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阿修羅の偶像(アイドル)第3章第3節

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 そんなわけで、その日を境に保(たもつ)たちの日常には色々と変化が訪れた。
 先生と沙羅は、ファルークさんとナラキンさんと一緒にスタジオへと練習に通うことが多くなった。その中でも沙羅は特に忙しく、寺にいる時は難しい顔でパソコンに向かい、水戸さんに依頼された作曲に勤しむ時間が増えた。
 沙羅が忙しくなった分、保の寺での作業量は一気に増した。だが、保の方も勝手がわかってきて、作業をこなすスピードが上がってきたということもあり、全く苦には感じなかった。自分が「庚申祭の手伝い」ということでこの寺にお世話になっている以上、祭りに余興でしか参加しないのなら、その分の責は他の形で負うべきだ、という思いもあった。
 だが、そのうちに思いもよらぬ方向から助っ人が現れた。
「暇だ。何か手伝わせろ」
 バルナが、そう言い出したのである。
 バルナの日常も、あの日を境に変化していた。三匹目の「虫」を奉ずることを先生が約束したので、日課の町内パトロールの必要もなくなった。それにファルークさんたちが祭の準備で忙しくなったので、行きつけの「ガンダルヴァ」の臨時休業が多くなったのも大きいのだろう。また、本当は保との「決戦」に備えて体術に勤しみたいのだろうが、何しろ今回は対戦相手が保である。唯一の練習相手と組み手をすることもできず、プロレス動画を見ながら一人で体を鍛えるだけで、エネルギーを持て余しているようなのだ。
「まあ、そういうことなら」
 ということで、バルナが境内の掃除を手伝ってくれることになった。あの見城咲良という人がやってきて以来、バルナとの間に少し気まずい空気が流れがちだったので、こうやって共通のタスクができることは会話の潤滑油としてもありがたいところがあった。そしてバルナは思いのほか仕事に対する姿勢が真面目で飲み込みも早く、おかげで保には少し時間的余裕もできた。
 そんなある日の休み時間、保は本堂の沙羅の仕事場から阿修羅琴(あしゅらきん)を持ち出し、庭先に腰掛けて爪引き始めた。沙羅は作曲作業中には阿修羅琴を使うが、スタジオには別のエレキギターを持っていく。そして沙羅の留守中には、保は阿修羅琴を使ってよいことになっていたのだ。
 久々に弾いてみて、保は随分と自分の指が鈍っていることに気づいた。保自身も忙しかったし、沙羅の作曲作業中は阿修羅琴を借りられないということもあった。それに沙羅が忙しいため、最近はろくに手習いも受けていない。そんなわけで、とりあえずは以前沙羅から教わった四つのコードを復習しながら、まずは指慣らしをしていくことにした。
「休み時間まで忙しいやつだ」
 ふと顔を上げると、バルナが呆れた顔で見つめている。
「祭で弾くわけでもないのに」
「性分なんだよ。一度習い始めると、ある程度続けないと、どうも不安になっちゃうんだよな」
 そう言って保は阿修羅琴を弾き続ける。
「その楽器は奇妙なものだな」
 すると、バルナは妙にしみじみとした口調でそう言う。
「適当に鳴らしているうちに、何故か勝手に歌が口をついて出そうになる」
「ああ、それは沙羅が言ってたよ。コードをいくつか繰り返して鳴らしているうちに、勝手に曲ができちゃう時があるって。俺には全然わからん感覚だけど」
「バルナも幼い頃、館にある楽器を鳴らしながら適当な歌を口ずさんでいたものだ」
「マジか?」
 保は思わず阿修羅琴を爪弾く手を止めた。そんな話は初耳だったからだ。
「もしかしたら、あれが『阿修羅琴』などというふざけた伝説につながったのかな」
 バルナはそう言って苦笑すると、
「まあ、残念ながら『触れもせず』などということはない。バルナはあれをちゃんとこの手で鳴らしていたぞ。だが、」
 その時、バルナの表情に暗い翳が刺す。
「あれは庭の池に捨てた」
「え?」
「あれは、あの女が残したものだ。あの女は人道からやってきて、修羅道の者どもに歌舞音曲を広めようとした。そうやって阿修羅の男たちを堕落させようとしたのだ。その挙句、あっさり天道に寝返った。そのことを知って以来バルナは、」
 バルナは背中を向けると、
「一度も歌を歌ったことはない」
 そう言って、自分の仕事道具が置いてある沢のほとりへと戻っていく。
 ——バルナ……
 保は阿修羅琴を庭石の上に置いて立ち上がり、バルナの背中をじっと見つめた。バルナの根源的な「孤独」が垣間見えた気がしたのだ。と同時に、バルナがあれだけ音楽を奏でることを忌避しながら、音楽に対する鋭い感性を時々垣間見せる理由も、少しわかったように思えた。少なくとも自分などは、何遍コードを爪弾いても歌など思い浮かばないというのに——
 そんなことを考えながら、保は再び庭石の上を見て唖然とする。そこに置いたはずの阿修羅琴が、忽然と消えていたのだ。
「いいっ?」
 保は思わず声をあげた。庭石の周りを見ても、阿修羅琴は落ちていない。
「相変わらず馬鹿デカい声だな。どうしたというのだ?」とバルナが振り返って苦笑いを浮かべる。
「あれ、バルナさ、阿修羅琴持ってってないよな?」
「当たり前だろう。持っていたのはお前だぞ」
「……そうだよな……」と保は途方に暮れながら頭を掻く。
「お」
 その時、バルナが地面を見て呟いた。
「これはすごいな。来い。面白いぞ」
「なんだよ?」
 そう言って保が歩み寄ると、バルナは地面を指差して言った。
「ほれ。蛇が蛇を丸呑みにしている」
「うわあっ!」
 保はまた大声をあげた。以前、本堂の大掃除の時、屋根裏から飛び出してきた大きな白蛇が、小さな黒蛇を頭から丸呑みしているのだ。
「おっ、この白蛇。いい仕事をしてくれてるぞ」と、バルナは少し驚いた顔で言う。
「この黒蛇、赤いマダラがあるだろう。小さいが毒のある奴だ」
「マジかよ?」
 保は背筋に寒気が走った。そういえば沙羅が言っていた。この境内には池と沢があるせいで、ヤマカガシという水辺を好む赤マダラの毒蛇が出没するから注意しろと。これではこの白蛇に助けられたようなものではないか。
「そういえば、こういう白蛇が昔、屋敷の庭にもいたな」
「蛇って修羅道にもいるのか?」
「言っただろう。畜生道は人道と修羅道にまたがる形で広がっている。あれ? こいつ、食わないのか?」
 バルナは不思議そうに首を傾げる。見れば白蛇はヤマカガシを咥えたままするすると這っていって、沢のほとりでヤマカガシを放した。そして這々の体で沢に逃げ込んだヤマカガシを見送り、白蛇はまたスルスルと這って茂みの中へと消えていく。それを見て、バルナは興味深げに手を叩いた。
「面白いな。これではあの毒蛇を我々から追い払ってくれたようなものだ。案外この白蛇、この寺の守り神かもしれないな」
 そういえば沙羅も同じようなことを言っていた。白蛇というのは縁起がよいもので、だから世界の未来を拓く存在として「国孫(こくそん)様」と呼ぶのだと。何しろ阿修羅が現れる世の中なのだから、蛇の神様が現れてもおかしくはない。保はとりあえず茂みの方に向かって手を合わせ、毒蛇から守ってくれたことに対する感謝の念を伝えた。
「って……それどころじゃないんだよな」
 保はそう独りごち、天を仰いだ。あの阿修羅琴は沙羅の大切な仕事道具なのだ。一体どう申し訳すればよいのか——
「ヤクシャ」
 バルナが口を開いた。見れば、不思議そうな顔で保の方を見ている。
「ちゃんとあそこにあるではないか」
「え?」
 保がバルナの指差す方向を見ると、阿修羅琴は再び庭石の上に鎮座していた。

ヤマカガシ(Wikipediaより)

 さて、また別の日の午前中のことである。ファルークさんが紙袋を抱えて境内にやってきた。
「おお、乾闥婆(けんだっぱ)! でかした!」
 バルナは目を輝かせてファルークさんに駆け寄っていく。バルナが紙袋を開くと、アッチャカレーの香ばしい匂いが保の鼻腔にも忍び込んできた。
「今日も練習で忙しくて昼は店を開けられないんでね。王子様のためにテイクアウトで持ってきましたよ。その後はヤクシャさんの弁当にしてよ」
「ありがとうございます!」
 保は心底嬉しく感じた。一時期バルナに付き合いすぎて食傷気味にはなったが、「ガンダルヴァ」のアッチャカレーは確かに絶品なのだ。だからしばらく食べていないと、すぐに恋しさが募るようになってしまう。
「お」
 ファルークさんは、保の横に置かれた阿修羅琴を目ざとく見つけると、ニヤリと笑って言った。
「練習してるじゃない? やっぱり、ヤクシャさんも何か演ればいいのに」
「いやいや、だってまだ始めたばかりですから」
「ヤクシャは歌えばいいんじゃないか?」
 ベースギターを背負った先生が出てきて話に加わる。これからファルークさんの車に乗ってスタジオに行くそうだ。
「自慢の大声を活かさなければもったいないぞ」
「そうだよ。ヤクシャさん、いい声してるんだから、歌を歌ってもいいのに。歌なんて簡単よ。たとえば、」
 そう言ってファルークさんはドンドンと大きく足を踏み鳴らし、
「これだけで簡単に歌になるよ」
 続いて、手拍子とともに歌い始めた。
「ウィー・ウィル・ウィー・ウィル・ロック・ユー! ウィー・ウィル・ウィー・ウィル・ロック・ユー!」
「ほう」とバルナが愉快げな目をした。
「乾闥婆、お前、なかなかいい声だな」
「よかったらこれ、王子様の入場ソングにいかがです?」
「入場ソング?」
「ヤクシャさんとのプロレスの時ですよ。レスラーには必ず、そのレスラーがリングに入ってくる時に流れる曲があるんです」
「そうなのか?」と、バルナは顎に手を当てて少し考えを巡らせるが、
「……やめておこう。男の歌う楽曲は、やはり阿修羅の流儀ではない」
「御意。じゃあ、これはヤクシャさんの方にしとこう。じゃあ、王子様には他の候補曲を持ってきますよ。まあ、この曲はやっぱり王子様にはふさわしくないかもしれません。弱虫の歌はダメです」
 ファルークさんは足踏みと手拍子を続けながら言う。
「かつてこの歌を歌った男はひどい弱虫だったんですよ」
「そうなのか?」
「アイドルの座にのぼり詰めたはいいが、自分を見失って堕ちていったんです。愛する者も傷つけ、狂わせ、来世まで残る傷を心に負わせた。アイドルの世界には魔物が住んでます。沙羅ちゃんだって本当に大変だった。アイドルの世界は本当に怖いですよ」
「乾闥婆、一つ聞きたいことがある」
 バルナが思い出したように口を開いた。
「『アイドル』とは何だ?」
「王子様のことですよ」
 ファルークさんはにっこりと笑って即答する。それを聞いたバルナは怪訝な顔で、
「バルナの?」
「はい。民草の期待を一身に受けて見事に成長し、チャンスを次々確実にものにして、もうすぐ天上へとのぼり詰めようとしている今の王子様のことです。だから、王子様、この後は本当に気をつけた方がいいですよ。さもないとあの男のように、天上へのぼりつめた後は『地獄へ道づれ』なんてこともございます」
「……どうもお前たちは信用できないところがある」
 バルナはじろりとファルークさんと先生を見回した。
「何故、話をそう後出しにしてくるのだ? 三匹目の『虫』の件にしても、今になって何を、と思ったぞ」
「『アイドルのプロデュース』にはそれが必要だからです」
 恭しげに身を低くして、先生が口を開く。
「三匹目はその捕捉が最も難しい親玉の虫です。それを五部浄めが用意します、と先に言ってしまえば、一匹目、二匹目を採ろうという王子様の意欲が下がってしまう可能性があったでしょう。王子様に力をお示しいただくには、それを伏せておく必要があった、ということです」
「小賢しいやつらだ」
 バルナはフンと鼻を鳴らすと、じろりと先生を睨みつけて、
「……お前も、バルナの天上行きを案じているのか?」
「いえいえ。五部浄には乾闥婆とはまた別の業がある、というだけの話です。その上で、バルナ様にお伝えしなければならないことがございます。あの時、我ら七天龍に人道行きを依頼されたのは奥方様です」
「何?」
 バルナの顔色が変わった。
「奥方様は人道ご出身のお方、彼女が帝妃の座に収まることを厭わしく感じる天衆は決して少なくありませんでした。かといって殺生は天衆にとっても地獄堕ちの罪、奥方様を殺めるわけにはいきません。だから彼らは、六道を繋ぐ道が閉ざされる直前に奥方様を拉致し、人道へと追放した……さて、ここで重要なのは、果たして彼らの目的は奥方様の追放だけだったのか、ということです。つまり、」
 先生は、バルナの表情をじっくりと見極めると、
「天龍戦争後の天道において厭われたのは奥方様だけではなく、天帝もまたそうであった、ということです。何しろ天帝はあまりにも強すぎ、天衆にとっても諸刃の剣となりえた存在。六道が相通じていた正法(しょうぼう)の世にあっては、天帝は天道の安全を守るために必要な存在でした。しかし六道を繋ぐ道が閉ざされるのならば話は別、ということ。もっとも、天帝は力づくで追い払うにはあまりにも強すぎます。しかし、天帝は奥方様を深く愛していた。もし奥方様が人道に戻った、ということを知れば、」
「……バカな」
 バルナの顔からさあーっと血の気が引いていく。
「天帝は奥方様を追って、自ら人道に堕天しているかもしれない、ということです」
「……天帝が、既に天道にはいないということか?」
「全ては憶測に過ぎません。しかし辻褄は合う。天帝は少数の取り巻きを除き、我らヒラ天衆の前には姿を見せない存在でした。だからたとえ天帝が天道から消えたとしても、取り巻きどもは天帝が未だに君臨しているかのように見せかけながらその威を借り続け、我が世の春を謳歌することも可能でしょう。阿修羅族に対しては、『バルナ様と天帝の一騎打ち』という夢を与えることで彼らのガス抜きをする。そしてバルナ様が無事三匹の虫を平らげて天道にいらっしゃった暁には、バルナ様をそのまま拉致監禁し、生涯幽閉すればよいのです。阿修羅族の者どもには、バルナ様は天帝の返り討ちにあったと伝え、天道と修羅道をつなぐ道は再び閉ざされます。二千年を経た後となれば、阿修羅族のうちでも天道への恨みは薄れ、今さら天道とことを構えようという者も少なくなっているのではないですか? そうなれば、阿修羅族としては泣き寝入りの他はないでしょう……以上をバルナ様にお伝えするため、表向きはバルナ様へのお目付役という名目のもと、奥方様は我ら七名に人道行きを依頼された、という次第にございます」
「…………」
 バルナは黙り込んだ。頑固だが聡明ではあるバルナのことだ。先生の言うことが全て腑に落ち、理解できたのだろう。
「それはまた随分と……」
 バルナが、ようやく口を開く。
「ひどい『後出し』だな……」
「『酸っぱいブドウ』にならないようにするためです」と先生が答える。
「バルナ様が三匹目の虫に王手を掛けてからお話しするのでなければ、バルナ様の真意を計ることになりませぬゆえ。覇道を選べるほどの強さを備えた方の選ぶ道でなければ、王道とは呼べません」
「お前が何を言っているのか、さっぱりわからないな。それもまた『プロデュース』か」と、バルナは呆れた笑いを浮かべる。
「ですから、それが五部浄めが人道にて背追い込んだ『業』にございますよ」
 先生は、自嘲的な笑みを浮かべる。
「通常、一度転生すれば前世の記憶は残りません。しかし転生を繰り返すうち、自分が前世に何者だったのかの確信を得られる瞬間というのが時に訪れることがあります。前世に一廉の者として歴史に残るような何かを為した場合です。乾闥婆の場合はそれがついこの間のことでした。乾闥婆はかつてパールシーの家に外れ者として生まれ、人道一の『アイドル』にのぼり詰めた後、その空虚さに絶望し、やがて業病に斃れていった。そして乾闥婆は今生になってまたも同じような身の上に生まれ、前世の垂迹を悟ったばかりです。なので、バルナ様が生前の自分のような目に遭われることを最も恐れているのだと思います。そしてこの五部浄めの場合、己の前世の垂迹(すいじゃく)を悟ったのは、」
 先生は、背負っていたベースを手に持って銃のように構え、その柄をバルナに向ける。
「覇道を邁進する主君に謀反の刃を向けた侍として生きた後でした。それ以来、五部浄は必ず坊主に転生するようになりました。一度前世の垂迹を自覚した者は、その後はいつしか自分の本地(ほんじ)を思い出すような形で転生し続ける。まさに大いなる縁起のなせるわざというわけです……さて、謀反が五部浄の業だとすれば、バルナ様の出方如何で己がなせねばならぬことに、五部浄めは大いに憂慮しております。それが、この五部浄がバルナ様に奥方の伝言をお伝えすることにどこかで躊躇っていた理由かもしれません。しかし、これだけは申し上げます。もしもバルナ様が覇道の剣を抜くことがあるならば、」
 先生が凄絶な笑みを浮かべ、バルナがゴクリと喉を鳴らす。
「この五部浄、再び謀反人となり、王道の盾をもって応じる覚悟にございます」

 その日以来、バルナはひどく寡黙になり、ただ粛々と寺の仕事をこなすだけで、保と交わすのもただ必要最低限の事務的な会話のみとなった。梅雨が本気を出してきて庭でのお務めができなくなると、次第にそれもなくなった。
 もう一つ大きく変わったのは、バルナが社にこもりがちになったことである。保はある晩、橋のたもとからバルナの後ろ姿を覗いてみたことがあったが、バルナは水天像の前に座り、何か瞑想でもしているような様子であった。明くる朝、思い切ってバルナに何をしているのか聞いてみたところ、この二ヶ月の間は、水天像を介して修羅道との音声のやりとりができるのだとバルナは言った。だが、誰と何のやりとりしているのかは、保には恐ろしくて聞けなかった。何とも不吉な予感を覚えたからである。
 そして時はあっという間に流れ、七月になった。その日は久しぶりに朝から晴れていた。大庚申祭は、既に明日に迫っている。早朝、保が本堂の前を掃除していると、
「ヤクシャ」
 バルナの声がした。保が顔を上げると、バルナは何か吹っ切れたような顔で、やけに慈しみ深い眼差しを保に向けてくる。
「お前は鬼のような面のくせに、本当に善良にして勤勉な男だ。サカラもそうだが、お前たちは人道に転生するのが合っていたのかもな」
 バルナはそう言って、少し寂しげな笑顔を浮かべた。
「バルナは阿修羅の父と人間の母の間に生まれた『あいの子』だ。『あいの子』ゆえに、こうやって人道と修羅道を行き来することもできれば、阿修羅の力をもって人の体を取り込むこともできる。ただし、それも明日で終わりだ。阿修羅は元服にあたり、自分で自分の性を自由に選択できる。だが、『あいの子』の場合は自分が選んだ性が自分の種族をも左右してしまう。だからバルナの場合、女であることを選んだのなら、母親の種族である人間として生きることになる」
「え?」
 保はすっかり頭が混乱している。そんな選択肢は、ただの人間である自分が普通に生きている限り、絶対に突きつけられない類のものだからだ。だが同時に、バルナの頑固なジェンダー観が、その実存に深く結びついたものであることはよくわかった。
「明日、バルナは修羅道に戻って元服し、阿修羅の男になるつもりだ」
 バルナは決然と言い放った。
「五部浄が見抜いていた通り、修羅道にも様々な者がいる。あの人道女を母に持つバルナを疎ましく思い、阿修羅族の母を持つ我が弟を王太子に立てようとする者たちもいる。奴らにしてみればこのバルナが天帝の返り討ちにあうなり、騙し討ちにあって幽閉されるなりした方が好都合というわけだ。一方、あくまで天衆への復讐に燃え、弱腰の弟ではなくバルナを盛り立てていこうという者たちもいる。ここ最近は、社のところでそうした者たちと話を交わしていた。このバルナが庚申の夜に切り開く天道への道に軍勢を送り、一気に天道を制圧せよと主張している血気盛んな者どもだ。バルナは長らく彼らの血気を諌めてきた。天帝がこのバルナとの一騎打ちを求めている以上、軍勢を送るのは仁義にもとるからな。だが、」
 バルナの眦が険しくなる。
「もし既に天帝が天道にいないのであれば話は別だ。バルナは彼らの進言に従い、軍勢を率いて天道との境まで馬を進めよう。そしてそこで天帝との一騎打ちを呼びかけるつもりだ。もし天帝がそこで出てくればそれでよし。その先はバルナ一人で赴けばよい。だが、そこで本当に天帝がいないのならばそれはまた別の好機。天帝なき天衆などただの惰弱の民、一騎当千の阿修羅兵の敵ではない。それに奴らは地獄に堕ちるのを恐れるあまり、殺生を躊躇するからな。そして天帝が勝手に敵前逃亡した以上は、奴に仁義を立てる必要もなかろう。一気呵成に天道に攻め込み、主無き善見城(ぜんみじょう)を落として三千世界に天龍合一の覇を唱えるつもりだ。そうすれば、このバルナを裏切り者の落とし子として蔑む者どもはぐうの音も出なくなるだろう。五部浄に、こう伝えるがいい。このバルナに、」
 バルナは力強く自分の胸を指差すと、
「刃を向けたくば向けよ、とな。そしてこれはあくまで阿修羅族の戦いだ。他の龍衆に付き合ってもらう義理はない。我らとともに戦いたければそれもよし、天衆とともに我らに弓を引くならそれもよし、人道にとどまり、天龍合一の帰趨を傍観したくばそれもよしだ。バルナはお前たちの意思を尊重する。だから、」
 バルナは、保を射抜くような目で見つめ、言った。
「お前たちも、このバルナの意思を尊重してくれ」
「…………」
 正直、保は目の前が真っ暗になったような気分だった。
 あの見城さんの件でバルナの頑なさが少し揺らいだようにも見えた上に、その後、あの時の気まずさも随分解消され、打ち解けた気分にもなっていた。そして先生が口にした真実は、バルナに天道への道を思いとどまらせるものになるかもしれないと期待もした。
 だが、全ての点は、最悪の形で線を結んでしまったのだ。
「……尊重はしたい。だけど、」
 保は重い口をようやく開いた。
「だけど、やっぱり俺は、人を殺すのは嫌だ。俺と沙羅の腕が、あいつらを殺したということにしたくない……どんなにろくでもない奴らでも、あいつらは解放してやってほしい。俺の……その意思は変わらない」
「心配するな」とバルナが即答する。
「あれをしたのはお前やサカラではない。バルナだ。だからお前たちが地獄に堕ちることはない。あの時お前も言っただろう?」
 バルナは少し寂しげに笑いながら、
「阿修羅と人は一心同体にはなれないのだから、と」
 その表情を見て保の絶望はさらに深まる。全てを十分に考え抜いた上での孤独な決意だ。そしてバルナをそこまで追い込んだのは、あの時の自分の一言なのかもしれないのだ。
「…‥そういう問題じゃないんだ」
 だからこそ、自分の言いたいことだけはバルナに伝えておこう、と保は強く思った。
「……そいつがどんな奴でも、人が殺されるのは嫌だ。そして、お前が誰かを殺して地獄に堕ちるのも、お前が戦いで殺されるのも嫌なんだ……」
 それを聞いたバルナは、ふっと息を漏らして小さく微笑むと、
「バルナが人間ならば、そう言われて嬉しかったかもしれないな。だが阿修羅にとっては別に嬉しいことではない。阿修羅に対しては、」
 保をまっすぐに見て、言った。
「そういうものだ、と笑えばよいだけだ」
「…………」
 保は、これ以上何も言うべき言葉が見つからなかった。
「だが、明日までは『あいの子』として過ごさせてもらおう。心配するな。明日の余興は『人の体』で、お前と渡り合うつもりだ。手加減は無しだぞ。手加減ができないのが、」
 バルナは小さく笑うと、
「お前のいいところだ」
 そう言って、玄関口に向かう。そして、家の中へと入っていった。
「おはよー」
 その時、本堂から声がした。障子が開き、沙羅がやつれた顔を覗かせている。
「お勤め全部任せちゃってほんとすまん。だが、おかげで出来た! 出来たぞぉ」
 沙羅はそう言って力なくピースサインを見せた。ここしばらくはほとんど本堂に缶詰で、朝まで音楽制作に勤しんでいる。A&D8曲のリハと並行して水戸さんからのリクエスト曲の制作を終え、ここ数日は自身のソロ曲の制作に集中していた。
「ここにきて叔父さんが急にオリジナル曲のオケ作ってくれって言ってきてさ。最近叔父さん年甲斐もなくヒップホップにハマってて、あたしそっち系はよく知らないから、ゼロから色んな動画観てさ、もう大変で」
 沙羅は早口で捲し立てる。徹夜のせいか少しテンションが高くなっているようだ。
「でも、レイヤ様のリクエストが一番緊張したなあ。最初に頼まれた時はお社を越えて修羅道まで逃げようかと思ったよ。いやはや、修羅場とはまさにこのこと……って、ヤクシャさ、なんかいつもにも増してテンション低くない?」
「……バルナが……」
「……バルナが、どうかしたの?」
「明日、虫を三匹集めたら、元服して阿修羅になるって、力強く断言してた……それで、天道に戦争を仕掛けるって……」
 すると沙羅は、急に怪訝な顔になって、
「『阿修羅になる』って、あの子、阿修羅じゃん?」
「いや……あいつは阿修羅と人間のハーフだから、元服して男性を選ぶことで、阿修羅になるって……」
「ふーん」と、沙羅は手を頭の後ろに組みながら言った。
「昔のあたしみたいだね」
「え?」
「昔、あたしは『アイドル』になる!』って断言してたもの。ずっと周りに変な子扱いされて育ったから、思春期になる頃には、逆に周りに媚び媚びのイタい子になった。ツインテとかにしちゃってさ、誰でも愛されるアイドルに憧れて、絶対にアイドルになってやるって豪語してた。でも、結局それじゃダメなんだよね。だってそれって、今の自分は『アイドル』じゃない、って力説してるようなもんだもの。レイヤみたいに、何があっても『自分はアイドルです』って断言できる人が、本当のアイドルになれるんだ。いや……ちょっと違うな。レイヤは『自分自身であること』によってアイドルなんだよ。だって、いつでも『自分自身であること』って、すごく難しいことだから。アイドルみたいな存在に背中を押してもらえないとそれができない、あたしみたいな人は沢山いる。だから、いつでも『自分自身』であることのできる人こそが、最強のアイドルになれるんだと思う」
 ——そうか……
 保は目を開かれた思いがした。水戸玲耶という人の凄みを、沙羅があまりにも見事に言語化してくれたのである。
「でも、あたしはバカだから、また同じ過ちを繰り返してしまう」
 沙羅は、そう言って自嘲的な笑みを浮かべる。
「他人の偶像であることは諦めたけど、今度は他人に自分の偶像を押し付けようとしてしまう。バルナが阿修羅族の人たちの期待に縛られているのはよくないことだとは思うよ。でも、その代わりに何かを見つけるとしても、それはあの子にしかできないことなんだ……あたしはずっとあの子の手を前から引っ張ろうとしていた。それじゃダメなんだ。後ろから背中を押さないと。あたしは『アイドル』じゃないから、あたしの『あり方』で背中を押すことはできない。だから『音楽』で押すしかない。見城さんが言っていたのは、きっとそういうことなんだと思う。やっぱり人間、大勝負に出る時は今まで培ってきたもので勝負するしかない。それが『縁起』なんだよ。だからもし、あたしの音楽がバルナの背中を押せなかったら、あたしの音楽は偽物だったということで構わない。それもまた『縁起』だからね。アイドル崩れの音楽バカ! 摂食障害経験アリ! 恋愛経験ナシ! その上この手は血に染まってしまった! これで音楽が偽物だったら、人としていよいよ背水の陣だわ。いいよ。上等だよ! その時は、」
 沙羅は、本堂の鴨居に張り付いているヤモリをキッと睨み、
「畜生道にでも堕ちて、爬虫類に生まれ変わってやんよ」
 そう啖呵を切って、本堂を出て行った。


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