[NO.15]20年、フリーライターやってます~webマガジンの編集長になってしまうの巻
まだ20代、会社に勤めていた頃のことです。
勤めていた会社の創業80周年記念行事の企画を担当させていただいたことがあります。時はバブル。国内外から著名なゲストを招いての大がかりなイベントでした。基調講演の講師は、ダニエル・ベル氏。『脱工業社会の到来』という著作で世界的に知られていた社会学者です。彼の講演録や社長対談をまとめた記念誌の編集も担当したのですが、ベル氏の言葉で忘れられないひと言があります。
社長対談の中でのことだったと記憶しています。「これからどんな仕事をしていきたいか」という質問に対し、彼は、
「身近な友人にほめてもらえるような仕事がしたい」と答えたのです。
正直、「え、それだけ?」と思いました。世界的な著名人の答えにしてはなんかスケールが小さい、と拍子抜けしたのです。それがずっと引っかかっていました。
でも、最近になって、「なんとなくその気持ち、わかるわかる」という気がしています。
少し前の私は、自分の名まえが載る記事が書きたい、名まえが残る本を出したいと切望していました。でも最近は、名まえなんて出ても出なくてもどっちでもいいや……という気分なのです。営業的には、載った方がいいには違いないのだけど、そんなことよりも取材をした人にすごく喜ばれるとか、記事が読者に喜ばれることのほうが嬉しいし私にとって大事なのです。だから「身近な人にほめられる仕事ができれば満足」というベル氏の言葉が今、とってもしっくりくるのです。
が、15年くらい前はまだ、名まえを出したい!と野心をたぎらせ、方向性を模索していました。
そこへ、願ってもないというべきか、大きなチャンスが巡ってきました。
それは、ある企業のwebマガジンの編集長というポストでした。今ではめずらしくもないですが、当時はまだ、手作りっぽいwebサイトはいろいろあるものの、本格的なwebマガジンというのはあまりなかったのではないかと思います。それを、社内ベンチャー的に作ろうというプロジェクトに、私も関わることになったのです。
最初は、立ち上げ期の企画づくりをお手伝いするだけのつもりだったのですが、1年がかりで細々と続いたプロジェクトは、社長プレゼンという最終段階を迎え、私も勝負スーツを買ってプレゼンするという思わぬ展開に。がんばったのは私の雇い主であるH氏や若手のK氏で、私はおまけでしかなかったのですが、めでたく社長プレゼンを通り、webマガジンはスタートすることになったのでした。
で、だれがやるの? え!? 私!?? ひ、ひとりで!?
まさかの展開でしたが、私が、そのwebマガジンの編集長をすることになったのです。
編集長という言葉のカッコイイこと。これは飛びつくしかない。しかし、一方で不安もいっぱい。
「せっかくライターとして本も出して、連載も取れて、これからバリバリ売り込んでいこうと思ったのに…」「小学生になったばかりの子どもは? 鍵っ子になるわけ?」「だいたいwebマガジンってどうやって作るの!!??」
迷っていた私の背中を押したのは、H氏のひと言でした。
「Tさん(私の昔の名まえ)は、今まで企画の仕事が多かったよね。そろそろ企画の次の段階を経験することは、Tさんのこの先のキャリアのために絶対いいと思うよ」
「次のキャリアのために」そんなこと考えたこともありませんでした。キャリアを切り開きたいなら、仕事は選ばなければならない。H氏の言葉はただがむしゃらに突っ走るしか能のなかった私に大きな気づきを与えてくれました。いや、そんなことより、ただの外注スタッフにそんな言葉をかけられるH氏はスゴイ! と、今も感謝しています。
思い起こせばH氏は、私が乳飲み子を抱えている頃、決して午後遅くからの会議を設定しませんでした。そのためにほかのスタッフがスケジュール調整に苦労していても、「だって5時スタートじゃTさんが参加できないでしょう」と、「会議は5時までで終了」のルールを徹底し、誰にも文句を言わせませんでした。
H氏のような人たちに支えられたからこそ、私は子育てに奮闘しながらも、今まで仕事を続けられたのだなあと感謝せずにはいられません(女性活躍推進法施行からさかのぼること20年の頃の話です)。
ともあれ、私はその日からフリーライターの看板を下ろし、webマガジンという未知の世界の編集長として働くことになったのでした。
(2015年03月28日「いしぷろ日記」より転載)
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