ね始めた。今度の阿修羅琴は今までとは全く音が違う。電気などどこにも通っていないのに、まるでエレキギターのようなエフェクトの効いた強烈な音だ。
「バルナはマイクのところに行って! ギターはあたしたちが全部やるから! バルナの手は歌いながら好きなようなマイクパフォーマンスに集中させて!」
「こいつは面白いことになってきたね」
そう言いながら堂上に上がってきたファルークさんが、颯爽とドラムセットに向かう。続いて先生、ナラキンさんが堂上に上がり、それぞれの持ち場についた。皆さすがというべきか、沙羅と保が奏でるギターに合わせ、あっという間にそれらしいオケに仕上がっていく。その様子に沙羅は「うんうん、いい感じになってきた!」とひとしきり頷くと、
「じゃあバルナ、合図をしたら続きを歌って! 心の赴くままに!」
「わかった!」
「3,2,1,GO!」
歌いながらバルナはおのが長い腕を指揮者のように広げ、天龍を躍動させる。五部浄(ごぶじょう)と乾闥婆(けんだっぱ)が刻む律動の上に、緊那羅(きんなら)が音を描く。迦楼羅(かるら)が艶やかに舞い踊り、沙迦羅(さから)は摩睺羅伽を爪弾きながら、バルナの歌に声を重ねる。そして保の指もまたバルナに導かれるかのように、音楽に合わせて自在にコードを選んでいく。今や阿修羅の王子は三千世界の中心に君臨し、その全てに命を注ぎ込む最高神(アスラ・マズダ)と化しつつあった。
その時、地の底から放たれる鬼衆、修羅道の湖上に輝く畜生衆の命の光が、一斉に青く染まった。
そして夜空を彩る天衆の光量が増し、空一面が真っ青になった。上下から青光が交錯し、天地は夜明け前のような瑠璃色へと染め上げられていく。それを見て、沙羅がぼそりと呟いた。
「夜明けの色……それがバルナの『メンカラ』なんだよ」
次の瞬間、保は、あっと息を呑んだ。真っ青に照らされた天空のはるか彼方には、翼を生やした人ならぬ者どもが雲霞のごとく群れをなしているではないか。
その時、雲ひとつない空から、ポツリポツリと雨が降り始めた。
雨は瞬く間に激しい驟雨となって一同の上に降り注ぐ。先生は空を仰いで苦笑すると、「バルナ様は天衆の心を掴みましたな」と、呟いた。
「雲一つなき空から降る雨、これはまごうことなき、」と、先生は続ける。
「『天使の涙』にございます」
バルナがここまで歌いきったところで、待ち構えていたように沙羅がギターリフをワイルドに炸裂させる。やはりヒーローは二人いる、と保は思った。すなわち、バルナと沙羅だ。
沙羅のターンが終わり、バルナがまた歌い始めた。
するとバルナはひらりと本堂から飛び降りて、
朗々と歌いながら、社に向かって橋を渡り始めた。
「……バルナ?」と保が問うと、
「音楽を続けろ」とバルナが答える。
沙羅は頷いてギターを弾き続ける。保もまたそれに合わせ、粛々とコードを刻み続ける。
バルナはなおも歌い続けながら橋を渡り、やがて社が近づいてきた。
「よし、ここで音楽は一旦終わりだ」
バルナはそう呟いて、勢いよく社の扉を開ける。
「だが、すぐにまた会える。これでわかった」
そう言って、水天像の前、虹色の帯の中に手を突っ込んで二匹の虫を鷲掴みにすると、池の中へ放り投げた。
「ヤクシャの言う通り、人と人は一つになれない。でも、」
続いてバルナは、水天像に添えられたワッフルに手を伸ばして、
「また、音楽で」
ワッフルを口にひょいっと放り込み、満足げに呟く。
「うん、うまい」
その声を耳に残し、保は次の瞬間、堂上に横たわっていた。
「シャララララララララ シャララララララララララ 新しい歌を歌ってる」
社の向こう、修羅道の湖に架かる橋の上から、バルナの歌声がまだ聞こえてくる。既に雨はやみ、空は再び夜闇に包まれつつあった。そして社の手前、人道側の池の水面では、二人の全裸の男が這う這うの体で岸に辿りつこうとしている。あの二匹の虫が池の水を吸い、かろうじて人の形を取り戻した高坂と台場であろう。
「シャララララララララ シャララララララララララ 新しい歌を歌ってる」
修羅道の彼方からバルナの歌声はしばらく響いていた。しかし、それも次第に遠くなり、やがて聴こえなくなった。するとそれに続いて、地平線を埋め尽くしていた阿修羅軍の篝火が小さくなっていく。
そして最後の篝火が夜闇に消えると、青海池は再び鬱蒼とした山林に包まれていた。
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