アンジュルムとJuice=Juice徹底比較決定版〜「上手くいくグループ」の「黄金比ピラミッド」を焦点に〜
はじめに
このnoteではこれまでもことあるごとに、アンジュルムとJuice=Juiceの比較を行ってきた。
その大きな理由としては、両グループがほぼ同時期(2010年前後)に創設された、ほぼ同世代(1994年-1998年生まれ)を中核としたグループである、ということが挙げられる。しかしその後のアンジュルムとJuice=Juiceは全く異なる経緯を辿り、全く異なる伝統を備えたグループになっていった。ところがその両グループがこの夏、ほぼ同じようなピラミッド編成のグループとしてハロプロに並び立っている。それが以下の図である。
非常に興味深いのは、このピラミッド編成における両グループの各層のメンバーがほぼ同年代で、しかも互いに密接な関係性を持っているという点であろう。なお後述するが、この「黄金比ピラミッド」の形をとる時、そのグループは非常に良い状態に入り、大きな躍進を遂げることが多い。ただしこの編成に行き着く直前には、そのグループは時に大きな痛みを伴う変動期を経験することも多いのである。
今の自分がアンジュルムよりもJuice=Juiceに興味を惹かれている理由は、実はその辺りにある。この2年ばかり、Juice=Juiceは大きな変動期を迎えていた。またそのこともあいまって、他のグループと比較した時、比較的ヲタクに置き去りにされがちな存在になってしまっていたと思う。たとえばアンジュルムのように外部への露出が目立つ華々しさもなければ、OCHA NORMAのように新しもの好きのヲタクの関心を集めるようなこともなかったのである。
ところが自分の場合、苦境に立たされているグループほど応援したくなるところがある。多分に判官贔屓的な性向があるというのもそうだが、グループが苦境に立たされている時には、英雄的ないし聖人的な資質を持ったメンバーが台頭しやすいということもその理由の一つである。かつてのこぶしファクトリーにおいては野村みな美や浜浦彩乃がそうであったし、アンジュルムに至ってはグループ全体が英雄化してしまった。そして今、Juice=Juiceにおいては松永里愛と植村あかりがその英雄的資質を全開にしつつある。またその激震の結果、Juice=Juiceがこの夏にようやく「黄金比」のチーム編成に行き着いたということも大きい。このことは、Juice=Juiceにとって歴史的と言ってもよい画期だからだ。
たとえばアンジュルムの場合、既に和田彩花体制下でこの「黄金比」編成を経験し、実際にグループは大きな躍進を遂げた。そして和田の卒業後、グループは再び大きな変動期を迎えたが、まるでグループ全体に意思が存在するかのようなスムーズな脱皮を遂げ、和田の卒業から9期の加入まで、わずか一年半の間に新しい形の「黄金比」に行き着いてしまったのである。
一方のJuice=Juiceがこの「黄金比」を経験するのは、今回が初めてである。その決定打となった稲場愛香の卒業まで、宮崎由加の卒業から数えれば三年、さらに「変動期」の始点を段原瑠々と梁川奈々美の加入に置けば足掛け五年にわたる長い変動期がようやく終わったのである。このことは自分の目にはとても刺激的なものとして映る。アンジュルムの「黄金比」には二度目の安定感がある。しかしJuice=Juiceの「黄金比」はその史上初めてのものであり、この先どのような躍進を遂げるのかというフレッシュな期待を持たせてくれるからだ。
しかし繰り返すがアンジュルムとJuice=Juiceは異なった伝統を備えたグループではある。ゆえに今後Juice=Juiceが躍進を遂げるとしても、それはアンジュルムとは異なったものになるはずだ。本稿ではそうした両グループの共通点と相違点を、両者の構造変化の歴史を文脈とする形で論じていきたいと思う。そしてその際に分析の焦点としたいのが、黄金比ピラミッドの各層における両グループメンバー間の対応関係だ。それをわかりやすく一覧する表を下記に用意した。適宜参考にしていただけば幸いである。
「黄金比ピラミッド」、「自由」と「統制」
さて、「黄金比」ピラミッドのグループは何故「上手くいく」のだろうか。
おそらく良い組織には二つの条件がある。一つは組織としての風通しがよく、お互いが上下関係に縛られず遠慮なく物を言い合うことができるということ。もう一つはそれでいて指導部の統率が行き届き、組織の構成員がそれぞれのミッションをきっちりこなしている、ということだ。自由と統制、この二つの要素が矛盾なく両立するにはどうすればよいのか、という話だが、ここで試みに黄金比ピラミッドを反転させた「逆ピラミッド」の図をご覧いただきたい。仮にこのような人数比の組織があったとして、そのグループではどのようなことが起きるだろうか。
まず最上層に同格のメンバーが複数存在することで、最悪の場合は派閥が生まれてしまうこともある。そして逆に最上層が仲良しグループだった場合には、人数比に劣る下層グループには上層に対する遠慮が生まれてしまい、今度はグループとしての自由闊達さが損なわれてしまうだろう。こうしてグループ内が停滞した結果、絶望した中堅、若手層が早々と卒業してグループの裾野がますます先細り、逆ピラミッド状態がいつまでも解消されない、という悪循環にも陥りかねない。
だから最上層のリーダーは一人がいい。そしてリーダーを補佐するサブリーダーは、年齢や経験値においてリーダーよりも一つ下の層にいた方がいいのである。ただしサブリーダーと同じ層には同格のメンバーが複数人存在するのが望ましい。サブリーダーを補佐するという意味合いが一つと、その方が人数的なパワーバランスでリーダーを掣肘することもできるからだ。また、サブリーダー層の下の若手層をケアする意味でも、サブリーダー層には状況に応じて異なる役割(技術的な指導や精神的なケアなど)を担う多様なキャラクターが揃っていた方が望ましい。そうした多様性の一環として、サブリーダー層と若手層の間に「媒介者」というポジションが生まれることも多い。「媒介者」はサブリーダー層か、サブリーダー層と若手層の間に中堅層のメンバーが担い、グループ全体の均衡を保つために様々な役割を果たすことになる(その具体例については後述する)。
なお若手層の内部では上下関係は緩い方がいい。ちなみにハロプロのグループの場合は期と年齢が必ずしも比例しないことが多く、そのような場合には結果的に年下の先輩と年上の後輩が同期のような関係性になることも珍しくはない。これは組織に自由闊達な雰囲気をもたらす上で非常に重要なのだが、逆に「サブリーダー層と若手層」といった階層をまたぐ関係性においては、このような「ねじれ」はなるべく避けた方が良いだろう。適度な「統制」を効かせるためには、階層をまたぐ関係性において明確な上下関係が必要だからである。ただし下の階層は上の階層に対して常に人数が多いことでパワーバランスを保ち、「統制」が必要以上に強くなりすぎないようにする。このように「自由」と「統制」は常に適度な均衡を保つべく微調整を続けられるのが、優れた組織なのだと言えるだろう。
ただし、アイドルグループというものは結成当時は皆「同期」なのだから、どうしても「逆ピラミッド」型からスタートせざるを得ない。卒業加入を繰り返すグループが黄金比ピラミッドへと変化するには、それなりの時間を必要とする。ところがアンジュルムの場合は、様々な事情からこの変化が非常に早かったのである。
その最初の切っ掛けは言うまでもない、四人でデビューしたスマイレージが和田彩花と福田花音の二人になってしまったことである。そこに加入したのが二期の四人である。組織の形としては「リーダー+サブリーダー」の二人の下に「若手」の四人が入る「台形」型で、この時点でだいぶ「ピラミッド」型に近づいている。
そしてこの過渡期にあって重要な役割を果たしたのが、サブリーダーたる福田花音の個性だったのではないか。彼女は確かにその実力と経験においては「サブリーダー」に相応しいのだが、その人間性において「なめられやすい親しみやすい」のである(現に今も二期メンは和田彩花のことは「和田さん」、あるいは遠慮がちに「わだちょ」と呼ぶが、福田に対しては一切の遠慮なく「まろ」呼ばわりしている)。つまり本来和田と同格のはずの福田は、その実力と経験に応じたサブリーダーとしての役割を果たしつつも、その「なめられやすさ親しみやすさ」のおかげで「若手」階層へと漸近し、結果的に和田のワントップリーダーという「ピラミッド」の原型が早々と出来上がっていった。そしてこの「ピラミッド」は、アンジュルム加入後の三期加入で一旦「裾野」の人数が小さくなるのだが、福田花音と田村芽実の卒業を経た2016年の夏には、和田が名実ともにワントップを務める綺麗なピラミッド型が早くも完成してしまった。そしてこの変化に際しても、福田の「引き際の良さ」がその端緒になっているのである。
それに対し、長い間オリメンがほぼ欠けずに活動し続けたJuice=Juiceは、アンジュルムとは全く異なった経緯を辿る。二期以下の人数がオリメンの人数を初めて上回ったのは、宮本佳林が卒業した2020年の末になってからのことなのだ。この経緯の違いは、両者のグループ文化に決定的な影響を及ぼしたのではないだろうか。早々と6スマ期に擬似的な「黄金比」を経験したアンジュルムは、まるでグループ全体が意思を持っているかのように新しい「黄金比」の形へと向かう新陳代謝を繰り返し、常に「上<下」という人数構成を維持してきた。この歴史はグループに現状変革的な空気をもたらしたはずだ。一方長い間オリメンで芸を熟成させ、「上>下」という人数構成が続いたJuice=Juiceのグループ文化は、現状維持的なものであり続けた。つまり「自由」と「統制」ならばアンジュルムは前者が強く、Juice=Juiceは後者が強いグループであることは論をまたないだろう。しかし「黄金比」のピラミッドにおいては両者は常に均衡することでグループは良い状態を保つものである。だとすれば、その本質において「自由」ファクターが強いアンジュルムは、どのようにして「統制」を維持してきたのか。逆にその本質において「統制」ファクターの強いJuice=Juiceは、現在いかに「自由」を獲得しつつあるのか。次章からは「リーダー」「サブリーダー層」「媒介者層」「若手層」の四層について、その点を比較していきたい。
リーダー層
「将に将たる」和田彩花と「兵に将たる」竹内朱莉
最近、「トップダウン型の和田彩花とボトムアップ型の竹内朱莉」という構図の新旧リーダー比較が定着しているように思える。これは竹内本人の、「わだちょは何もかも自分一人で決められる完璧なリーダーだったが、自分はそんなことはできなかったから、メンバーの意見に耳を傾けながらやっていくしかないと思った」という発言に基づいているのではあるのだが、自分はあまり彼女の発言を真に受けない方がよいと思うのだ。
まず、両者のリーダー就任時のことを考えてみよう。スマイレージ期はさすがにリーダーを含めたメンバーが皆幼すぎるだろうから、和田彩花の場合にはアンジュルム改名時の2014年末の時点でよい。18歳を超えているメンバーは福田花音以外には存在しなかった。一方竹内朱莉の場合には、グループのうち半数以上は18歳超えのメンバーだったはずだ。つまり和田の場合には「メンバーの意見に耳を傾け」たくとも、メンバーが幼すぎる時期があまりにも長かったのではないだろうか。
また、両者の性格のことも考えてみる。基本的にしなやかなコミュニケーションスキルの持ち主である竹内朱莉に比べると、和田彩花はかなり不器用な「マジレッサー」である。「他人の意見に耳を傾ける」という姿勢自体は人一倍強いとは思うのだが、単純にコミュニケーションスキルがあまり洗練されてはいない。また「今時の若い女子」としては一般的な興味関心にとどまっている竹内に比べると、和田のそれはえらく高尚なものに見えてしまいがちでもある。その美貌も相まって、後輩たちからその実態以上に「雲の上の人」と思われてしまいがちなのは、やはり和田彩花の方なのではないだろうか。
また、パフォーマーとしての両者を比較した時、単純に技術的なことだけを考えると、やはり竹内朱莉の方に軍配が上がる。そして和田体制下において、技術面で後輩を指導し続けてきたのはやはり竹内なのだ。技術面のコーチングは「自由」と「統制」なら、「統制」でいくしかない分野であり、後輩も絶対の信頼を持って彼女の指導に対して服していたところがある。その意味では、実は和田以上に長い期間にわたって「トップダウン」を続けてきたのが竹内なのである。その彼女が何故「ボトムアップ」に見えてしまうのかというと、彼女の同期である中西香菜と勝田里奈、あるいは「準同期」として「媒介者」の役割を果たしていた室田瑞希らが、彼女を「いじり」続けてきたことは大きいと思う。つまり彼女たちは、最も「トップダウン」な先輩である竹内を「いじる」ことで、「彼女の言うことには従うべきだが、かと言って萎縮する必要もない」という自由と統制のダブルバインドメッセージを後輩に伝え続けていたのである。
また、竹内朱莉が「自分はトーク/お笑いキャラでいくしかない」と任じていたことも、彼女が「敷居が低い」存在として見られがちな理由の一つであろう。しかし、ここで改めて考えてみたい。彼女は何故そんなことを自らに任じていたのだろうか。
それは、リーダーの和田彩花のトークが(少なくともテレビ的な場面では)あまりにもポンコツだったのではないか。
彼女はマジレッサーであり、機転の利くタイプでもなく、場合によってはひどく奇矯なことを口走り始めてしまう。少なくともアイドルグループのリーダーとして人前に立つにはあまりに浮世離れしていて、危なっかしいところが満載であった。そんな彼女の欠落した部分を、竹内朱莉は己が補完しようと任じていたのである。
「将に将たる器」という言葉がある。漢の高祖劉邦を指したものだ。何をやらせても完璧な将軍であったライバルの楚王項羽に比べ、劉邦は戦下手で教養もなく、軍事も内政もからっきしポンコツであった。しかし彼はそんな己の無能を自覚していたからこそ、優秀な部下に全て丸投げすることで、部下の能力を十二分に活かし切れたのに対し、項羽はあまりに有能すぎたため、全部自分でやりきろうとして部下にも愛想を尽かされ、結局天下を取ったのは劉邦の方であったという話である。実際和田体制下のアンジュルムでは、トークや技術的指導は竹内朱莉、ファッション面は勝田里奈、発信は川村文乃といった具合に、優秀な「将」たちが総大将の穴を埋めていた。「将に将たる器」の仕事といえば全体的な方針の決定とその託宣である。そしてその点においては、和田彩花は見事なカリスマ性を発揮し続けていたことは言うまでもない。
そんなわけで、竹内朱莉という人は「将に将たる」劉邦タイプというよりは「兵に将たる」項羽タイプなのだと自分は感じていたものだ。今彼女がリーダーになって改めて思うのは、彼女は「実際の項羽よりも有能な項羽」なのではないか、ということである。つまり一人で全てを抱え続けてしまうと自分が潰れてしまうことを知った上で、意識的に「劉邦メソッド」も取り入れることができる項羽なのである。しかし、いかにそれが出来たとしても、彼女の根底にあるものが「劉邦」ではなく「項羽」である以上、リーダーとしての彼女がアンジュルムにもたらすものは「自由」よりは「統制」であることは疑いはない。そしてこのことは、アンジュルムのグループとしての自然性向が「自由」であることを考えると、ちょうどいい塩梅の均衡をもたらしているのではないだろうか。今日のアンジュルムというグループによる「自由」の提示の仕方が、和田体制下のそれよりも「統制」された分かりやすい形になっていて、そのことがアンジュルムファンの裾野を広げる結果につながっているという話は、最近別に記事でも述べている通りなのである。
「ガチ項羽」金澤朋子と「ガチ劉邦」植村あかり
さて、アンジュルムの新旧リーダーに比べると、Juice=Juice新旧リーダーの対照関係は、かなり分かりやすい部分が多い。
アンジュルムの場合ざっくり言えば、竹内朱莉が和田彩花と比べて(お勉強ができる/できないという意味で)「おバカ」なパブリックイメージがあったため、竹内朱莉の洗練された世間知と和田彩花の浮世離れしたポンコツぶりの対比が見えにくくなっていた。ところがJuice=Juiceの新旧リーダーには、このねじれが全く存在しないのである。
まず金澤朋子について。彼女は竹内朱莉並に機知に富んだMCを繰り広げることもでき、Juice=Juiceの歌唱面を牽引した実力派パフォーマーでもある。一方で読書家で元々は公務員を目指していたほど「お勉強」のできる人であり、卒業の挨拶を全て暗唱できるような記憶力の持ち主でもあるのだ。つまり、一見「おバカ」で劉邦みがあり、それゆえに「劉邦メソッド」を意識的に使いこなすことができる竹内と比べて、「項羽」としてのガチ度が高いのである。彼女の卒業公演で「金澤さんは自分のことは何も話してくれない」と井上玲音が涙ながらに語っていたものだが、金澤はあまりに完璧すぎて、他のメンバーが彼女を「補完」しようがなかったのだろう。ただ、それはJuice=Juiceがそのグループの構造史の中で培ってきた「統制」優位のグループ文化に相応しいものではあったのだとは思う。
一方の植村あかりは、金澤朋子とは完全に真逆のタイプである。彼女はその盟友室田瑞希と同じく、オリメンでありながらもグループの中で「媒介者」として、後輩と同じ目線に立ち、彼女たちを和ませる役割を果たしてきたメンバーだ(この「非エリート」的な敷居の低さは、彼女たち二人がギリギリ「エッグ世代」に属さない存在であることと関係しているのかもしれない)。ラジオの台本は全て金澤にルビを振ってもらっていたというエピソードがある通りの「おバカ」キャラでもあり、その点では竹内朱莉にも近い。ただし彼女は竹内ほどスキルが突出しているわけでもなく、MCを卒なくこなせるような洗練された世間知の持ち主でもない。その口から何が飛び出すか分からない一触即発感は、むしろ竹内朱莉よりは和田彩花に近いとも言える。つまり植村あかりとは「竹内朱莉の『おバカ』感をまとった和田彩花」と表現しうる存在であり、和田よりもはるかにガチ度の高い「劉邦」なのだ。
こう書くとボロクソに聞こえるかもしれないが、一見アンジュルム新旧リーダーの「悪いとこどり」にすら見える「ガチ劉邦」みこそが、植村あかりの底知れぬスケール感の大前提である。そんな彼女がここぞという場面では絶妙のリーダーシップを発揮し、人の心を震わせるような言葉を綴り、あるいは逆に下の者に全ての見せ場を譲る器の大きさを見せているという話は、既に別記事で触れているためここでは繰り返さない。ここで強調したいのは、和田彩花よりも竹内朱莉よりも濃縮された形で「総大将」の仕事だけに特化した「将に将たる」リーダーが、Juice=Juice史上初の「黄金比ピラミッド」の頂点に君臨し始めたという事実の持つ意義である。たとえば彼女と並んで「媒介者」としての仕事を長らく果たしてきた稲場愛香は、「植村さんがリーダーのJuice=Juiceにいられてよかった」という言葉を残して卒業していった。彼女の言葉は、決してリップサービスではなかったと自分には思える。それを証拠に、稲場愛香は植村体制下の最後の半年、今まで見せたことのないような鮮烈な輝きを残して旅立っていったのである。
稲場愛香が植村あかりを指して言った「自由な女神」という言葉は、実のところ(民衆を導く)「自由の女神」と言い換えた方がよいのかもしれない。真に「将に将たる」者の下では、人は他人に統制された「兵」のままではいられない。長らく「統制」という基調文化のもとにあったJuice=Juiceに「自由」の風をもたらすリーダーとして、植村あかりほど相応しい者はいないはずだ。そして劉邦を「将に将たる器」と評した韓信の言葉を借るならば、植村あかりとは天命極まった中華の地に易姓革命をもたらすべく送り込まれた「天授」の存在としか言いようがないのである。
サブリーダー層
2017年新体制組の気骨:川村文乃と段原瑠々
さて、アンジュルムとJuice=Juiceのサブリーダーには、「2017年新体制組」という共通点がある。
川村文乃と段原瑠々、それぞれアンジュルムには船木結、Juice=Juiceには梁川奈々美という形で、カントリー・ガールズとの兼任組との同時加入という、かなり難しいポジショニングだったと思う。そんな事情も相まって、両者とも地方出身の苦労人、かなり「骨のあるタイプ」が選ばれたのだな、という印象を当時受けたものだ。ただ、その後の気骨の発揮の仕方は、実に対照的なものであった。
まず川村文乃の気骨は常に「外」に向かうものだった。竹内朱莉がそのコミュニケーション能力によって和田彩花を補完しようとしたのと同じように、川村文乃はローカルアイドル時代に培ったその発信力によって、「将の将たる」リーダーを補完し始めたのである。彼女は加入とともに「将」として働き始めてアンジュルムヲタクの人心を瞬く間に掌握し、和田彩花の卒業の頃までにはハロヲタ全体にその名を轟かせていたと思う。そしてその後、竹内体制下での彼女の華々しい対外進出ぶりは、周知の通りである。
一方、段原瑠々の気骨は「内」に向かうものであった。彼女も川村文乃と同じく瞬く間に「即戦力」として頭角を現したが、それはあくまで彼女の圧倒的なパフォーマンス力においてである。ただしそれ以外の部分では、彼女がまだ年少であったこと、気性の激しさを内に秘めた川村文乃とは異なり穏やかな性格であることも相まって、普通に後輩(=異常に戦闘力の高い一兵卒)として先輩たちに可愛がられながら粛々とその地力を磨いていった結果、今やハロプロ一の歌姫でありながらダンス学園の一員という「歌舞二冠」を達成してしまった。こうした両者の性格の違いは、「自由」を基調とするアンジュルムと、「統制」を基調とするJuice=Juiceというグループに、それぞれ適合的なものであったと言える。
ところでサブリーダーというポジションは、基本的に「補完する余地」を多く残している「将の将たる器」がリーダーを勤めている時に意味を持つものである。その意味では和田体制下の竹内朱莉は実に「サブリーダー」らしい働きを見せていたが、竹内体制下の川村文乃がどうなのかと言えば、少し異質なのではないか、という気がしている。たとえば竹内朱莉はブログこそ「筆不精だが大事な時に大事な言葉を綴る『将の将たる器』」スタイルをとっているが、オーラルな発信では相変わらず洗練された世間知を発揮していて、サブリーダーが彼女を「補完」する余地などない(むしろトークなどでは川村文乃の方が竹内朱莉よりもぎこちなく見えることも多い)。一方リテラルな発信においても、川村文乃が粛々と続けてきたその丹念な姿勢がいよいよグループ全体に膾炙しつつあり、彼女のサブリーダーとしての「有能さ」は、実は彼女のサブリーダー就任とともに(いい意味で)目立たないものになりつつある。その代わりに彼女が獲得しつつあるのが前述の外交官的ポジションであると同時に、昆虫食など彼女ならではの「狂気」を前面化させた変化球なのである。
その意味で川村文乃のあり方は複層的で実に面白い。彼女が加入後いきなり「将」として働き始めたのはアンジュルムの基調にある「自由」に後押しされたものだが、その働きぶりは「自由すぎるアンジュルム」にある程度の「統制」をもたらして均衡をもたらすものだった。ところが竹内体制下で「統制」のベクトルが以前よりも強まってくると、今度はそこに「自由」な変化球を投げて逆バネを効かせ始めているのである。和田体制下の「有能」から竹内体制下の「アウト」へ、という彼女の変遷を改めて考えると、彼女の「補完」戦略は実はよりメタなレベルへと進化を遂げているとも言えるわけで、やはり恐ろしく有能なサブリーダーではあるのかもしれない。
さて、そうした川村文乃に比べると、段原瑠々のサブリーダーぶりはある意味でわかりやすいものである。何しろ「ガチ劉邦」である総大将植村あかりには「補完する余地」が大量に残されている。先日の「カケルフェス」では舞台上で進行が分からなくなってしまった植村のために段原が舞台袖のスタッフから台本を受け取って彼女に渡す「有能」シーンなども見られ、思わず笑ってしまった。ただ、彼女は川村文乃よりも穏やかな性格ということもあり、その「有能」ぶりには全くガツガツしたところがない。対外進出に関しても稲場愛香に代わってダンス学園のメンバーに選ばれたくらいで、それも彼女が地道に磨き上げてきた地力が認められたものである。
段原瑠々の「有能」ぶりが川村文乃のそれよりも「穏やか」なのは、やはり両グループの基調文化の違いが現れているのだろう。川村文乃の「有能さ」の持つ外連味がアンジュルムの「自由」によって強力にエンパワーされたものであるのに対し、段原瑠々の「穏やかさ」は、元々はJuice=Juiceの「統制」によって培われたものである。しかしリーダーが「自由な女神」に代わった時、段原瑠々は彼女の方針を「統制された穏やかさ」をもって粛々と遂行しようとしているのではないかと感じる瞬間に、先日遭遇することになった。
この夏、自分は立て続けにJuice=Juiceのライブを観たのだが、段原瑠々のパワーボーカルが日を追うごとに抑制的なものになっていくのを感じた。時節柄、体調が悪いのではないかと最初は心配したものだが、先日の夏ツアー千秋楽での彼女のMCを聞いて納得した。曰く「最初は『自分が頑張らなきゃ』と意気込んでいたが、若手の成長が著しいのを見て安心して肩の力が抜けた」そうである。自分はそれを聞いて、彼女が若手を立てるために己の持てる力をセーブしていたのだ、と確信した。すなわち「みんな将としてあたしを補完しなさい!」という将の将たる総大将の至上命令を、段原は長らく培ってきた一兵卒的な忠実さをもって粛々と遂行しているのである。この至上命令を遂行するには、自分が総大将を「補完」するために頑張りすぎてはならず、己の持てる力はある程度抑制してでも、若手にも「補完」の機会を与えなければならない。つまり、アンジュルムの「自由」文化によって培われた川村文乃の「有能さ」の持つ外連味が、「自由すぎるアンジュルム」に対して効果的な均衡をもたらしたのと同じように、Juice=Juiceの「統制」文化によって培われた段原瑠々の穏やかさが、今やJuice=Juiceに「自由」をもたらすために機能し始めたと言えるのではないだろうか。
「2017年組」の金字塔(?)的作品「誤爆〜We Can't Go Back〜」
2015年新体制組の太陽と月:りかみことれいれい
上述の通り、アンジュルムとJuice=Juiceには「ベテラン勢のうち比較的実績の浅い2017年組がサブリーダーを務めている」という共通点がある。その理由に川村文乃と段原瑠々の「気骨」があることを既に論じたが、同じように川村、段原両者とほぼ同格の「サブリーダー」層に属する佐々木莉佳子/上國料萌衣と井上玲音についても、様々な共通点と対照点を抽出することができる。
まずこの三人の共通点は、川村-段原組の一昔前、(広義の)「2015年新体制組」であるということである。「2015年新体制」にあっては、つんく♂総合プロデュースとモベキマス体制から脱却をはかるため、改名アンジュルム、カントリーガールズ、両ファクトリーといった具合に、グループの刷新と新設が相次いだ。それにあわせ、当時中学生だった佐々木莉佳子、井上玲音、船木結などがその「フレッシュさ」が強調される形で次々にデビューした。同年に行われたアンジュルムオーディションの合格者である上國料萌衣も、この流れに棹差す形で登場したメンバーであると言ってよいだろう。
そんな経緯もあって「2015年組」には、①デビュー時の年齢がかなり年少、②わかりやすい美少女が多い、③歌かダンス、少なくともどちらかのパフォーマンスレベルが最初から高い、という共通点があった。このうち①の要素は、「3期」の佐々木莉佳子(2001年生まれ)ではなく「6期」の川村文乃(1999年生まれ)がサブリーダーに就任する際の説得力となったはずだ(一方、段原瑠々と井上玲音は同じ2001年生まれでハロメンとしての実績は後者の方が長いが、Juice=Juiceとしての実績から言えばやはり前者が相応しい、といった別の事情がある)。
さて、ここで重視したいのは、②と③の要素である。わかりやすい美少女で、パフォーマンスレベルも高いともなれば、この「2015年組」を各グループの「エース候補」として見なす視線が、かなり早い段階から注がれることになった。また「今までのハロプロにいないタイプのルックス」かつ「今時ハロプロを好むような奇特なタイプ」という掛け合わせが「個性的な美少女」という商品価値に繋がり、ファッションアイコンとして大向こうから注目されることにも繋がった。言うまでもなく、佐々木莉佳子と上國料萌衣の話だ。アンジュルムは「2015年組」の異なったタイプのツインエースを旗印に躍進を遂げたグループなのである。
では、一方の井上玲音はどうか。佐々木莉佳子とは同い年でほぼ同期、上國料萌衣とも各種媒体で同時露出の機会は多く、何かとセットで語られることも多い。歌唱スキルについてはおそらくこの三人で最も優れ、現在は「S Cawaii!」の専属モデルも務めている。現在Juice=Juiceのエースは誰かという話になった時、「井上玲音」と答える人は結構多いであろう。
しかし井上玲音は、佐々木莉佳子と上國料萌衣ほどのファッションアイコンとしてのインパクトを持ちきれていないように自分に感じられる。そして、それが何故なのか、という理由は自分には何となく理解できる。一つには「Juice=Juice」というブランドが「アンジュルム」ほどの商業価値を持ち得ていないということがあるだろうし、もう一方に彼女の佇まいの「ひそやかさ」があるように思える。佐々木のようなカリスマ性、あるいは上國料のような「華」を纏うには、彼女はあまりに常識的でお行儀が良すぎるのである。「りかみこ」が二輪の太陽だとすれば、「れいれい」は月なのだ。そしてこの彼女の在り方は、彼女の何らかの「自己解放」によって変わるような話でもない気がする。確かにこぶしファクトリーから途中加入した彼女は、少なくとも金澤体制下ではまだまだ遠慮が見られていたようには思える。しかし、特に五人体制期のこぶしファクトリー時代のことを考えると、彼女は伸び伸びと過ごしていたにも関わらず、やはり「エース」ではなかったように感じられるのだ。こぶしファクトリーには浜浦彩乃という絶対的な華とカリスマ性を備えたエースが君臨していて、その横で時にいぶし銀的に、時に三枚目的に振る舞う名バイプレーヤーこそが井上の本分であり、彼女自身もその状況に満足していたように思えるのである。
アンジュルムの「自由」はりかみこという二輪の太陽の輝きを増幅させはしたが、それは両者が元々太陽だったから可能だったわけで、月光を太陽光に変換させることは、いかにアンジュルムとは言え無理な話である。植村体制下のJuice=Juiceが「自由」に舵を切り、メンバーの個性をエンパワーする方向に変化しつつあるとしても、やはり同じことであろう。したがって井上玲音には己の本分のままに伸び伸びと活動してほしいというのが、元こぶし組たる自分の願いであり、あまり彼女に「エース」であることを無理に求めようとは思っていない。「月が綺麗ですね」というのは実に素晴らしい言葉なのである。
さて、この話題はこれ以上掘り下げると危険な深みにはまる予感しかしないのでここらで切り上げ、より分析的な話に戻りたい。Juice=Juiceのサブリーダー層二人は、アンジュルムのサブリーダー層三人とそれぞれ世代的な対応関係を持ちながら、彼女たちほど強い対外的な訴求力を持たない、より内向きな実力派である、という話である。リーダーが「将に将たる」タイプで、サブリーダー層が「いぶし銀」的な実力派であるような「黄金比ピラミッド」ーそれは現在の竹内体制下のアンジュルムというよりは、かつての和田体制下のアンジュルムの構成に近いのではないか。そして、もし歴史が繰り返すとするならば、今後Juice=Juiceから現れるであろう対外的な訴求力を秘めたメンバー、すなわち第二の川村文乃、第二の佐々木莉佳子、第二の上國料萌衣は、現在の中堅から若手の中に潜んでいるのではないか。そんなことを頭の片隅に置きながら、次章に移るとする。
中堅層
道産子の「自由」と「統制」:伊勢鈴蘭と工藤由愛
既に繰り返し述べている通り、黄金比ピラミッドにおいてはサブリーダー層と若手層の間で中堅層が「媒介者」としての役割を果たすことが多い。
「媒介者」の役割は大きく分けて二つある。一つは「統制」と「自由」なら「自由」のバネを効かせること。若手層とフランクに交わったり、サブリーダー以上の層を「いじる」ことで、グループに闊達な空気をもたらす役割だ。和田体制期のアンジュルムにおいてこの役割を果たしてきたのが、元々サブリーダー層と年齢的にも経験値的にも同格に近い位置にあった室田瑞希と、自らサブリーダーでありながら素人出身の「外様」であった中西香菜である。Juice=Juiceにおいては室田の盟友である植村あかり、また特に井上玲音のJuice=Juice加入に際しては、サブリーダー層と年齢的にも経験値的にも近く、井上と同じ「外様」出身である稲場愛香が重要な役割を果たしていた(ちなみに稲場は年齢的にも中西と同学年、同じ「外様」出身者として彼女との親交は深い)。
ただし「媒介者」は状況に応じて後輩に「統制」のバネを効かせ、サブリーダー以上の層を援護射撃することもある。これが顕著に見られたのが稲場愛香で、特に工藤由愛や有澤一華に対してはかなりきめ細やかなトーク指導を行うシーンなども見られた。これはJuice=Juiceの基調にある「統制」文化の現れであると同時に、完成度の高いトークスキルをグループ信条としていたカントリー・ガールズ出身である彼女の面目躍如といったところであろう。
さて、竹内体制下のアンジュルムで、この「媒介者(=たけさんをいじれる後輩)」の役割を室田瑞希から継承したのが伊勢鈴蘭である。実は和田彩花以上にリーダーとしての完成度が高い竹内朱莉が後輩の手玉に取られる「たけれら」の構図には、確かにアンジュルムらしい「自由」が継承されている。しかし「自由すぎる」室田瑞希の動きに比べると、伊勢鈴蘭のしたたかな「やってんな」は、かなり「統制」された計算高い動きに見えてしまう部分もある。このことは「伊勢鈴蘭は『天然』か否か?」という神学論争をもたらしているのだが、誰かも書いていたように彼女はその成長過程で「宝塚の娘役」を身体化してしまったために、「天然」のままに「統制された可愛らしさ」を繰り出すことができるのだ、というのが自分の見解である。
伊勢鈴蘭は川村文乃の薫陶を受ける形で、かなり早い段階から手数の多い「プロフェッショナル」なブログを勤勉に書き始めたメンバーでもある。この点も風来坊気質の室田瑞希とは正反対と言える。室田瑞希や中西香菜は制御不能なトリックスターと化してしまうことも多く、時に竹内が本気でイラつき始めるなど冷や冷やさせられる場面もあったものだが、伊勢鈴蘭の「媒介」ぶりは安心して見ていられるのだ。既に述べたように竹内体制下のアンジュルムはグループのお家芸である「自由」を「統制」された分かりやすい形で提示することによって、さらにファンの裾野を広げることに成功している。その意味で、伊勢鈴蘭はまさに新時代のアンジュルムに相応しい「媒介者」と言えるのである。
※ちなみに、まだ加入から間も無くプロファイリングが進んでいないため、本稿ではJuice=Juiceの遠藤彩加里について深くは論じない。しかし「北海道出身の素人」という意味で伊勢鈴蘭と共通点を持つ彼女は、「人の懐にスッと入っていける」「自然体で外連味を残せる」など、かなり伊勢と同じ特性を持ち合わせているのではないかという気がしている。この辺は、もう少しサンプルが蓄積されたら、そのうち改めて論じてみたい。
閑話休題。そんなわけで北海道出身メンには、どういうわけか「存在の圧の強さ」のようなものがあり、伊勢鈴蘭の「やってんな」感や稲場愛香の「あざとさ」は、彼女たちのそうした身体性に由来するように自分は感じている。そして北研出身メンになると、(おそらくは育成の方針として)各自の「持ちネタ」が圧の強さをさらに増幅させる。すなわち太田遥香の「キュウリ」、山崎愛生の「パンダ」、そして工藤由愛の「タコ」である。
工藤由愛と松永里愛の「ゆめりあい」コンビは今やJuice=Juiceの中堅ポジションとなり、グループの中で「媒介者」の役割を果たしている。たとえば工藤が植村あかりに何かとちょっかいを出すのは「自由」のバネを効かせる動きであり、金澤朋子の卒業公演でゆめりあいが若手メンバーの自主練に付き合った動きなどは、「統制」のバネも効かせ始めているようにも見えた。
このうち、自分がまず興味深いと感じるのは後者の方だ。前述の通り「将に将たる」植村あかりが総大将となった現在のJuice=Juiceは、グループ全体が「統制」から「自由」へと向かいつつある。だが「兵」たる若手に植村を補完しうる「将」に相応しい実力を身につけてもらうためには、一定の「統制」も必要である。ところが底が抜けた盤のような総大将植村はもちろん、穏やかな性格の段原瑠々も植村の方針に従い、若手を優しく見守る側に回っているようだし、外様出身の上に控えめな性格である井上玲音も、若手を力強く引っ張るポジションにはなかなか入れないのではないだろうか。ゆめりあいの二人は、こうしたグループ全体の状況を踏まえた上で、自分たちに求められているミッションを見極めているように思えるのである。
ただし、長らくグループ文化の基調が「統制」にあったJuice=Juiceでは、下手に「統制」を強めすぎるとすぐに若手が萎縮してしまう危険性もある。現に稲場愛香は、サブリーダーを勤めた最後の半年間で「自分のミッションは『統制』にある」という使命感を持ってかなり意欲的に若手を指導していたようだが、有澤一華などは稲場の前でかなり萎縮して見えたこともあった。思うに稲場愛香には金澤朋子にも通ずる「ガチ項羽」感があって、均衡を維持しようとして逆方向に均衡を崩してしまう不器用さがあったように思える。この辺は道産子メンならではの「圧の強さ」が裏目に出てしまうというか、当然本人には悪気がないだけに塩梅の難しい話である。
ところが、同じ道産子でも工藤由愛の「圧の強さ」になると全く話が変わってくる。前述の通り工藤は植村あかりを「いじる」ことで、「自由」バネを効かせる働きにも寄与しているのだが、その「いじり」方には謎の過剰さがあり、端的に言えばどう見ても「様子がおかしい」のである。そして植村が自分をいじってくる工藤の「様子のおかしさ」をネタにするところまでが「ゆめあーりー」の醍醐味だ。つまり工藤は植村をいじることで植村の権力性を脱臼すると同時に、その「様子がおかしい」ことによって若手に対しての先輩たる己の権力性も同時に脱臼され、結果的に若手を過剰な萎縮から解放する役割を果たしていると言えるのではないか。そう、こんな「様子がおかしい」先輩が伸び伸びとやっているのだから、自分たちも大丈夫だ、と後輩に思わせることは、かつてのアンジュルムにおいて室田瑞希や中西香菜の果たした役割だったはずだ。
ただし重要なのは、工藤由愛は室田瑞希や中西香菜とは異なり、決して意識して「様子がおかしく」振舞っているのではない、という点にある。彼女は意識レベルでは自己統制化の鬼のような人である。北研以来の持ちネタとしての「タコ」芸を忠実すぎるほどの忠実さで極め続け、毎日のように手数の多いブログを更新し、師匠稲場愛香の薫陶を受ける形で日々自撮りに洗練を重ねている。しかしその強烈な自己統制化、クソ真面目さが裏返る形で、彼女は結果的に何者にも(おそらくは彼女自身にすら)制御され得ない「自由」の怪物(クラーケン)へと進化を遂げ始めているのだ。
工藤由愛は道産子という意味でも、また太田遥香を介した間柄という意味でも、アンジュルムにおける「媒介者」たる伊勢鈴蘭と対になる存在である。そして伊勢が「統制された自由」の体現者であるのに対し、工藤が「自己統制化の末に発現する無限の自由」の体現者である点を考えると、工藤は実のところ伊勢よりも川村文乃に近い存在なのではないか、という気がする。川村の根底に見え隠れする狂気は、工藤のそれとかなり相似形のように思えるし、現に川村の魚仕事と同じような形で工藤にもタコ仕事が舞い込み始めている。工藤は将来的に今の川村のような「変化球」ピッチャーとして対外的な訴求力を持つようになるのではないか、という予感が自分にはあり、その試金石として一度彼女を「アウト×デラックス」に呼んでいただきたいと願っている。工藤の体現する「自由」のあり方を解き明かすにはマツコ・デラックス氏並の知性が必要であり、彼女ならば必ず工藤に「アウト」の太鼓判を押してくれるのではないだろうか。
橋迫軍団の「茶番」、松永軍団の「本気」
さて、伊勢鈴蘭-工藤由愛の「道産子」比較に続くのは、橋迫鈴-松永里愛の「宿命のライバル」比較ということになる。このうち橋迫鈴とその「橋迫軍団」については、最近彼女が「旬なメン」になっているということもあり、日々多くのアンジュルムヲタクが彼女についての優れた論考を重ねている。そこに自分が何か付け加えるとすれば、やはり黄金比ピラミッドにおける「媒介者」という観点から見た、「橋迫軍団とは何か?」という話になる。
まず一つ言えるのは、「橋迫軍団」とは「たけれら」と同じ「統制された自由」であるということだ。竹内朱莉という(実のところ和田彩花よりもツッコミどころの少ない)完璧なリーダーに対し、あえて対抗的な「軍団」を立ち上げることで、「自由」というアンジュルムの文化を再確認するための儀式なのである。実際には橋迫鈴が竹内朱莉に深く心服した「弟子」であることも大きなポイントである。両者の師弟関係だけがクローズアップされてしまうと、「統制」のバネだけが効き過ぎてしまい、橋迫の悪ガキ的魅力も殺されてしまう。だから茶番劇としての「自由」が演じられることによって、グループに均衡をもたらす必要があるのだと思う。
もう一つは、橋迫鈴と9期の関係性である。9期のうち川名凜と為永幸音は橋迫より2歳年長になる。前述の通り、黄金比ピラミッドにおいては若手の間の上下関係は緩い方が闊達な空気が生まれやすい。そしてその際、「年下の先輩-年上の後輩」という組み合わせが両者の上下関係を緩める働きをする、という話も既に書いた。ただしこの関係性は、加入時期が一年以内程度の間隔の場合にのみ有効である(笠原桃奈と船木結/川村文乃、段原瑠々と稲場愛香)。それ以上間隔が開いてしまうと両者の間の経験値の差が大きくなりすぎるため、やはり先輩は先輩として振る舞った方がチームが上手くいくだろう。これも既に書いた通り、階層内での上下関係は緩い方が良いが、異なった階層間には一定の上下関係が必要なのである。
その点、橋迫鈴と9期の加入時期は一年半も空いてしまった上に、特に川名凜などは年長ながらに素人出身ということもあり、橋迫が「先輩」として振る舞う必要のある局面が出てきてしまった。そこで作り出されたのが「橋迫軍団」という枠だったのではないだろうか。この茶番劇に乗ることで、年少の橋迫は臆することなく「パイセン」としての使命を果たすことができるようになり、年長の後輩も抵抗感なく年少の「パイセン」を立てることができるようになったのではないか。つまり「橋迫軍団」という茶番劇は、橋迫より上の層に対しては「自由」のバネ、下の層に対しては「統制」のバネとして、絶妙な均衡をもたらす役割を果たしているのである。
一方、橋迫鈴と同じような立場に立たされているのが松永里愛である。現在、橋迫と同い年である彼女にとって、やはり二つ歳上の後輩が2名(有澤一華と石山咲良)、同い年の後輩が一名(入江里咲)いる。しかし彼女は「橋迫軍団」のような枠を一切必要としない。特に植村体制になってからの彼女は、当たり前のような顔で後輩の指導に奔走している。元々金澤体制下での彼女は、特に金澤朋子、稲場愛香への「だる絡み」が一つの持ち味であった。しかし植村体制になってからというもの、彼女のコミュニケーションのベクトルは一切「上」に向かわず、徹底して「下」に向かっている。それは、植村あかりに対する「いじり」の目立つ工藤由愛と見事な役割分担がなされているかのようである。
それは何故なのかということに関して、自分には一つの仮説がある。それは、Juice=Juiceをよいグループにするには、自由と統制の均衡が必要であることを松永里愛は本能的にわかっている、というものである。その点、金澤体制下のJuice=Juiceは「統制」が強すぎた。だから彼女は金澤朋子と稲場愛香という「項羽み」の強い先輩に狙いを定め、彼女たちを「困らせる」ことで風穴を開けようとしていたのではないか。ところがリーダーが植村あかりに代わり、グループの基調は「統制」から「自由」へと切り替わった。だから彼女がこれ以上リーダーを「いじる」ような仕事をする必要はなくなり、逆に「後輩を指導する」という「統制」の仕事に回り始めたのではないだろうか。
驚くべきは、松永里愛が担当しているのが、常に相棒の工藤由愛よりも「難易度の高い仕事」である点だ。「ガチ項羽」である金澤朋子がリーダーを務め、グループの基調が「統制」にある時に、その逆バネを効かせようとするのは並大抵の根性ではできない。しかも彼女は金澤朋子や稲場愛香に単に反抗しているのではなく、彼女たちに溢れんばかりの愛と敬意を払いながら、グループのために必要なミッションを遂行していた。そしてまた松永よりは一年年長とは言え、年長の先輩が二人いるという状況は工藤にとっても同じであり、彼女としてもためらいが生まれたとしても不思議ではない。松永はそこでも自ら難易度の高い仕事を引き受け、今度は後輩たちの「軍団長」として振る舞い始めているのである。
松永里愛は何故そこまで難易度の高い仕事を平然とやってのけるのか。そして年長あるいは同い年の後輩たちは、何故一切の抵抗感なく彼女に従うことができてしまうのか。それは彼女が生まれながらにして持ち合わせる「王者の相」のなすわざとしか言いようがない。一見無頼風に見えながら公共心に満ち溢れ、常に堂々たる佇まいで時宜に応じた振る舞いを続ける圧倒的なカリスマー今の佐々木莉佳子に匹敵するカリスマアイコンがJuice=Juiceから現れるとしたら、それはやはり松永里愛なのではないだろうか。
若手層
ONLY ONEオーデ組の並行世界
さて、いよいよ本稿も黄金比ピラミッド最下層の「若手」層に行き着いた。アンジュルムでは川名凜、為永幸音、松本わかなの「三色団子」に平山遊季を加えた四人、Juice=Juiceでは有澤一華、入江里咲、江端妃咲の「3flower」に石山咲良と遠藤彩加里を加えた五人。2003-2008年生まれのメンバーで構成され、いずれもグループの中で最大勢力を占める層である。
このうち川名凜、松本わかな、有澤一華、入江里咲、石山咲良の五人は、2020年のアンジュルム「ONLY ONEオーディション」に応募したメンバーである。その意味ではオーディションの合格組がアンジュルムに加入し、落選組がJuice=Juiceに加入したと言えるわけで、両グループの若手は言わば同一オーディション後の並行世界のような趣になっている。
このうち、まだ未知数である石山咲良はさておき、有澤一華と入江里咲のパフォーマンス力は川名凜と松本わかなに引けを取らないものがある。特に一切の研修経験のないはずの入江の歌唱力は出色であり、彼女たちがオーディションに落ちた理由は決して能力の優劣ではないことは明らかだ。では何故なのか、ということを改めて考えてみた時、今回の記事で論じてきたようなことに当てはめてみると、色々と腑に落ちるものがあった。
「システム」と「メカニズム」は違う、という話がある。自生的に生まれたものが「システム」だとすれば、人為的に作られたものが「メカニズム」である。たとえば和田体制期に培われた「自由」は完全な「システム」だが、竹内体制下の「統制された自由」はかなり「メカニズム」の色が強くなってきているように思える。無論人為的な部分が全てというわけではないだろうが、少なくとも「ONLY ONEオーディション」の合格者に関しては、かなり事務所側が考えて、アンジュルムという「メカニズム」を分かりやすく構成しうるキャラクターを選んだな、という感覚があるのだ。
たとえば松本わかなというのはあらゆる意味であまりに出来過ぎたキャラである。ロッキンのステージに何も知らずに足を運んだ客が彼女を見たら、まるで二次元から飛び出してきた名探偵コナンに出くわしたような衝撃を覚えるはずだ。あるいは川名凜がグループ内でポジションを確立する異例の速さはどうだろうか。松本も川名もキャラクターの輪郭があまりにも明確で、メンバーやヲタクが苦心して探りを入れる必要がないのである。一方、Juice=Juiceの選考基準はアンジュルムとは異なり、キャラクター性の部分をあまり重視しないのではないか、という気がする。有澤一華も入江里咲も個性的ではあるが、キャラクターの輪郭という意味では松本わかなや川名凜のような明確さはない。その意味では加入当初の上國料萌衣や笠原桃奈のようなタイム感というか、その味がじわじわと染み出してくるのに少し時間をおきたくなる感じなのである。
ちなみに入江里咲が合格を果たし、有澤一華と江端妃咲の昇格のきっかけとなった2021年のつばきファクトリーとの合同オーディションは、元々は前年の小片リサの活動終了を受けたつばきファクトリーのテコ入れという意味合いが大きいものであった。ゆえに合格者のキャラクター的輪郭の明確さということで言えば、やはりつばきファクトリーの加入メンバーの方に力点が置かれていたのである。そしてその後つばきファクトリーがV字回復を果たした一方で、「3flower」は高木紗友希の活動終了と金澤朋子の活動休止と卒業に至る激動の中で、キャラクターの輪郭が明確な「つばき4」の影に隠れた存在になってしまったように思う。しかしその悔しさを包み隠さず、かと言って腐ることもなく実力と持ち味をじわじわと開花しつつある「3flower」の今後を自分は楽しみにしている。そこに咲く三つの花は造花ではなく、真に自生的な野生の花になることであろう。そのことを象徴する動画を下記に置きたい。
※ここで見られる入江里咲のボーカルRECを観て、自分は彼女の歌声の力強さに舌を巻いたものだが、当日のTL上ではあまり話題にはなっていなかったように感じる。その理由というのが、おそらくは同時に放映された「つばき4」と川名凜の映像だったというのは、何か象徴的なものを感じるのである。
江端妃咲は新世界の\神/になる
さて、ここでJuice=Juice若手層を統括する軍団長、松永里愛の話に少し立ち返りたい。
松永里愛が奔放に見えて実にきめ細やかな対人ムーブをする、という話は既に論じたが、その絶妙さは「3flower」の三人の扱い方においても顕著に現れている。江端妃咲が「松永さんはいつになったら私に対するツンデレが無くなるんでしょうか?」といつもプリプリしているように、ざっくり言えば「有澤/入江アゲ、江端サゲ」が松永の基本的な姿勢である。
この姿勢は、実に理に適ったものだと自分は思う。3flowerの中では、有澤一華は常に自信のなさを口にしているし、素人出身の入江里咲はやはり不安は大きいだろう。一方江端妃咲は年少のうちに早々と研修生から昇格を果たしたエリートであり、いい意味での図々しさ、他の二人にはない天性の「華」がある。三人をバランスよく底上げしたいのであれば、誰をアゲて誰をサゲるかという点でこれ以上の最適解はない。しかし松永里愛も時々江端に優しくして餌をやるものだから、これが完全に「モテ男のムーブ」になって江端が熱を上げ、松永がまた肩を竦めるというスパイラルが回り始める。この一連の顛末を自分は「王と妃」と名付けて楽しくヲチし続けている。
それはさておき、自分は江端妃咲をJuice=Juice躍進の鍵を握る存在としても大注目している。前述の通り、事務所の方にもJuice=Juiceをアンジュルムのようなキャラクター集団としてプロデュースしていく心算はあまりなさそうである。それよりは安定した歌唱力に井上玲音のボイパや有澤一華のバイオリンなどの飛び道具を交え、音楽に特化した集団に育て上げていくつもりであろう。実際『terzo』のポップアルバムとしての完成度は凄まじいものがあり、特に「ノクチルカ」や「雨の中の口笛」といった楽曲群からは、Juice=Juiceというグループが新境地を開拓しつつあることを感じさせられた。そして自分はその方針に異論はない。キャラクター的な部分に関しては、作られた「メカニズム」よりも自生的な「システム」の方が見ていて心踊るものがあるからだ。
ただし、そのグループのあり方は完全にハロヲタに閉じたものではなく、常に外部からの視線を一定程度は惹きつけるものであった方が良い。そして別記事で書いた言葉を改めて用いるなら、今「狭い大乗」に最も特化したグループが竹内体制下のアンジュルムだとすれば、和田体制下のアンジュルムのような「広い小乗」の可能性を最も秘めたグループがJuice=Juiceだと自分は感じている。だがそのためには、アンジュルムのような「刺客」を野に放つ必要があるだろう。そしてその際、鍵を握る若手がいるとすれば、江端妃咲なのではないかと思う。
江端妃咲は今や工藤由愛をも凌ぐ勢いで植村あかりをいじり始め、松永里愛をも閉口させるほどの悪ガキぶりを発揮しつつある。その「天然もの」の爛漫さは、植村体制下の「自由」の申し子と言えるのが彼女なのだ。この「申し子」感というのは2016年の夏、和田体制下のアンジュルムにおいて最初の「黄金比ピラミッド」が完成した時の上國料萌衣と重なる。川村文乃のような変化球型の刺客が工藤由愛、佐々木莉佳子のようなカリスマ的風格を纏うタイプの刺客が松永里愛だとすれば、上國料萌衣のような「天然」型の刺客になりうるのが江端妃咲である。この布陣が完成した時、Juice=Juiceというグループは「黄金比ピラミッド」を真の意味で己の血肉となし、アンジュルムのように永遠の命を手に入れることであろう。あとで終章にまとめる通り、グループが「永遠の命」を得るためには、グループのみならずファン層も含めた新陳代謝が必要になってくるからである。
おわりに:一度めは悲劇として、でも二度めは……
さて、二万字を超えるこの記事を書き始めてしばらく経った頃、加賀楓の卒業発表に伴う愚痴垢騒動が持ち上がった。
実はこの記事を書くために「黄金比ピラミッド」の図を作っていた時、試みに「逆ピラミッド」の図を作ってみたところ、どうも娘。の愚痴垢が大騒ぎしそうな感じだなあ、ということは感じていた。そうこうしているうちに愚痴垢騒動が持ち上がったため、意を決して予定よりも早く本稿を発表し、自分の考えを世に問うことに決めた。
今回「黄金比ピラミッド」を称揚するような形で論を進めてはきたが、忘れてはならないのは、このピラミッドは一度めは必ず悲劇の産物として生まれる、ということである。何故ならアイドルグループは同期数名以上でデビューするということが多い以上、それが最終的にピラミッドの頂点を占める一名までに減るということは、穏やかではない理由でグループを去るメンバーが出てくる可能性が高い、ということだ。たとえば今回主題としたJuice=Juiceでは、金澤朋子と高木紗友希はかなり不本意な形でグループを去らざるを得なかったし、アンジュルムの「黄金比ピラミッド」の切っ掛けとしては、4スマがいきなり半分になった、という事件があった。
ところが二度めは必ずしも「悲劇」とは限らない、ということは、アンジュルムの歴史が指し示している。最初の黄金比ピラミッドの頂点を占めていた和田彩花が去った後、「サブリーダー」階層の勝田里奈、中西香菜、そしてそれに準ずる位置にいた室田瑞希が続々とグループを去り、ヲタクは動揺した。だが、それが悲劇だとは自分は感じなかった。それは一度理想の形を経験したアンジュルムというグループが古い皮を脱ぎ捨て、竹内朱莉を頂点とする新しいピラミッドへと生まれ変わる壮大な変態を見ているように思えたからである。
さて、とは書いてはみたものの、グループを構成する個々のメンバーにはやはりそれぞれの人生がある。グループにとっては「古い皮」に見えるメンバーたち一人一人にも、その後の人生というものがあるのだ。そしてアンジュルムというグループの二度めの脱皮が何故「悲劇」にならなかったのかと言えば、卒業していくメンバーたちが不本意ではない形で次のステージへと旅立つことが可能な環境が既に整っていたからである。それは和田彩花が、福田花音が、田村芽実が切り開いた道であり、旅立ったメンバーを応援し続けるアンジュルムのヲタクが作り上げた文化でもある。この環境が続く限り、アンジュルムという黄金比ピラミッドは無限の脱皮を繰り返す永遠の命を保ち続けるはずであり、同じ環境を整えることができれば、Juice=Juiceもそれに続くことができるはすだ。そして、その根拠が何かと言えば、そもそも「黄金比ピラミッド」とは、中澤裕子という極端に年長のメンバーがワントップを務めていた「黄金」期モーニング娘。の形そのものである、という事実に他ならない。
では、何故今のモーニング娘。は逆ピラミッドの袋小路に陥り、無限の脱皮が滞っているのだろうか。答えは簡単で、今のモーニング娘。の周りにはそのための環境が整っていないからだ。アンジュルムのようにメンバーが安心して卒業できる状況にはないからである。異常気象が続く時、蝉の幼虫は地上に出て成虫に孵化する時期を見送るという。繰り返すが「古い皮」も人間であり、その後の人生があるのだ。では、そうした環境を整えられない事務所が悪いのか? 自分はそれも根源的な問題ではないように思える。それを証拠に、アンジュルムのOGたちは事務所などには頼らず、それぞれの道を突き進んでいるではないか。常々言っているように、ヲタクが金を出さなければ事務所は回らない。一番「偉い」のはヲタクなのである。かつてナポレオン・ボナパルトは軍を動かす時に「今は状況が悪いです」と言った部下に向かって、「何が状況だ? 私が状況だ」と言い返したそうだが、アイドルグループにとってはヲタクこそが最大の「状況」なのである。
考えれば簡単な話である。年長のメンバーに向かって「お前が邪魔だから早く出て行け」と声を荒げるヲタクを見て、彼女たちはどう思うだろうか。メンバーがグループを旅立つに当たって必要なものは二つあって、一つは「自分はどこでもやっていける」という自信であり、もう一つは「ファンはどこにでもついてきてくれる」という確信だ。愚痴垢の行為は、メンバーのこうした自信と確信を挫く所業である。そして年少のメンバーはそれを見て、早々とそんなヲタクとは手を切って、新しいファンを獲得すべく次の道へ進もうと考えるであろう。このnoteを読んでいる人にモーニング娘。の愚痴垢がいたとすれば一言言っておきたい。永遠の命を手にしたかに見えたモーニング娘。を殺そうとしているのは、あなたなのである。それともモーニング娘。が本当に永遠の命を手にしているとするなら、彼女たちは新たな進化を遂げるため、愚痴垢などという「古い皮」はいよいよ脱ぎ捨てる時が来ているのかもしれない。「古い皮」も人間? 他人のことを人間扱いすることを知らない愚痴垢なぞ、どう見ても人としては出来損ないではないか。そんなものはとっとと庭に掃き捨て、蟻の餌にでもしてしまった方がよいのである。
※ということで、愚痴垢がボコボコにされる大アンジュルム歌劇小説『阿修羅の偶像(アイドル)』はこちらからお読みください。公開は9月25日(日)まで!
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