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阿修羅の偶像(アイドル)プロローグ第1節

登場人物一覧

プロローグ:厭穢欣浄(えんえごんじょう)

多聞天像(京都国立博物館)

第1節

 空があまりにも広く、保(たもつ)は軽く目眩すら感じてしまう。
 東青海駅のロータリーに降り立って以来、世界と自分の間に遮るものが少ない。視界の遠くには、抜けるような青い空と山の端が長い稜線を形作っている。
 自然の気に当てられたまま、保は改めて地上に視線を落とした。そこには寂寥とした光景が広がっている。かつてはささやかな駅前の賑わいをなしていたであろう店々には、ことごとく休業中の貼り紙が貼られていた。車通りの少ない都道に設置されたあまり意味をなさない信号を渡ると、道の左右にはちらほらと田畑が現れ、保の引きずるスーツケースの音だけが辺りに響いていく。
 その時、保の体が凍りついた。
 少し先で道が二股に分かれている。あの先生の言っていた通りだ。この道は古い街道で、右に行けば上野寛永寺、左に行けば川越大師という分岐点を示す道標が置かれた岐に、一体の石仏が立っていた。
 先生の話では、これは水天という名前の神様で、日本の民間伝承では「青面金剛(しょうめんこんごう)」とも呼ばれるらしい。いかめしい顔をした六本腕の小さな石仏で、疫病を払う神様という話だ。保もコロナ禍になるまでは気にとめなかったのだが、去年から街はずれの三叉路や十字路でお供え物を集めているのが目につくようになった。いや、保の場合には、「耳につくようになった」と言った方が正確かもしれない。
 保は水天の足元にげんなりと視線を向ける。案の定、水天に踏みにじられた小さな鬼が、蚊の鳴くような声で咽び哭いているのだ。
 この哭き声が聞こえるようになったのは、去年の秋頃である。最初は、どこかで赤ん坊が泣いているのかとも思った。ところが哭き声の出処を探っていくと、いつも決まってあの石像の足下の鬼に辿り着くのである。 
 もちろん、最初は自分の頭がおかしくなったのかと不安にもなった。だがここ半年ばかり、保はただでさえ意識が朦朧として、そうした不安に対してすら鈍感になっている。あの時、たまたま大学に非常勤で来ていたあの先生の講義を履修しなければ、本格的に心を病んでいったのかもしれない。最後の講義の後、一念発起して相談のメールを送った保に対し、あの先生は、
「それは興味深いですね」
 と返信してきたのだ。それは保がまともな精神状態だったなら確実に腹を立てるようなリアクションだろう。だがあの時は彼の言葉の軽さが救いに感じられるほど、保の心は追い詰められていた。あれが切っ掛けとなって、兎にも角にもこの場所に来ようと思える程度には精神が持ち直したと言える。
 保は小さな鬼をじっと凝視する。今では多少慣れたとはいえ、実に嫌な哭き声である。恐ろしいという気持ちはだいぶ薄れた。ただ、胸の奥を抉られるような不快感を呼び起こす声なのだ。
 その時、保は横に気配を感じた。
 若い女性が足を止め、石像に興味深げな視線を注いでいる。
「あっ!」
 保は反射的に声を出してしまった。場違いによく通る保の大きな声を聞いて、女性はビクッと身を縮めると、
「あ……すみません!」
 そう言って目を丸くしながら、
「邪魔しちゃったみたいで……」
 身を小さくし、ペコリと頭を下げた。その様に保の方もいたたまれなくなって、
「い、いや、こちらこそすみません! どうぞごゆっくり」
 大きな体を折り曲げて頭を下げると、保はそそくさと三叉路の左の道を歩き始めた。

    ——どうして自分の声は無駄にデカいのか……
 改めて保は自責の念にかられる。コントロールしようと心がけてはいるのだが、先ほどのように不意打ちを食らうと抑えが効かなくなってしまう。ただでさえ図体がデカくていかつい顔をしている上に、声までデカいとなれば怖がられて当然だ。
 何しろ最近はずっとこんな調子である。元々保は他人とのやり取りが器用な方ではなかったが、特にここ一年ばかりは、自分という人間がただ存在するだけで他人に不快感を与えているのはないか、という思いを拭い去れない。こんな人間は、なるべく早く他人とあまり関わらないで済む場所に逃げ込んでしまった方がいい、とすら思うようになった。
 保は少し足を早めた。道なりにしばらく坂を下ると、小川に橋が架かっている。その橋はちょうど二つの小川の合流点になっていて、そのうちの細い方の流れは正面の山の方から流れて来ている。先生に言われた通りなら、この小川を遡れば目的地に着くはずだ。
 そのまま小川に沿って歩くうちに、先ほど遠くに見えていた山並が行く手を遮るように目の前に迫ってきた。東京都の西の果ては山の中だという話を知ってはいたが、ここまでその様を目の当たりにするのは初めてのことだ。早春の山々はまだ緑が薄いが、山林は青い香りを漂わせながら、保の視界を覆い始めている。その只中、行く道の右手に古びた山門が見えた。ひび割れた看板には、「羅睺(らごう)院」との文字がある。
 改めて足元を見ると、遡ってきた小川がささやかな水流として山門の中から流れ出ている。砂利道を潤しながら流れるサワサワとした水音が、この聖域の清らかさを静かに物語るようで、保はホッと人心地つけた気分であった。
 「駆け込み寺」とはよく言ったものである。保は逃げこむように山門の中へと足を踏み入れた。

 左右を竹林に囲まれた参道をしばらく行くと、開けた境内に出た。正面には小さな御堂があって、その前には庭木の間に種々の仏像が置かれた庭園が広がっている。この境内は谷戸のどん詰まりに位置しているようで、御堂の裏手は鬱蒼とした山林に覆われていた。
 先生に言われた通り、向かって左手には今時珍しい平屋建ての母屋の玄関口が見えた。チャイムを鳴らすと先生の声がしたので、保は「八草です」と名乗る。「おお、少し待ってくれ」と言われたので、そのままなんとなく御堂の方に目をやった。
 御堂の裏で、キラリと水面が光っている。
 すっぽりと山に囲まれた境内に、まだ「奥」があることに保は少し驚いた。よくよく目を凝らせば、御堂の裏手から赤い欄干のついた橋が池の中ほどを突っ切り、その奥にある小さな社まで延びているようだ。
「あのう、すみません」
 その時、背後から呼びかける声がした。
「天海先生の御宅は、こちらでよろしいんですよね」
 振り向くと大きな黒い瞳が保を見上げていた。先ほどの女性である。肩のあたりで切り揃えられた黒髪は実に艶やかで、一見して漆塗りの彫像のような質感があった。
 そして顔が小さい。背の高い保から見れば見下ろす形になるが、女性にしてはすらりと手足が長く、決して小柄ではない。マスクに覆われた鼻筋や顎の滑らかな曲線などを改めて見ても、彼女が途方もない美人であることが窺い知れる。
「あ、はいっ!」
 またしても無駄にデカい声が口をついて出てしまった。すっかり動転した保は、
「お寺の方ですか?」と言ってしまう。
「え?」
 女性の目が丸くなった。瞬間、保は己の愚問を後悔する。すると、彼女の大きな目がくしゃっと笑みで細くなり、
「それは私が聞きたかったことですよお」
 と、彼女が言ったその時、
「ありゃ?」
 玄関の戸がガラリと開き、先生のとぼけた声が響いた。
「ダブルブッキングか……すまんすまん、完全に俺のミスだ」
 先生はバツが悪そうに自分の頭をポンと叩くと、彼女に手を合わせて、
「すまんがここでちょっと待っててくれ」
「はい」
 きょとんとする彼女を振り返る間も無く、先生は忙しげに保に手招きして、
「お前さん、先にちょっと来てくれ。うん、荷物はとりあえずその辺にうっちゃっといて」
「は、はい」
 保は慌てて先生に続く。
「いや、本当にすまんな。お前さんには一時間早く来てもらって、先に色々と勝手を説明しとくつもりだったんだが」
 先生はせかせかと長い廊下を歩きながら、
「最近、物忘れがひどくなった。人の体というものは、実に簡単に老いるもんだ。いつまでも慣れない」
 そう言って皮肉な笑みを浮かべる。先生の髪にはだいぶ白いものが混じり始めているが、洒落た眼鏡のフレームには青いカラーが入っている。ダボっと羽織ったラフなスウェットも、年齢より若々しい印象を与えていた。住職の傍ら大学で非常勤講師を務めていることもあり、並の僧侶より世間ずれしているところはあるのかもしれない。
「そんなわけで、すまんが細かいことは後だ。まずは初仕事をお願いしたい」
 廊下を突き当たると、大きな炊事場のような場所に出た。
「客人にお茶を入れてくれ。湯沸かし器はここ。茶葉はあそこ」
 先生は手際よく指示を出していく。
「茶菓子はあの辺から適当に見繕ってくれ。チョイスはお前さんのセンスに任せる。賞味期限内なら何でもいい。俺は先に客人を社に案内してる。本堂の裏に池があるんで、橋を渡って社に来てくれ。あ、あと、『神様』へのお供え分も忘れずに頼む。じゃ」
 口早にまくし立てると、先生はまた勢いよく玄関に向かう。その背中をしばし呆然と見送った後、保は改めて炊事場に目を向けた。
 炊事場の床には所狭しと段ボール箱が並んでいる。果物から米袋、さらには地酒の瓶がぎっしり詰まったものもあった。そして先生が指差した辺りの段ボールの中には、種々の菓子折りが無造作に投げ込まれている。何を選ぶかは一任されているようだが、少しは若い女性の口に合うものを選んだ方がいいように思えた。
 目星をつけた洋菓子の詰め合わせを取り出すと、保はお湯を沸かしに向かった。

 本堂の裏に回ると、小さな水門があった。先ほど保が遡ってきた小川は、この水門を通して池から流れ出しているようである。
 保が渡り始めた石橋の両側には、澄み切った池の水が新緑を映してエメラルド色に輝いている。時折ボコリ、ボコリと水面に大きな泡が上がるのは、山の水がふんだんに湧き上がってきている証拠だろう。
 橋の終着点である中の島には、大きな窓付きの扉を備えた小さな社がある。保が窓越しに覗くと、先生と目があった。
「よお、来たか」
 先生が扉を開き、保を招き入れる。扉は小さく、長身の保は少し肩をすぼめながら中に踏み入った。先ほどの女性は小さな椅子に腰掛けていて、「ども」と言いながら、保に向かって小さく会釈をする。
「さて、全員揃ったところで、」
 先生は薄く微笑むと、社の壁に取り付けられた観音開きの扉の金具に手をかけ、
「ご開帳といこう」
 扉を静かに開けた。女性の口から「おおー」とひどく無邪気な感嘆の声が漏れる。
「こいつがうちの御本尊だ」
 先生は得意げに、木彫りの仏像を眺め回す。
「あ……」
 思わず保の口からも声が漏れた。
 その仏像は若々しく精悍な面構えをした正面の左右に、いかめしい鬼面と優しげな女性の面を備えている。六本の腕と二本の足は現代のファッションモデルのようにすらりと長い。
「こいつがうちの水天様だ。もっとも、日本の青面金剛では横の二面は省略されて一面になってるのが多いんで、」
 保はゴクリと喉を鳴らす。そういえばさっき見た石仏は、顔が一つしかなかった。すかさず保は木像の足もとを見たが、その下に鬼の姿はない。
「うちのみたいに三面になってるやつは、わざわざ『三面大黒』ということもある」
 と、先生が続ける。
「左右の二面は、鬼面が多聞天(たもんてん)、女面が弁財天。そして『水天』とはこの正面の顔だ。多聞天、弁財天を従える戦いの神、またの名を——」
 先生がちらりと女性を見ると、女性は「阿修羅」と呟いて、
「面白いですね!」
 息を弾ませながら語り始める。
「多聞天の顔は、他の明王様や仁王様みたいに強そうな顔じゃないですか。弁財天も、いわゆる弁天様の可愛らしい顔で、どちらもよく見る仏像さんっぽいのに、水天様だけは明らかに顔のデザインが違うんです……あの、いつかシルクロード展で観た仏像さんみたいな」
「そう、西域の神の顔だな」
 ぼんやりと二人の話を聞きながら、保は改めて水天の顔を見つめた。彼には仏像のことはよくわからないが、切れ長の大きな目、精悍な口元、尖った顎などは、確かにエキゾチックな雰囲気を漂わせている。
「これは、参考になりそうです。ありがとうございます!」
 女性は子供のように声を弾ませた。
「それはよかった。可能なら撮影も許可したいんだが、さすがに秘仏扱いでね。申し訳ないがスケッチでお願いしたい。あと、観音扉の中は聖域なんで手を入れないようにしてくれ。気をつけないと、手を異界に持ってかれちまうぞ」
「わかりました!」
 そう言って女性はトートバックからごそごそとスケッチブックを取り出す。
「ゆっくりしていってくれ。では、我々はおいとましよう。あ、お前さん、せっかくなので水天様にお供えを——」
 そこで先生は保の持っている御盆に目を落とし、からかうような笑みを浮かべる。
「ははっ、仏前に洋菓子か。こいつは斬新だな」
「あ……す、すみません」
 保はたまらず頭を下げると、女性をちらりと見て、
「彼女の口に合うものを、と思ってつい……」
「ははっ、いいじゃないですか」
 女性はにこにこ笑いながら御盆を覗き込んだ。
「西域の神様ですよ。きっと気に入ってくれるはずです。おお、これはワッフルですか。美味しそう」
「確かにそうだな」
 先生は小さく頭を振ると、もう一度保の方を見やって、
「じゃあお前さん、お供えしてくれ。そしてしっかり挨拶もしておくんだ」
 意味深に微笑むと、言った。
「このたびは、よろしくお願いします、とな」

「寝泊まりはここを使ってくれ」
 先生が障子をガラリと開けると、十畳ほどのガランとした床の間が広がっている。
「広いだけで何もないが許してほしい。布団はあそこから出して使ってくれればいい。トイレと洗面所は廊下の突き当たり。風呂はさっきの炊事場の横」
「は、はい」
「とりあえず作務衣に着替えてゆっくりしててくれ。じき家のものが戻って色々と教えてくれると思う。じゃあ、俺はちょっくら今夜のおかずを調達にひとっ走りしてくる。客人が何か言ってきたら、すぐに戻ると伝えてくれ……あと、これはお前さんが気にならなければ、の話だが、」
 先生は両手を頬に当てると、
「この境内ではマスクをする必要はない」
「あ……」
 保に口を挟む間髪を与えず、先生はせかせかと部屋を出ていってしまった。
 先生の精気に圧倒されたまま、思わずふうと溜息をついた。言われてみればあの先生がずっとマスクをつけないままだったことを思い出しながら、保はマスクを外す。今日は実家を出てから二時間近くマスクをしてきたこともあり、ものすごい開放感である。鼻の奥には畳の匂いが忍び込んで来る。懐かしい香りだ。言われた通りに床に置いてあった作務衣に手を通す。小柄なあの先生が用意したものだけあってか、大柄な保が着ると少し窮屈だ。
 さて、しばらく待てとは言われたものの、このまま部屋の中にいても手持ち無沙汰に感じたので、保は改めて境内に出てみようと玄関の戸を開けると、
「おっと!」
 高い声が響いた。紺色の作務衣を来たショートカットの女の子が、果物の入った籠を抱えたまま目を見開いている。
「あっ!」
 保はまたしても反射的に大声を出してしまった。すると女の子はきょとんとした顔のまま、
「でかっ」
「あ……うるさくてすみません!」
「いや、背が」
 女の子はそう言って、生真面目な顔で保の長身をしみじみと眺め回した後に、
「ひょっとして、ヤクシャさんですか?」
「え?」
 保は一瞬戸惑ったが、自分の苗字は「八草」なので、少し噛んだのだろうと思い、すぐに「はい」と首肯する。
「ああ、やっぱりそうですか」
 女の子は少しホッとした顔になって、ぺこりと頭を下げた。
「私、住職の姪の沙羅と言います。このたびはヤクシャさんに来ていただいて本当に助かります。よろしくお願いします」
「あ、こ、こちらこそ、よろしく——」
 やはり彼女は「ヤクシャさん」と言っている。その顔つきから「ヤクザ」とあだ名をつけられてからかわれることは今まで何度もあったが、「ヤクシャ」は初めてである。
「叔父から聞いていると思いますが、ヤクシャさんの主な仕事は掃除です。今日明日は境内と本堂を清めます。その後明後日からはまた新しい人が加わって、『街の掃除』もしてもらうそうです」
「あ、はい」
 先生からは、まずは二ヶ月間寺男として働いてくれないか、という話をされていた。この先に何の展望もない保は二つ返事で引き受けはしたが、仕事の内容をここまで具体的に聞いたのはこれが初めてである。町内清掃みたいなことまでやるというのは、少し驚いた。
「お寺のことであれば、わからないことは何でも私に聞いてください。それでは早速……おっとっと、」
 沙羅は果物籠を見て目を丸くすると、
「その前にこれを置いてこないと」
 パタパタと玄関に駆け込んでいった。年の頃は保より少し下くらいか、抜けるように色が白く少年のような体つきをした女の子だ。きれいな顔立ちをしているが、化粧っ気は全くない。
「すみません。お待たせしました」
 やがて沙羅は両手にバケツを持って玄関から出てくると、そのまま境内の隅を流れる沢の方にとことこと歩いていき、
「まずは、石仏からです」
 そう言って、バケツを沢に付け、とくとくと水を入れていく。
「ヤクシャさんは弥勒(みろく)様をお願いします」
 バケツと雑巾、たわしを受け取って、保は沙羅の指差す方を見る。庭園のちょうど中央の石台の上に石仏が鎮座していた。
 仏教の知識に疎い保だが、「弥勒」という名前はあの先生の授業でも聞いた。何でも今は遠いどこかで修行中だが、やがて戻ってきて世界を救う偉い仏様なのだという。
「弥勒様はうちの仏像達のリーダーです」
 沙羅はにこりともせずにそう言うと、庭の片隅に鎮座している別の仏像を指して、
「せっかくなので他のメンバーも紹介します。音楽の得意な神様ばかりです。あれがグループ一のダンスメン迦楼羅(かるら)。あれがリズム感抜群のドラマー乾闥婆(けんだっぱ)。あれが乾闥婆の相棒、キーボーディストの緊那羅(きんなら)」
 沙羅が淡々と紹介していく石像は、すべて弥勒を取り囲むように庭の隅に配置されている。それらは、確かにリードボーカル弥勒の従えるバンドのようだ。
「そして、」
「どうも、ベース担当の五部浄(ごぶじょう)だ」
 その時、沙羅が指差した仏像の陰から、先生がぬっと姿を現した。

彌勒菩薩像(広隆寺)
迦楼羅像(三十三間堂)
乾闥婆像(三十三間堂)
緊那羅像(三十三間堂)

「慌ただしくてすまんな。二日後に、水天様が二か月に渡って降臨して人間界を『大掃除』する大庚申祭が始まる。お前さんには、この『大掃除』に手を貸してほしい」
 なるほど、と、保は得心した。何しろ後が無い状態で、取るものも取らずこの寺に転がり込んできたわけだが、どうやらこの寺の大掛かりな宗教行事の手伝いという話のようだ。
「わかりました。こちらこそよろしくお願いします。本当に助かります」
 そう言って保は深々と頭を下げる、
「いやいや、助かったのはこっちの方だよ」
 先生は慇懃にかぶりを振りながら、
「ちょうど一人手が足りない、と思っていたんだ。だが、お前さんでヤクシャが揃った。あと、他にも頼みたいことはある。何しろ今回は二千年に一度の祭、『人ならぬ』者どもを幅広く集める必要がある。お前さんには、」
 保を指差して言った。
「鬼どもを集めてもらいたい」
「え?」
 突拍子も無い話に、思わず保が目を瞠った時、背後から声がした。
「すみません」
 先ほどの女性が本堂の方から歩いてきて、ぺこりと頭を下げる。
「本当にありがとうございました」
「おお、仕事は捗ったか?」
「とりあえずラフスケッチはできましたが、まだもう少し細かく見ていきたいですね。でも、今日はこれから用事があるので失礼します。ご開帳は二ヶ月間ですよね?」
「今夜から明日は山門を閉めるが、明後日からは二ヶ月間、いつでも大丈夫だ。来たら寺の者に声をかけてくれ」
「わかりました!」
 女性は子供のような笑顔を浮かべると、保と沙羅に向かって「よろしくお願いします!」と深々と頭を下げた。
「まあ、もっとも、」
 と、先生が意味深な笑みを浮かべる。
「次に来る時は、もっとすごいものが見られると思うがな」
「え? どういうことですか?」
「それは来てのお楽しみだ」
「えー、なんだろう? まだ秘仏があるってことかな……まあ、とにかく、楽しみにします! では、本当にありがとうございました!」
 女性はもう一度頭を下げ、スタスタと参道を歩いていく。その後ろ姿も凛として美しく、保はしばし見惚れてしまった。
「彼女は非常勤先の女子大の大学院生でね」
 保の気持ちを見透かしたように、先生が口を開く。
「仏教美術の研究室で、阿修羅像についての修論を書きたいとのことだ。インド・イラン神話まで遡ってのなかなか野心的な研究になりそうだよ」
「そう、なんですか……」と、見透かされた保が気恥ずかしさのあまり言葉を探している横で、「あの人、めっちゃ綺麗だなあ」と沙羅が呟いた。
「でも、あの人なんか見覚えあるんだよな……」
 そう言って、沙羅が首を傾げる。
「ねえ叔父さん、あの人何て名前?」
「忘れた」
「へ?」と、沙羅が目を丸くした。
「垂迹(すいじゃく)の名など、いちいち覚えていたらキリがない」
「またわけのわからないことを……」
 沙羅は頭を振る。すると先生はくっくと笑いながら、
「我々の今生での名前など、今生限りの垂迹に過ぎないということだよ。次に転生すればそれで終わりだ。『本地(ほんじ)』がわかるなら、それで十分」
「じゃあ」と、沙羅は唇を尖らせて問う。「あの人の『本地』はなんなの?」
「それは蓋を開けてのお楽しみだ。さて、山門を閉めてくる」
 先生はそう言って、肩を笑わせながら参道を歩いていく。
「いつもあんな調子なんだから……」
 沙羅は口元を歪めながら保を見た。
「ヤクシャさんも叔父の言うことは無視していいですよ。無駄に坊主じみて思わせぶりで、何を言いたいのか全くわからないんです」
「は、はあ……」
「とりあえず、私たちは掃除を続けましょう」
 沙羅は雑巾をぎゅっと絞り、石像の傍へと向かった。保もまた、弥勒像の雑巾がけに戻る。が、気になることはあった。
 保の役割は「鬼を集める」こと——先生はそう言っていた。自分としては鬼の哭き声が聞こえるのは最近のストレスで精神がやられてしまったからだと思っていたのに、話を真に受けられても困ってしまう。
 ただ、坊さんというのも結局は来世だの浄土だのと迷信に基づいた商売ではある。こんなことなら、最初からカウンセラーにでも頼った方がよかったのかも——そんなことを考えながら弥勒像をぼんやり見つめているうちに、保ははたと瞠目した。
 この弥勒像、先ほどの女性とよく似ているのだ。
「あなばだった!」
 その時、沙羅が素っ頓狂な声をあげた。
「あなばだった! こんなところにいたの? 心配してたんだよ!」
「ど、どうしたんですか?」
「この子が、阿那婆達多(あなばだった)が出てきたんです。二、三日見かけなかったんで、本当に心配してたんですよ」
 沙羅の掌には、一匹のトカゲが乗っている。
「この境内を住処とする小龍の一柱です。他には難陀(なんだ)、跋難陀(ばつなんだ)、カナヘビの和修吉(わしゅきつ)、徳叉迦(とくしゃか)、それとヤモリの摩那斯(まなし)と優鉢羅(うはつら)」
「……全部に名前つけてるんですか?」
「はい」
 沙羅はそれが当然だ、という顔で首肯すると、
「畜生道を統べるのが、私の仕事ですから」
 そう言ってトカゲを地面に戻すと、また粛々と石像を磨き始めた。

 そんなこんなで保の最初の一日は石像を磨き、境内を掃き清めて終わった。
 夕餉は、先生が近所の釣り人から貰ったニジマスを焼いて食べた。寺には近所の人たちから何かと贈り物が集まってくるようで、米も味噌も漬物も、寺に一年籠城しても保つくらいの蓄えはあると先生は豪語していた。とりあえず寝食に困らないというのは、本当に素晴らしいと保は心から思う。保が昨日まで過ごしていた世界では、想像もつかないような話だ。
 コロナ禍の東京都心での生活は、日々の糧を得るだけでも一苦労なものになりつつある。
 感染者が増えれば世の中の経済活動も抑制され、仕事の口も減る。さらに現場で感染者が出るので人手が減った上に手間も増え、ただでさえ割の悪い仕事が一段とハードになる。
 ストレスから人心も荒れているものだから、人々の苛立ちはより立場の弱い者に向かう。一時期保がやっていた食事宅配サービスのバイトでも、客の理不尽なクレームは日を追うごとに酷くなっていた。だが、それでもそうした仕事を続けざるを得ないのは、人が生きていかなければならないからである。寝る場所と食べるものを得なければならないからだ。
 そしてそんな生活を続けていると、みな同じような顔つきになっていく。一様に貼りついたような笑顔を振りまくようになる。働き者であることをアピールしつつ、それでいて面倒ごとは避けなければならないからだ。その代わりに、溜め込んだストレスを裏で自分よりもさらに立場の弱い者に発散するのである。そしてそういう人たちの履け口にならないよう、人々にはさらなる愛想笑いが要求されるようになる。
 ところがこの寺の人達はとことん愛想笑いをしない。先生は煙に巻くようなことを口にしながら意味深な笑みを浮かべているだけだし、沙羅はいつも大真面目な顔でこまねずみのように働いている。それぞれの言動があまりに自己完結しているので、最初はどう反応すればよいのか分からず戸惑ったが、気にせず自分の仕事をしていればよいのだ、ということにやがて気づいた。そして、保にはそれが心地良くもあった。
 でも、それは彼らが特殊だからだ、とも思う。彼らのような存在は、おそらくこの寺の中だからのびのびやれるのだ。そういえば、あの沙羅という子は自分より少し下くらいにも見えるが、学生なのだろうか。だとすれば就活などはどうしているのか——
 そんなことを考えながら、保は深い眠りに落ちていった。

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