
阿修羅の偶像(アイドル)第2章第1節
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第2章:三面六臂(さんめんろっぴ)

第1節
「できましたよ。見城さん」
軽く肩を叩かれて咲良は目を覚ました。パイプ椅子の冷たさが頬に伝わってくる。
「……う、ん……」
見上げると、台場が得意げな笑みを浮かべている。寝起きで見るのにあまり心地よい顔ではないが、今回ばかりは起こしてくれたことを感謝したい、と思った。
「おつかれー」
そう言って、大きく背伸びをする。パイプ椅子の上で少しうたた寝をしたせいか、体がバキバキと痛む。特にひどいのは両腕の筋肉だ。何か重いものでも持ち上げていたかのような鈍い痛みが走っている。
「また、嫌な夢見たなあ」
咲良がボソッと呟くと、台場が目を見開いて、
「また、戦国武将にでもなったんすか?」
「ううん、珍しく現代モノ」
「で、また人殺したんすか? 現代モノで人殺すの、結構リアルじゃないっすか?」
台場はへらへらと笑いながら、せわしなくLINEに返信を書き込んでいる。こいつのこういう軽薄な口の利き方を、咲良は心底鬱陶しく感じる。自分と対等以上に付き合おうと粋がって過激なことを言っているのが、ひしひしと伝わってくるからだ。
「腹減った」
咲良はつとめてぞんざいな口調で呟いた。こういう時は嫌悪感を爆発させることも溜め込むこともせず、上手くガス抜きする必要があるのだ。
「なんか食べたい。おごってよ」
「いいっすよ。デモも聴いてもらいたいし、ちょうどいいっすね」
台場は言うが早いかスマホから番号を検索すると、予約の電話をかけ始めた。絵に描いたような仕事のできる男である。というか、「仕事のできる自分」をアピールするために必要以上に早く手を動かしているようなところがある。台場のそういう癖が咲良には耐えられないので、仕事の話は手早く夕食でも済ませながらサクッと終わらせたいと思った。その意味では咲良の思い通りにことが進んだと言える。
「取れたっすよ。向かいのビル地下で」
「サンキュー。じゃあ、さっそく、」
咲良は素早くワイヤレスイヤホンを耳に突っ込み、台場と共有しているDropboxを開いた。移動中にも余計な会話をしたくないのだ。
「デモ、聴かせてもらうよ」
「うん、いいと思うよ」
デモを三回聴き直したところでちょうど店の席についた。
「マジっすか?」
台場は意外そうに目を見開いた。
「見城さん、スマホぶん投げてダメ出ししそうなイメージなのに」
「あのね、あたしは基本平和主義者だよ。世の中には、ストライクゾーン狭いけどゾーン外の球も受け入れる人と、ストライクゾーン広いけどゾーン外の球は絶対許さない人がいるの。あたしは後者。ゾーン広いの」
「なるほどな。で、絶対許せない時に『鬼神』になるんすね。ゾーン内でよかったあ」
「そりゃそうだよ。アイドル曲拵えるのはあんたの方がプロでしょ」
決して社交辞令で言っているわけではなかった。確かに咲良は、自分がどうしても譲れないような場合には鬼神のごとき怒りをぶちまけることで知られているミュージシャンである。しかし、この仕事はさすがによい仕上がりになっている。もし咲良が一人でアレンジまで引き受けたら、細部にこだわりすぎてここまで手際の良い仕事はできないはずだ。餅は餅屋に任せたほうがいい。
「いやあ、そう言われると自信持てます。ちなみに自分も見城さんと同じタイプっすよ。筋は通すけど、仕事は柔軟に、がモットーっす」
ふっ、と小さく鼻を鳴らすに咲良はとどめた。何しろこいつは絶対違うという確信が咲良にはある。粋がってる割にはお偉方の方針には従順に従うし、物事の好みはとことん月並みで、だからこんなありがちな小洒落た店しか選ばない。まあ、今時の若い成功者にはよくいるタイプだろう。
だが、そういう奴にも使いみちはある。
「あ、ちょっと待ってください」
ワイヤレスイヤホンを耳から外そうとした咲良を台場は掌で制すると、
「もう一曲、聴いてほしい曲があるんです」
そう言って、別のファイルアイコンを指さす。咲良がアイコンをタップするとYouTubeページが開き、イヤホンから音楽が流れ始めた。
「へえ」
オケはデジタル音源だが、ギターだけが生音で奏でられている。一聴してセンスのあるギタリストだな、と咲良にはすぐわかった。しばらくするとボーカロイドの声が流れ始める。
「ボカロPってやつね」
「最近割と注目されてるやつです。牟佐リンダっていう」
「なかなかいいじゃん」
咲良は思わず少し身を乗り出した。同じ創作者として居住まいを正して向き合わねば、と思ったのだ。
「リンダっていうからには、女の子かな」
「わかりませんよ。ネカマってのもいますからね、表には全然出てこないし。『水天バルナ』っていうヴァーチャルアイドルのPっていう形で活動してるんで」
台場は自分のスマホからYouTubeを立ち上げて「水天バルナ」のチャンネルを開き、咲良に見せる。
「バルナ?」
咲良はその名前を聞いて少し首を傾げながら、差し出されたスマホを覗き込んだ。まさにこれがこの男のようなタイプの「使いみち」である。咲良はとにかく自分が好きなこと、興味を持ったことしかできない。好きなことに関しては、一日中ギターを鳴らし続けて一気に何曲も作曲してしまうくらいの集中力を発揮する。ただ、そのせいで時に視野がひどく狭くなってしまうことを感じるのだ。だからこうやって、「世の中で何がウケているか」に対して貪欲にアンテナを張っている人間が持ってくるものに、目を開かれることも多い。
「ははっ、面白いじゃん」
音楽の洗練ぶりに比べると、動画のサムネはひどく素人臭い。だが、咲良にはそれすらも微笑ましく思えた。
「仏像? 三面六臂のヴァーチャルアイドルとかウケるんだけど」
「クセが強すぎるんすよねえ」
だが、台場は嘲るような視線をサムネに向ける。
「いくら曲がよくても、ビジュがこれじゃね。ねえ、見城さん、こいつとコラボして、ヴァーチャルアイドルをプロデュースしてみませんか?」
「あたしが?」
「そう。なんかこいつ、見城さんのファンらしいんですよ。だからこいつの曲に見城さんの作詞なんてどうかな、と。ヴァーチャルアイドルはリソースつぎ込んで最強のビジュに仕上げますよ。もちろん顔は一面、腕は二本で」
「なるほどね」
咲良は少し興が醒めた。コロナ禍でライブアイドル業界が大変だということはよくわかる。だからヴァーチャルアイドルで一山当てようという魂胆だろう。それはそれで別に構わない。自分はライブ命のシンガーソングライターだが、ボカロPはボカロPでリスペクトすべき表現者だと思う。だが、一つ気になることがあったのだ。
「この子自身は乗り気なの?」
「スタッフがDMは送ってるんですけど、なかなかいい返事をもらえないんすよ。せっかくのチャンスだっていうのにねえ。だから見城さんとのコラボをネゴのジョーカーとして使いたいんす」
「三面六臂のボカロPが、この子のやりたいことなのかもしれないよ」
「それじゃダメなんすよ」
台場が急に凶暴な顔つきになった。
「それってただのオナニーじゃないすか。志低すぎです。自分のやりたいことをやるよりも、他人に届くことをやりたい。それが自分のモットーです!」
薄っぺらい綺麗事を装った虚栄心の猛烈な悪臭がした。歪む顔を咲良は懸命に立て直す。ここで嫌悪感を爆発させたら負けなのだ。
「あたしは、」
大きく息を吐き、咲良は何とか冷静さを取り戻す。その上で言いたいことは言わせてもらうことにした。
「やりたいことをやって、しかもそれを他人に届くようにするのが、一番志が高いと思うけどな」
「見城さんは、」
すると、台場はひどく無表情な顔になって、
「天才だからそれができるんすよ。ま、気が乗らないならいいです。それならこいつに詞も曲も書いてもらいますよ。お、蕎麦、来た!」
そう言って手を叩くと、
「さあ、召し上がってください。絶品ですよ」
目の前に笊の盛られた蕎麦を見て、咲良は思わず声を漏らした。
「……少な」
結局咲良は、蕎麦をお代わりしてしまった。笊蕎麦は一笊1500円もするのだが、まあ、あいつにはいい勉強代だろう、と咲良は苦笑いを浮かべる。
自分がお洒落な店よりも街の蕎麦屋で大盛りの天ざるを食らうのを好むことは、最近出版したエッセー集にも書いてある。無論、そんな自分を偉いとも咲良は思っていない。音楽しか能のない自分のような人間の言うことが、たまたまその音楽が世間に注目されているという理由で、普通の人よりも多めに世の中に出回っているだけだ。だが、もし自分と仕事をしたいというのであれば、既に出回っているものには目を通すべきではないか。アイドルグループをプロデュースする事務所の取締役ならば、なおさらのことだ、と咲良は思うのである。
何故ならそれが出来ない人間は、アイドル一人一人に関心を持つことができないからだ。あの子たちは自分とは違って、己の「実像」を強く打ち出すことはできない。だから、プロデュースする側がアイドル一人一人の「実像」に目を凝らして注目し、それを引き出してあげなければならないのだ。ところがあの男には、その見込みがない。
だからこそ、と、咲良は改めて思う。それが今回の自分の仕事だ、ということだ。自分の歌を歌ってもらうことで、彼女たちに自分の「実像」を打ち出すことに目覚めてもらう。そして彼女たちのファンに、彼女たちの「実像」の魅力に目覚めてもらうのだ。そうすれば、世の中の価値観が音を立てて変化し始めるだろう。
それはアイドルにしかできない革命だ、と咲良は信じている。そしてその革命を明確な意志をもって起こそうとしていたアイドルを、咲良は一人しか知らない。その彼女が今、姿を消してしまった以上、微力ながら自分がその志を継ぐしかない、ということだ。
だがアイドル楽曲の制作はシンガーソングライター稼業とは違い、台場のようないけ好かない業界人とも付き合わなければならない。だからどんなに台場が「ストライクゾーン」の外にいようとも、咲良は腹を括ることにした。己の中の「鬼神」を封印することにしたのだ。
ところが、そのせいか最近やたらと人を殺す夢を見るようになった。いつかは織田信長になって町娘にセクハラをする町人の首を刎ねる夢を見たし、ついこの間は天上の神様になって鬼どもを撫で斬りにする夢も見た。そしてさっき見た夢の舞台は現代で、昔住んでいた街を牛耳る虫の好かない政治家を素手で裂き殺す夢だった。では、あの夢の中で自分は誰だったのだろう——
バルナ——
そう、夢の中で、その名を聞いた気がした。
「申し訳ないんですが、」
咲良はタクシーの運転手に声をかけた。
「ちょっと仕事をしたいんで、一瞬カーラジオを消していただいてもいいですか?」
「あ、はい」
咲良は運転手に一礼すると、目を閉じて耳の奥に残る旋律を思い出す。咲良の直感では、牟佐リンダは絶対に女の子だ。だとすれば、彼女の歌が聴きたい、と咲良は思った。彼女の肉声、ということではない。声は別にボカロでも構わない。ヴァーチャルアイドルに託した歌ではなく、彼女自身の「生きざま」について歌った歌だ。
咲良はスマホを取り出し、ボイスレコーダーをオンにすると、おもむろに鼻歌を口ずさみ始めた。Aメロ、Bメロ、サビと、淀みなくレコーダーに吹き込んでいく。牟佐リンダの曲からインスパイアされたメロディだ。咲良にしてみれば、こんなことは造作もないことだった。
咲良は改めて考え直したのである。もし牟佐リンダが台場のオファーを承諾したら、あいつは彼女を自分の思い通りに操ろうとするはずだ。でも自分が絡めば、あいつはそう簡単に口を出せない。自分が曲を書いて、彼女に詞を書いてもらう形がいいだろう。その方が、彼女の「生きざま」を知れるような曲になるのではないか——
咲良はボイスレコーダーを止めると、運転手に、
「ありがとうございました。もう大丈夫ですよ」
「はい」
運転手がまたカーラジオをつける。咲良は一ついい仕事をしたと満足を覚えながら、車窓に広がる夜景を見つめる。するとカーラジオから、
「先ほど、青海市の市議会議員、高坂波瑠夫氏の家族から警察に通報があり、今日午後六時半頃、自宅の庭で高坂氏の叫び声が聞こえた後、行方が分からなくなっているということで、警察では捜査を進めています」
「……高坂……波瑠夫?」
咲良の表情が凍りついた。

「え、この高坂って人、演説してるの見たことがある……」
沙羅がテレビ画面を見ながら絶句している。
「……怖いね」
そう呟く沙羅の横で、保(たもつ)は呆然と立ち尽くしていた。
昨日は昼間にバルナが失踪し、夕方に保が庭で倒れて昏睡状態に陥るという大騒ぎがあった。午後八時くらいにようやく保が目覚めると、心配のあまり憔悴しきった沙羅の顔がそこにあった。
そしてバルナは既に寺に戻り、沙羅の横で何食わぬ顔をして澄ましていた。その後、保の昏倒は疲労のせいだろうと沙羅は主張した。保はどうにも納得がいかなかったが、沙羅にそれ以上の心配をかけさせたくなかったので、すすめられるままに夕食を食べ、再び床に就いた。
そして保は泥のように眠った。目が覚めたら既に日は高い。おつとめは全部やってくれるという沙羅の言葉に甘え、十時間近く眠ったことになる。そして、ようやく起きて茶の間に来たら、これだ。
「なんか物騒だねえ……」
くわばらくわばらと沙羅は肩を竦める。保は、テレビ画面に映し出される高坂邸の周りの風景に目を凝らす。それらは全て克明に見覚えのあるものであった。つまり昨日のあれは、断じて夢ではなかったのだ——
保は震える声で、
「……バルナは?」と聞く。
「あそこ」
沙羅はうんざりした顔で卓袱台の方を指差す。そこではバルナが一心不乱にノートパソコンにかじりついていた。
「ヤクシャ、バルナに変なこと教えたでしょ?」
沙羅は口を尖らせて言う。
「YouTubeで色々MV見せてあげようと思ったらさ、そんなの興味ない、っていきなりプロレス動画を検索し始めたんだよ。あ……」
保はつかつかとバルナの方に歩いていく。
「おお、起きたか。ヤクシャ。こいつは最高に面白いぞ」
するとバルナが嬉しそうな声で応える。
「君たち、とっくにプヲタ仲間?」
沙羅の呆れ声が保の背中を追う。
「しょーがないなあ。とにかく、叔父さんは今出かけてるし、あたしもちょっとお使いに行かなきゃいけないんで、お客さんが来たらちゃんと出てね。多分、おとといの女の人が来るから……ねえ、ちょっと聞いてるの?」
そう言った後、沙羅は不機嫌そうな様子のまま行ってしまった。
「面白いが、だんだんわかってきたぞ」
バルナは活き活きとした顔でパソコンの画面を保に見せ、
「この『プロレス』というやつ、全部出来試合だな。これなんかひどい」
そう言って動画の再生ボタンを押すと、
「『ラリアット』というのか? なんでロープに放り投げた相手がわざわざ跳ね返ってくるんだ? 明らかに自分から技を喰らいに走りこんでるじゃないか」
愉快げに笑いながら喋り続ける。
「あと、これもひどい。なかなかの大技だが、」
と、バルナは「ブレーンバスター十連発」という動画の再生ボタンを押す。
「これも明らかに自分から技にかかりにいってるぞ。この技、手も足も抑えきれていないじゃないか。こんなもの、技をかけられる前にいくらでも抵抗できるだろう。見事な大技が多いが、手が二本しかない人道の者では出来試合でしか通用しない技ばかりだ。そういえば昨日は、」
バルナの視線が急に鋭くなった。保の背筋に寒気が走る。
「改良『ロメロ』の技のかかりはどうだったか?」
「……………………」
その時、インターフォンの音が鳴り響いた。そういえば先ほど沙羅から来客対応を頼まれていたことを思い出し、保は玄関へと向かう。そして戸を開けると、
「おはようございます! 早くから申し訳ありません!」
大きな目がきらきらと輝いている。一昨日、寺に来た女性だった。
「さっき、もう一人の方ともそこでお会いしたんですけど、とりあえずご挨拶だけはと思いまして」
そう言って、女性はぺこりと頭を下げる。
「あ、社、ですよね」
「はい。先ほどの方が、社は開いてるから自由に使ってください、とおっしゃってたんで」
「ちょっと待ってください!」
保が思わず大声をあげたので、女性はビクッと肩を震わせて、
「……あ、何か、まずかったですか?」
「あ……こちらこそすみません……」
保は口を押さえ、身を小さくすると、
「……ちょっと、先に社の中を確認していいですか? 気になることがあるんで……」
「は、はい……もちろん」
女性がきょとんとした顔で頷くのを見て、保は急いで社の方に向かった。
「とりあえず、橋を渡らずに待っててください!」
そう言って保は橋を駆け抜け、社に飛び込んだ。そして水天像の前に恐る恐る視線を向ける。
——いない……
さらに保は、床、壁、天井までをくまなく探した。そして社を出て、社の周り、屋根、外壁にも目を走らせる。そして、ふうと一息つくと、橋の向こうの女性に向かって叫んだ。
「大丈夫です!」
それを聞いた女性は、きょとんとした顔のままこちらに歩いてくる。
「……どうしたんですか?」
「……すみません……いえ……昨日の夜、変な虫がいたんで」
「なんだ。そんなことですか?」
女性の大きな目が笑いで細くなった。
「私全然大丈夫ですよ。いや、好きとかじゃないですけど、でも、私たちと同じ生き物じゃないですか」
「え?」
急に話が大きくなったので、保は思わず目を白黒させる。
「ひょっとしたら誰かの生まれ変わりかもしれないし、私たちも来世は虫に生まれ変わるかもしれないんですよ。何か危害を加えてこない限りは、なるべく優しく接してあげないと」
女性がまるで聖者のようなことをいたって大真面目に語り続けるので、保はますます当惑するしかない。ただ、一応言うべきことは言っておいた方がいい、と思ったので、
「ただ、ほんと気を付けてください。子犬くらいあるデカいやつだったんで……芋虫のような、蛞蝓のような……」
「子犬くらい! それは大きいですね!」
女性は驚いて目を丸くすると、
「それじゃ、ほんとに三尸(さんし)虫みたいな……」
「三尸虫」という言葉を聞いて、保の表情がこわばった。
「じゃあ、もし見かけたらすぐお呼びしますね。うお、そうかあ、そこまで大きいならむしろ見てみたい気がします!」
女性はそう言って無邪気に目を輝かせる。だが、保は引きつった表情のまま、
「とにかく気をつけてください。すぐ逃げるくらいの方がいいと思います。あれは……」
そう言って、注意深く池の水面を眺めながら橋を戻っていく。もしかしたら社から這い出して池に落ちたのかも、と思ったからだ。今のところ水面にはアメンボくらいしか見当たらない。そのまま沈んだとすれば、今頃息絶えているだろう。無論、あれが「普通の生き物」ならばだが——
保の右掌に、あの虫の気色悪い感覚が蘇ってくる。昨晩の記憶が、保が倒れている間に見た夢でないというのであれば、あの虫は確かに実在する。そして……
保は玄関ではなく、炊事場に入る勝手口の方に向かった。バルナのいる母屋に近づくのが怖くなってきたのだ。忍び足で炊事場に入ると、なるべく物音を立てないように気をつけながらお湯を沸かし、茶菓子を用意する。そして茶と菓子の準備が整うや、保はお盆を持って逃げるように炊事場を抜け出し、再び社へと向かった。
「お茶を、持ってきました」
女性は既にスケッチブックを取り出し、水天像の模写を始めている。
「あ、ありがとうございます!」
女性は深々と頭を下げた。それにしても挙措の美しい人だ、と保は改めて感心する。お礼一つにしても、体中に誠実さが漲っている。大学院生ということだから保と歳もそれほど変わらないというのに、年季の入った社会人のような折り目正しさがある。
「あれ?」
お盆に乗せられた草大福の皿を見て、女性は首を傾げた。
「今日は、神様へのお供えはないんですか?」
「あ、そういえば……」
「ダメですよお。忘れちゃあ」
女性はくしゃっと笑い、
「じゃあ、私は後で頂きますので、それまで神様にお供えしましょう」
そう言って皿を水天像の前に起き、手を合わせた。こういう無邪気さ、外連味のなさは、逆に歳よりも幼く感じさせるところもある。まるで三十歳の麗人と十歳の少女が一人の人格の中に同居しているような不思議な女性だ。
「そういえば、」
と、女性がまた口を開く。
「この間はワッフルでしたよね。水天様は気に入ってくださったのかな」
保の脳裏に、ワッフルを美味そうに頬張るバルナの姿が蘇ってきた。
「あ、あの……」
と口を開いてから、保は言葉を探す。なるべく長くこの女性の近くにいるために話題を探している、というのが本音であった。彼女の仕事の邪魔はしたくないし、美人に付きまとうような鬱陶しい真似などしたくもなかったが、保はとにかく彼女のそばを離れるのが恐ろしかった。逆に言えば、この女性は全ての邪なるものを浄化する気を放っているように感じたのである。
「なんでまた、」
保は懸命に質問を絞り出す。
「この像に興味というか、研究しようと思ったんですか?」
すると女性は、やけに嬉しそうな顔で破顔一笑するや、
「仏像さんは昔から好きだったんですよ。まだ中学生の頃かな、お仕事で奈良に行った時に、興福寺の阿修羅像を見て、一目惚れしました」
中学生、お仕事、と違和感を感じる言葉が次々に出てきたので、保は怪訝な表情を浮かべる。だが女性は意に介さず、言葉を畳み掛けていく。
「それで、大学では絶対に仏教美術を専攻しようと思って、入った大学に天海先生が非常勤でいらっしゃっていたんです。授業をとったらもうとにかく面白くて、神話学とか民俗学とかを絡めて仏像さんについて考えることで、世界の見方が一変したんです。すごいんですよ。仏像さんを通して日本の歴史から世界の宗教まで、いろんなことを学ぶことができるんです!」
何かのスイッチが入ってしまったのか、女性はえらい早口でまくし立てる。その勢いに保は圧倒されるばかりだが、無理やりな話題作りに彼女が喜んでノッてくれたことには少し安心した。
「……ああ、でも、なんで研究までしようかと思ったのか、か……うーん、そうですねえ」
よほど糞真面目な性格なのか、女性は顎に手を当ててじっくり考え込んでしまった。そしてしばらくして、
「……偶像の……そう、」
そう言って顔を上げ、保をまっすぐに見つめると、
「偶像の、あり方が変わることに興味を持った、のかもしれません」
と、ゆっくりと言葉を選びながら話すと、
「たとえばこの水天像自体は鎌倉時代のものですが、この地域の水天像は飛鳥時代から存在した、と天海先生は仰っていました。飛鳥時代にこの地域に住み着いた渡来人が持ち込んだという話で、それらはこの水天像と同じ三面大黒スタイルだった。ところが百年くらい後の天平時代になって、興福寺の阿修羅像が造られます。弁天と多聞天の二面も普通の顔になり、正面の水天も、この水天像みたいなきかん坊の顔ではなく、もっと穏やかな顔になるんです。同じ神様の偶像が、時期によってこれだけ変わる。そしてそのことで、偶像が発信するメッセージもまるで変わってくる。そのことに興味があるんです」
女性はまた早口に戻り、ここまで一気に畳み掛けた。
「その変化が意味するものは何か? それが自分の研究テーマになります。一般には乱暴者の阿修羅がお釈迦様に帰依したから、と言われてますが、神話を調べていくと何でそうなるのか分からないんです。だって阿修羅族は天帝に戦いを挑んで負け、修羅道に閉じ込められちゃうんですよ。そして修羅道は阿修羅同士の絶え間ない戦いが続いている世界だと言われています。つまり言うことを聞かない乱暴者たちを無理やり封じ込めた、ということです。阿修羅がお釈迦様に帰依して穏やかになったなんて話はどうも納得がいかないんです」
——修羅道……
確かにバルナも自分の故郷について聞かれた時、「シュラドウ」と口にしていた。今までならば右から左へ抜けていきそうな彼女の専門性の高すぎる早口が、今は切実な現実感をもって保に迫ってくる。
「じゃあ、」
と口を開いたところで、保は彼女の名前をまだ知らないことを思い出し、止むを得ず「あなたは、」と続ける。今度は、保が本気で聞きたい質問だった。
「あなたは、阿修羅の偶像のあり方が……何故変わったんだと思いますか?」
「それは……」
女性は急に困った顔で言い淀み、少し俯いたが、やがて真剣な表情で顔を上げると、
「まだ、わかりません。一応現時点での仮説はありますが……この先変わるかもしれませんし、まだ、人に聞かせられるようなものではありません。まだまだ勉強しなきゃダメです。でも、修論の構想が固まったら、必ずお話しします。えーと……すみません、まだお名前をうかがっていませんでしたね」
「あ、八草です」
「八草さんですね。私は水戸といいます。私のような者の研究に興味を持っていただき、本当にありがとうございます」
水戸さんは丁寧に頭を下げると、
「ただ……現時点で言えることは、『偶像は見るものにとって都合のよいことを勝手に読み込まれてしまう』ということかもしれません」
そう言って天を仰いだ。
「興福寺の阿修羅像が『既にお釈迦様に帰依していた』と解釈されたのも、その方が仏教による鎮護国家を目指す当時の政権に都合が良かった、ということなのだと思います。飛鳥時代に日本に伝わった水天像についての伝承も、江戸時代になって『青面金剛(しょうめんこんごう)』として全く違う意味を持たされてしまったわけですし」
「ああ、江戸時代の話は自分も先生から聞きました……そういえば、」
保はそこで少し躊躇する。これ以上話を聞くのが何だか怖いような気がしたからだ。しかし、勇気を振り絞って口を開く。
「……まだ、先生から聞いてないんですよ。元々の、飛鳥時代に伝わった水天の伝承って……どういうことなんですか?」
「江戸時代と真逆です。水天様は庚申の日に人々を禍から守るためではなく、人々を鬼に変えるためにやってきます」
「鬼に、変える?」
保の顔が引きつった。
「はい。末法の世が進むと、人道には法では裁きにくい悪がどんどん蔓延します。そしてそうした悪の象徴として、三尸虫が悪人たちの中でどんどん大きくなっていくんです。だから末法の終わりに修羅道から水天様が人道にやってきて、悪人の体を裂いて三尸虫を取り出す。そして体を裂かれた悪人は鬼に姿を変え、鬼道へと追いやられる——それが虫を手にぶら下げ、鬼を足蹴にしている水天像の本来の寓意です。だから悪をなさずに生きよう、という戒めだったはずなんです。でも、それがいつの間にか自分たちが居眠りしている間に体から抜け出した虫を退治してくれる都合のいい話として解釈されちゃうんですからね。これじゃあ、三尸の虫はどんどん大きくなるばかりですよ。こんなことだと、」
水戸さんは水天像に視線を投げて、しみじみと言った。
「そろそろ、本当に水天様が人々を懲らしめるために出てきてもおかしくないかもしれませんね」
「おーい」
その時、保の背後から沙羅の呼ぶ声が聞こえた。
「あ、どうもどうも、お邪魔しちゃってすみません」
沙羅は水戸さんに会釈しながら、橋を渡って近づいてくる。
「そんなわけで次の仕事頼みます。バルナが腹減ったってうるさいんで、また、『ガンダルヴァ』に連れていって……あれ? ヤクシャ? 顔色悪いけど——」
保は水戸さんの話を聞いたまま、悄然と固まっている。
「大丈夫?」
沙羅の顔色が曇った。
「まだ具合が悪いなら、また横になって——」
「いや……大丈夫だ」
保は、とりあえずそう言うしかなかった。